第7章 昭和の終焉

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(55)連合赤軍
(56)ルパング島の戦い
(57)モロタイ島でも……
(58)昭和の終焉

 


(55)連合赤軍 
 沖縄返還の年、1972年。まだ正月気分の残る1月24日、日米戦の古戦場、グアムのジャングルに潜んでいた日本兵が発見され、現地の警察に保護された。日本は世界第2の経済大国となっており、グアム島にもホテルや旅行会社の社員が駐在していた。グアム警察は、とりあえず病院で健康診断や身元確認をすることにして、在留日本人に立会いを求めた。日本兵救出のニュースは、一瞬にして日本人社会に広まり、深夜の病院前で出迎えた日本人らによって、名古屋出身の横井庄一元陸軍軍曹と確認された。横井は、開戦の1941(昭和16)年、名古屋で召集され中国奉天の第29師団に編入され、3年後の昭和19年、マリアナ諸島守備のためグアム島に進出、9月30日マリアナ方面で戦死したと判定されていた。日本軍の敗退後、戦友8人とジャングルに潜み、最後は2人の仲間と暮らしていたが、2人とも8年前に死亡、以後河辺の洞窟内でマンゴーなどの果物、イモ、川のカニやエビなどの水棲動物を捕獲して食糧にしていた。マンゴーの葉を叩いて布を織り、粗雑な服も作って着ていた、と語った。
 健康は異常なしと診断され、2月2日羽田に帰国して記者会見をした横井は、「恥ずかしながら帰ってきました」と、戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」の訓えに叛いたことを詫びた。1915(大正4)年生まれの横井は、20歳から30年以上を帝国陸軍に捧げた人生だったが、帰国して結婚、耐乏生活評論家として講演活動をつづけ、ユニークな名古屋弁の語り口が人気を呼び、82歳まで講演などで活躍した。
 
 2月19日、軽井沢の河合楽器の浅間山荘で、管理人の妻を人質に、5人の男が立てこもった。男たちは銃を持ち、山荘は警官隊に取りかこまれた。
 数日前から、群馬県の妙義山麓で挙動不審の男女を発見した群馬県警の警官が尋問し、指名手配中の森恒夫や永田洋子とわかり逮捕した。さらに警官隊3千人で山狩りをして男5人を発見したが、男たちは浅間山荘に逃げこみ、管理人夫人を人質にして立てこもった。犯人たちはライフル銃を管理人夫人に突きつけていたので、包囲した警官隊も犯人たちを説得するしかなかった。10日間にわたって説得をつづけた警官隊は、人質の体力が限界に達したと判断、2月28日、クレーン車に吊るした鉄球で山荘を破壊、放水で銃撃を避けながら午後6時過ぎ警官隊が突入、人質を救出して犯人5人を逮捕した。
 10日間の攻防は延々とでテレビ中継され、人々はテレビの前に釘付けにされた。この事件で、警官2名が殉職、狙撃された野次馬1人が死亡した。警官隊が突入に使った催涙ガス弾は約千発、ピストル発射は15発、100トンの水を放水したが、犯人5人を無傷で逮捕した。押収された犯人たちの武器は猟銃4、ライフル1、ピストル1丁であった。
 犯人たちは赤軍派の残党と京浜安保共闘が合流した「連合赤軍」で、榛名山などのアジトで、「総括」というリンチで仲間14人を殺し、山中に埋めた凄惨な事件も発覚した。
 
 3月15日には返還協定の批准書が交換され、沖縄返還は5月15日と決定された。
 ところが3月27日の衆議院予算委員会で、社会党の横路孝弘議員が、外務省極秘電報のコピーをもとに沖縄返還時に米軍が軍用地の地主に支払うべき基地復元費用400万ドルを日本が肩代わりする密約があったと追及した。横路議員が示した外務省の極秘電報は、71年5月28日に愛知外相(当時)が牛場駐米大使に、外相とマイヤー駐日米大使の会談内容を説明したもので、その中に、米国が支払うべき補償費を日本側が肩代わりすると受け取れる記述があると横路議員はいう。
 佐藤内閣は、密約の有無には答えず、横路が提示した極秘電報コピーの入手経路の調査に乗りだし、西山太吉毎日新聞記者が、外務省の女性事務官から入手したことを突き止め、警視庁も西山記者と女性事務官を国家公務員法違反で逮捕起訴した.この時点で佐藤内閣の密約疑惑への関心は希薄となり、男女問題を絡めての取材方法へと興味が移り、社会党や各メディアの追及も弱まった。
 沖縄返還の佐藤・ニクソンの首脳会談で、米軍は沖縄から核を撤去するが、「極東有事の場合は核の再持ち込みを日本も容認する」との密約をした。この交渉は既述したように、若泉敬京都産業大臣とキッシンジャー大統領補佐官の間で話し合われた。
 首脳会談の合意を前提に、施政権返還に関して愛知外相とジョンソン国務次官が、返還に伴う財政・経済問題を話し合い、各省庁が参加してチームを編成して作業を進めており、日本側から大蔵大臣福田赳夫の大蔵省グループも参加した。福田大蔵大臣も、アメリカから、肩代わりの要求はあったが、断ったと語った。
 1971年6月17日、日米両国での調印はテレビ中継され、沖縄返還協定の第七条では、①日本政府へ移管する米財産(米軍が建設した道路、水道等)の買い取り、②日本の非核3原則に背馳しないように核を撤去する ③沖縄米軍の雇用員の退職金を本土並みに引き上げるための資金を日本政府が肩代わりするとして、総額3億2千万ドルを日本政府が負担すると決められた。
 返還に関する経済財政問題は、大蔵省の柏木雄介財務官とアンソニー・ジューリック財務長官特別補佐官との間で話しあわれ、基地移転費などに2億ドル、通貨交換後の1億ドルの預金を含めて、総額6億8千5百万ドルと返還協定に決められた3億2千万ドルより3億6千5百万ドルも多い金額を日本が支払うと決めた。日本側から、米軍の島内外への基地移転の費用などは、国会や国民に説明できないため、柏木財務官とジューリック財務長官特別補佐官は、秘密の覚書に互いのイニシャルをサインして交換した。
 5月15日午前0時、沖縄の夜空は、いっせいに鳴り響くサイレンに揺れた。沖縄が日本に復帰したのだ。沖縄にあった1200個の核は撤去された筈だが、米軍の再持ち込みが密約で容認された。首脳同士の密約の記録は、30年後にアメリカで公開され、密使若泉敬もその記録を発表した。米軍が軍用地の地主に支払うべき基地復元費用を肩代わりした密約の疑惑を指摘しようとして逮捕された西山記者は、最高裁まで争ったが、棄却されて有罪判決が確定した。柏木、ジューリックの密約覚書もアメリカで公開されているが、日本ではその存在が否定されていた。沖縄では本土復帰を歓迎する人も多かったが、興奮が治まると、いままで住民のために建設したと米軍に恩を着せられていた水道、ガス、電力等を供給していた公社を、日本が高額な金を支払い買い取っていたことがわかった。住民の当然の権利と思っていた金融公社も、日本に買い取られていた。祖国復帰の名のもとに日本に買い取られたと反発する住民がさらに増えた。(密使若泉教授は密約の存在を告白して1996年に逝去した)
 1973(昭和48)年5月3日からの3日間、「祖国復帰の感激と発展を願って」復帰記念沖縄特別国体が、那覇市ほか県内9市1町で開かれた。21競技に、全国から3千342名が参加した。この年の秋の国体は千葉県で開かれており、沖縄の国体は開催時期、期間ともに特別だった。
 5月26日、増原恵吉防衛庁長官が、昭和天皇に「当面の防衛問題」について内奏したとき、昭和天皇が「日本の自衛力が近隣諸国に比べてそんなに大きいとは思えないが、国会ではなぜ問題になるのか」と下問した。増原は「仰せの通りです。わが国は専守防衛で、野党に批判されるような自衛隊ではありません」と述べると、昭和天皇は「防衛問題は難しいだろうが、国の守りは大事なので、旧軍の悪いことは真似せず、良いところは取り入れてしっかりやってほしい」と述べられた。
 増原は、この内奏の模様を天皇の言葉とともに新聞記者に披露し「防衛関連法案の審議を前に勇気づけられた」と話した。ところが、話の内容が新聞に載り、天皇の政治利用であるとの批難を浴び。増原は防衛庁長官を辞任した。

 

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(56)ルパング島の戦い
 
 フィリピンのルソン島とミンドロ島の間の狭い海峡を塞ぐように小さな島がある。ルパング島という南北30キロ、東西10キロ、伊豆大島ほどの島である。南からマニラ湾に向かう船は、すべて監視できる。米軍のルソン島侵攻に備えて、日本軍は水上特攻艇震洋の基地として飛行機の滑走路を築き、整備兵や警備隊など数百人の兵士が駐屯していた。  ルソン島リンガエン湾に上陸した米軍はマニラ攻略と同時に、目障りなルパング島の日本軍を殲滅した。やがて米軍は沖縄に上陸、日本は無条件降伏をした。ルパング島の日本軍は、60名前後が生き残っていた。8月半ばを過ぎると、パトロールをしながら威嚇射撃をしていた米兵が姿を消し、フィリピン兵が巡回するようになった。年末、米軍の爆撃機B17が低空で飛んできて、第14方面司令官山下奉文の命令書をビラにして撒いた。
 この命令書には「奉勅命令ニ依リ予ハ即時戦闘行動ヲ停止セントス」「投降者には食物、衛生助ヲ与ヘ、日本ニ送ス」と書いてあり、日本語にはない表現の上、「奉勅命令」という命令は軍隊用語には存在しない、アメリカ軍の謀略であるとの意見が多く、投降者はでなかった。しかし、投降勧告はビラ撒きだけでなく、元日本兵らしき日本人捕虜を連れてきて、スピーカーで終戦を告げ、投降を勧誘してまわった。翌昭和21年4月、ルパング島の日本兵41名が集団で投降した。
 ルパング島の日本兵は、脱穀前の米や放牧の牛、畑のバナナ、野豚、大トカゲ、川の魚類を食料にしていたが、米、放牧の牛、バナナなどは農民の所有物である。電気はなかったが5月から9月までの雨季を除けば、暮らし易い農村である。日本兵は、盗みを働くばかりでなく、銃で威嚇し、死傷者をだすこともあった。
 昭和24年、赤津勇一一等兵が1人で投降してきた。赤津の話で、ルパング島で一緒に行動していたのは、和歌山県出身の小野田寛郎少尉、埼玉県出身の島田庄一伍長、東京都八王子の小塚金七一等兵の3人とわかり、厚生省も調査に乗りだした。
 小野田少尉は、昭和17年に徴兵され、幹部候補生の試験に合格、九州・久留米の予備士官学校を卒業して陸軍中野学校二股分校に入校した諜報将校とわかった。正式名称でいえば、東部33部隊だが、実際にはスパイ養成学校で、「陸軍二股幹部教育隊」と校門には書かれていた。卒業してフィリピンの第14方面軍傘下の杉兵団(横山中将)に配属され、ルパング島の遊撃戦の指導を命じられ、命令書には、「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でもがんばれ。必ず、迎えにいく」と書かれていたという。
 島田庄一伍長は、埼玉県比企郡小川町で農業を営む妻帯者。出征時、長女は小学校入学前、妻は二番目の子を妊娠中だった。小塚金七一等兵は、八王子の農家の長男とわかった。
 以後、ルパング島での投降勧告には、3名の実名がスピーカーで呼ばれ、ビラには家族の写真が掲載された。島田は、出征当事妻の腹の中にいた子が、女の子であったことがビラの写真でわかった。島田にとっては、残酷なビラであった。だが、三人は、投降勧告を米軍の謀略と無視、銃で島民を威嚇しつづけた。
  昭和29年5月7日、フィリピン警察との銃撃戦で島田が死亡した。残された2人は、復讐を誓って勧告を峻拒した。昭和30年代、日本からの救出捜索隊が何度も派遣されたが、2人は姿を顕さず、死亡と推定されていた。しかし、2人は戦いつづけていた。
 昭和47年10月19日、警察隊との銃撃戦で、小塚金七が戦死した。小塚の遺体は、フィリピン警察隊によってマニラに空輸され、日本大使館が日本兵と確認し、外務省に報告した。連絡を受けた厚生省は、小野田の実兄と小塚の実弟を派遣して遺体を検分してもらい、さらに両親を呼んで荼毘に付した。フィリピン政府は、小塚を勇敢に戦った兵士として処遇、儀仗兵と軍楽隊を葬儀に派遣した。さらにマルコス大統領は、小野田救出に全面的に協力すると約束し、島民や軍に小野田の保護を命じた。
  日本では、小野田の父親と家族、戦友たち、上官だった杉兵団の谷口義美元少佐も参加する大捜索団を編成して派遣した。しかし、小野田は現われなかった。87歳の父親は、捜索隊が建設して「小野田山荘」と名づけた小屋に、
 「こだまさえ 打ち返さざり 夏山は  八十七(翁) 凡二」と書き残した。
 
 千葉県市川市に、鈴木紀夫という青年がいた。1949(昭和24)年生まれだが、法政大学中退で仕事はせず、冒険家を自称、世界50か国をヒッチハイクで放浪旅行をしていた。帰国した鈴木は、新聞報道で死亡した小塚へのフィリピン軍の弔意と敬意、さらに小野田捜索の効果がなかったことを知り、小野田元少尉を捜そう、とルパング島にやってきた。昭和49年2月のことである。世界放浪の旅で身につけた要領で、ルパング町の町長の家に泊まり、情報を仕入れた。小野田を見つけても危害を加えてはいけない、とフィリピン政府から通達がでていることも知らされた。
 小さなルパング島では各町村長は親戚同士、コミュニケーションも密だった。
 島の南東部ブロール村で、アグカワヤン川の中流に小野田がよく現われる場所があると教えられ、村長自らが案内してくれた。ジャングルが果てた山の手前の原っぱで、捜索隊が建てたらしい日の丸の旗が翻っていた。
 鈴木は、持参した蚊帳をテントにして泊り込むことにした。2月16日であった。鈴木は、ここで小野田を待つ作戦だった。朝から夜までただ待つだけだった。
 2月20日が暮れようとしていた。鈴木は夕食の準備をはじめた。そのときだった。
 「おい」と声がかかった。
 銃を持った男が、周囲を警戒しながら立っていた。小野田だった。
 鈴木は敬礼をして、「小野田少尉どの、戦争は終わりました」と、告げた。
 「おれにとっては、戦争は終わっていない」と小野田は応じた。
 2人は夜を徹して語り合い、明るくなって写真を撮り、「正式に命令を受けていない。停戦命令を受ければそれに服する」と誓った小野田と別れた。鈴木は村長宅に走り、報告すると、村中が大騒ぎになり、レーダーサイト基地からカパワン少佐が駆けつけ、空軍の飛行機でマニラに運ばれた。写真も現像され、日本大使館にも連絡された。日本から元上官の谷口義美、兄の小野田敏郎、厚生省の係官も駆けつけ、小野田救出隊が組織され、3月4日にルパング島へ出発した。島では、レーダーサイトに本部を置き、ベッド3台とテント、食糧、クッキングセットなどをポーターに担がせ、鈴木と谷口の二人が小野田と出会った広場に向かい、そこで宿営して小野田の出現を待つことにした。
 「山下奉文大将の命令書を持って、谷口義美少佐と島にきました」鈴木が書いた手紙と小野田の写真を島内各地にばら撒いていたが、それを見た小野田が姿を現したのは、3月9日の夕方だった。谷口が投降命令を伝え、それに従った小野田の戦いは30年ぶりに終了した。小野田と谷口は一睡もせずに語り合い、夜が明けると鈴木がブロール村にもどり待機していた兄敏郎と厚生省のスタッフを連れてきた。フィリピン軍幹部も駆けつけた。
 全員で村にもどると、大勢の村民が出迎え、「オノダ ヒーロー」と歓声をあげた。さらに救出本部にしていたレーダーサイトにいくと、整列した将兵が奉げ銃で迎え、小野田は基地司令官に銃を差し出し、降伏の儀式をおこなった。
 翌3月11日、小塚の墓碑に詣で、空軍のヘリコプターでマニラ・マラカニアン宮殿に運ばれ、マルコス大統領から「勇敢に長期間戦いつづけた模範的兵士」と絶賛された。
 ジャングルで戦った銃を構え、ぼろぼろの軍服、戦闘帽姿の小野田の動作はきびきびと凛々しく、旧日本軍人の模範と賞賛される一方、軍国主義の亡霊と批判の対象ともされた。
 羽田に到着したときの記者会見で、——人生のもっとも貴重な時期である30年間をジャングルの中で暮らしたことについて、と質問がでたとき
 「若い、勢い盛んなときに大事な仕事を全身でやったことを幸福に思います」と答えている。その後、新宿の国立東京第一病院に入院、健康診断を受けた。入院中も各新聞社の取材攻勢を受けたが、「2人の部下の死を踏み台にしての生還、責任をとって自決せよ」「軍国の亡霊を守る国立病院を爆破する」と批判的な手紙も舞いこんだ。もちろん、激励賞賛の声も多かった。3月30日の退院が決まると、厚生省はその後のスケジュールを提示した。「靖国神社参拝—千鳥ケ淵参詣—皇居参拝—田中首相表敬後新幹線で和歌山に帰郷」となっていた。小野田が希望していた戦友島田と小塚の墓参ははいっていない。小野田は、厚生省の計画を無視して前夜に病院を脱出して、埼玉、都下八王子の二人の墓を詣でようとして戦友に相談した。驚いた戦友が厚生省と交渉、帰郷を遅らせ戦友二人の墓参を認めさせた。
 桜満開の4月1日、靖国神社に参拝した。小野田は、田中内閣からもらった見舞金を、全額靖国神社に寄付していた。皇居参拝を前に、「皇居中庭でお待ちください。お散歩中の陛下にお目にかかれるかもしれません」と、厚生省から告げられた。陛下が、30年も無益で迷惑な戦争をやって帰った元軍人に、どんな言葉をかけていいのか困るだろう、という理由で謝辞した小野田は、二重橋前で皇居参拝をして死んだ戦友小塚、島田の墓参をして帰郷してしまった。
 
 上官の命なくしては停戦には応じられない、と頑なに30年も戦いつづけ、部下2名を戦死させ、総理の見舞金100万円を靖国神社へ寄付、天皇との面談を謝辞した小野田の行動は、理解されない部分もあったようだ。直属上官の命にしか従わぬという軍律を守りつづけた帝国軍人が、「朕は汝らの大元帥なるぞ」と宣明した天皇との面談を拒否した。小野田の行動に国民は戸惑い、世論は毀誉褒貶に揺れた。小野田は、次兄の住むブラジルに移住した。
 小野田を発見、救出劇を演出した鈴木は、雪男を探す旅にでて雪崩に遭って死亡した。

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(57)モロタイ島でも……
 
 最後の生存日本兵として全国をゆるがした小野田騒動がおさまり、年末を迎えると、インドネシア政府から、モロタイ島のジャングルに潜伏していた日本兵を発見、保護したとの連絡を受けた。モロタイ島とは、インドネシア領モルッカ諸島最北端の、淡路島の三倍ほどの島で、日本軍はニューギニア方面への連絡路として占領していた。
 米軍は、レイテ島上陸の前哨戦として、パラオ諸島ペリリュー島と同時に進攻してきた。ペリリュー島では日本軍の反撃がすさまじく米軍は苦戦したが、日本軍の兵力が少ないモロタイ島では、米軍はあっさり上陸、日本軍がサンゴ礁の土質で建設半ばに放棄した滑走路に鉄板を敷き詰め、4、5日で航空基地を完成させた。米軍との戦闘で100名余の日本兵が戦死、13名が捕虜になり、終戦時、660名の日本軍将兵が降伏していた。
 そのモロタイ島のジャングルに日本兵が30年間も潜伏していたというのだ。小野田元少尉と異なり、原住民との紛争は起こさず、ジャングルにひっそりと暮らしていたらしい。
  ジャカルタに連れていかれた日本兵は、日本大使館からの連絡で厚生省が調査したところ、中村輝夫一等兵とわかったが、中村には日本の国籍がなかった。中村は、台湾原住民アミ族(高砂族)の出身で、教育は日本語で受けたから中国語が出来ない。日本語のほかにアミ語ができるが、8部族ある山地民族にはアミ語が通じない部族もあり、山地民族同士では日本語で意思を疎通させていた。
 戦争が激しくなると、南方戦線の飛行場建設や糧秣運搬の作業員として高砂族の若者が募集されたが、間もなく徴兵されるようになった。結婚して4年、妻が妊娠したばかりの中村は、昭和18年11月、台湾第1連隊に高砂族の青年320名で編成された竜神隊に徴兵で配属され、4か月の新兵教育を受け、マニラ経由でハルマヘラ島北のモロタイ島に、高砂族だけで編成された百余名が決死遊撃隊員として、日本人の分隊長に指揮されて守備についた。
 高砂兵は、20万人ほどが徴用、徴兵され、南海の孤島での戦闘や飛行場建設作業、糧秣運搬作業に従事したが、高砂族は勇敢で日本に忠節をつくした。ニューギニアで連合軍の反攻がはじまると、戦死した日本兵の銃を手に、作業員も壕の中で戦った。
 敵飛行場に強行着陸して切り込む特攻挺身隊(レイテ・沖縄)にも参加した。
 選抜された20万人のうち、5万人が還ってこなかったといわれている。
 日本が降伏したとき、中国を代表していたのは国民党の蒋介石だったが、国民党政府は毛沢東の共産党軍に敗れて台湾に逃げこみ、日本は、台湾を支配していた蒋介石を中国の代表者としていた。ところが、1972(昭和47)年、田中角栄内閣が毛沢東の中華人民共和国と国交を回復し、日本は日台条約を失効させ、中国を代表するのは毛沢東の中国のみとした。その結果、中村一等兵の故郷である台湾と日本とは国交がなくなった。さらに国交を回復した中華人民共和国へ気兼ねして、日本は迂闊に動けなかった。インドネシア政府が、中村一等兵の希望を訊き、本名李光輝として台湾へ送還されることになった。しかも、中村輝夫はアミ族名でスイニーと呼ばれていたのに、日本に中村輝夫と改名され、台湾では中国語の李光輝を強要されたが、日本語教育を受けたため、日本語とアミ語しかわからない。モロタイ島の住民はインドネシア語(マレー語)だが、アミ語と似ており共通の単語が多く、ゼスチャーをつかえばある程度の意思はつたえらえた。台湾では、中国本土からやってきた国民党員の本省人が統治しており、原住民族と蔑視され、李光輝は中国語がわからないと差別された。
 李光輝は、使用可能な日本軍の三八式歩兵銃と弾93発、山刀を持ち、ぼろぼろの米兵の軍服を着て救出された。日本の規則で、厚生省は復員手当て3万円、未払い給料3万8千円しか支払われないとわかり、発足したばかりの三木武夫内閣(金脈問題で田中内閣は退陣)では閣僚が5万円、政務次官が1万円を拠出して見舞い金として送った。そのほかに日本各地の戦友会や旧軍人からの見舞いや贈呈品が多かったらしい。
 台湾に帰ったものの、李光輝はあまり優遇されていない、と日本に伝わってきた。
 
 4月、北ベトナム軍が勝利、米軍の敗北でベトナム戦が終結した、朝鮮特需につづいて日本を潤したベトナム特需であったが、サイゴン陥落の瞬間はテレビで放映され、アメリカの威信は地に落ちた。特にサイゴン沖の空母では、避難する親米ベトナム人やアメリカ民間人を乗せて、列を作って着艦するヘリコプターの駐機余裕がなく、次々に海中に放棄されるシーンは戦争の虚しさをリアルに映しだした。
 
 7月、皇太子を名誉総裁として、沖縄では本土復帰記念の最大行事「沖縄国際海洋博覧会」が「海の未来」をテーマに31か国が参加して開かれることになり、19日には三木総理も出席して開会式が挙行されることになっていた。その前日、糸満市の「ひめゆりの塔」で皇太子夫妻が献花したとき、突然火炎瓶が投擲された。壕の中に隠れていた沖縄解放同盟などの過激派2人が投げた火炎瓶は、皇太子夫妻には命中しなかったが、皇太子の至近で炎上した。皇太子夫妻は無事避難し、犯人は逮捕された。
 その夜、皇太子は「沖縄戦における県民の傷跡を深く顧み、平和の願いを未来につなぐ」と、予定外の異例の談話を発表した。
 「ひめゆり」とは、沖縄地上戦で、臨時看護婦として動員された沖縄県立第一女学校と沖縄師範学校の生徒たちで編成された女子生徒部隊を、両校の校誌名「乙姫」と「白百合」を組み合わせて「ひめゆり部隊」としたものである。ひめゆり部隊は。女子生徒322名と引率教師18名で編成され、陸軍病院で傷病兵の手当てにあたっていたが、米軍の進攻で、病院関係者とともに糸満の壕に避難してきた。病院にされていた南風原の壕から、弾丸が飛来する中を逃げる途中にも相当の犠牲者をだしたが、糸満の壕から先にはもう逃げていく場所はない。病院当局にも生徒たちを保護する能力はない。6月18日、八方ふさがりの病院側は、残っていたひめゆり部隊員は、各自の能力で生きていったほうが生き延びる可能性が高いと判断して解散を命じた。解散を命じられた女子隊員たちは、砲撃の合間を縫って三々五々暗がりの壕外へ脱出した。脱出に失敗して敵弾に倒れたり、脱出は困難と絶望して壕内で自殺したり、壕内には流れる血のりに硝煙が漂い、苦悶する女子隊員の表情が地獄絵を描き出した。結局、教師・学徒240名中136名が死亡、行方不明となった。沖縄戦終息1年も経たない昭和21年4月、ひめゆり部隊終焉の地となった糸満の沖縄陸軍病院第3外科の壕跡に慰霊碑を建て「ひめゆりの塔」と名づけたが、「塔」と呼ばれる慰霊碑は、うっかりすると見落とすような小さな石碑である。戦死した生徒の親や同級生が多くの愛と涙をこめて建立した慰霊塔だったが、米軍の軍政下、金もなく、とりあえずひめゆり部隊終焉の壕に建てられたものである。
 壕は、梯子を使うほど深かったが、火炎瓶で皇太子を襲った犯人たちは、数日前から皇太子夫妻を待って壕に潜伏しており、完全に警備の手落ちであった。
 
 9月、天皇、皇后両陛下が、フォード大統領の招待で、2週間の予定でアメリカを訪問した。在留邦人はもとより、アメリカ人からも歓迎された。しかし、ホワイトハウスでの歓迎晩餐会での天皇のスピーチで、戦後の対日援助に感謝する言葉の中に「悲しみの戦争」と述べたのを、故意に謝罪の言葉と訳されたとも報じられたが、反響はあまりなかった。天皇と皇后の外遊の模様は、連日テレビで放送された。満面に笑みを浮かべて拍手するディズニーランドでの両陛下の姿は、長年の使命を果たして引退した老夫婦を思わせた。帰国してからの公式記者会見では、苦痛に顔を歪めて、「広島の市民には気の毒だったが、戦争中のことだし、原爆もやむをえなかった」と言明した。その後、「どんなテレビ番組をご覧になっていますか」と質問され、「テレビ会社の競争が激しい折から、特定番組を名指しするのは控えさせて下さい」と記者たちを爆笑させた。天皇自身も一緒に笑っていた。天皇が笑う顔は、筆者の年代では稀有のことであった。地方巡幸で国民に接するときも、破顔するほどの笑いはなかったと思う。天皇の高笑いを見たかったわけではないが、実直な天皇の笑顔は救われる思いだった。その後、春秋の園遊会など、天皇が声をかける人物にマイクを仕こみ、天皇との会話が放送されることが多くなったが、天皇のたくまざるユーモアが笑いを誘った。圧巻は、柔道のチャンピオン山下泰裕選手に、「柔道は骨が折れますか(柔道は大変でしょう、の意)」の問いかけに「はい、昨年骨折しました」と山下選手が答え、周囲に爆笑を呼んだ。試合中に骨折したことは周知の事実だったからだ。
 1976年春、戦時中で中止された小学校の修学旅行を、台湾旅行で再現しようという話がまとまり、修学旅行に参加して李光輝にも会ってみようと筆者は決心した。台湾旅行では、お定まりの観光コースを付き合ったあと、旅行の一行と別れ、16ミリのアイモを持って東海岸花連に飛び、そこからタクシーで鳳林近くの李さんの家を訪問する予定で、昨夜のうちに取材手配と案内を依頼していたAさんを訪れると
 「昨日は李さんの家に案内すると約束したが、警察が案内してはいけないといってきた。昨夜、李さんの所在を確認しようと思って近くの知人に連絡したら、警察に報告された。李さんの家は教えるけど案内はできない」と昨日と打って変わって、協力できないという。「警察が李さんの取材を拒否する理由はなんですか」と尋ねると  「私にもわかりません……、貴方が、ここを出発したら、私は警察に連絡しなければなりません」とAさんは、流暢な日本語でいう。
 台湾では、日本の統治時代に教育を受けた年配の本島人は日本語を話す。中国本土からやってきた国民党系の本省人、それに先住民族と三者に相当な隔たりが感じられた。
 李光輝の家は小さいが、新築の家だった。家の横手から40代の男がでてきて
 「李さんは留守です。私は留守番の親戚の者です。李さんは疲れました。家族と一緒に温泉にいきました。1週間か、10日、もっといるかもしれません」という。
 玄関のドアに手をかけると、すんなり開いた。中は四畳半ほどの土間で、テーブルの上には色鮮やかな日本人形が数点、壁には日本各地の戦友会の寄せ書きの日章旗が、ところ狭しと貼られていた。家は整然と片づき、生活の気配は少ないが、尾羽うち枯らした寂寞感はない。表にでて横手にまわると、○○警察処と書かれた自転車が一台あり、留守番を名乗った男が乗ってきたらしい。筆者は、地方のテレビ局に勤めていたので、亜東関係協会を通じて総統府の取材許可をとっていたが役には立たなかった。しかし、旧日本兵からのプレゼントが多く、救われた想いで李光輝の家を辞去した。
 李光輝が、幸せに暮らしているようでよかった。筆者はしみじみ喜んだ。
 その夜、台東のホテルに泊まり、アミ族夫婦から李光輝の話しを聞いた。
 出征前結婚していた李光輝が帰国したとき、妻の李蘭英と息子李弘をはじめ、親戚友人が盛大に鳴らす爆竹、新聞記者に一般市民、凱旋将軍のように迎えられた。マイクロバスで台東県に向かう車中、妻は再婚して新しい夫を迎えていたことを打ち明けた。李光輝は激怒して妻をバスから降ろした。
 李蘭英は、遺髪と爪が送られてきたが夫の生還を信じて、女ひとりで田植えや稲刈りをした。時には漁のため海にでることもあった。もちろん、幼い息子李弘も立派に育てた。大変な苦労だった。終戦から10年ほど経って、村の長老の勧めで、16歳年上のアミ族の男と再婚した。男は、息子を可愛がり、農作業にいそしんだ。模範的な夫だった。
 息子李弘は21歳で結婚して子供もできていた。李光輝には4人も孫がいたのだ。
 李弘も、母の再婚は苦渋の選択で、再婚後も李光輝の生還を期待し心を配っていたと口を添えたが、李光輝は心を開かなかった。ついに村の長老が出馬して三者の話を聞き、再婚相手が家をでるといいだした。再婚相手はアミ族で名前をチンムといい、日本名も中国名ももらっていないという。アミ族には文字がなく、チンムをどう書くかを問われても困るのだそうだ。以後、72歳のチンムが家をでた。
 李愛蘭と一緒に住むようになった李光輝は、生還して4年経った1979(昭和54)年、60歳で肺ガンのため死亡した。

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(58)昭和の終焉

 

 昭和51(1976)年7月、ロッキード問題で田中角栄前総理が逮捕され、三木武夫内閣の倒閣運動が起こり国会は騒然としていた。その頃、宮内庁記者クラブの会見で「皇居の中から、どんな景色をご覧になっていますか」と問われて、「もちろん国会議事堂です」と天皇は答えて、記者たちを笑わせた。
昭和天皇は、明治34年4月29日に生まれた。明治34年は、西暦1901年、20世紀の入り口ということである。ということは、天皇が父大正天皇の崩御で、統治権を継いだ西暦1926年の昭和元年、天皇は25歳であった。
 1945年、敗戦のときは44歳、訪米したのは74歳である。
 昭和62(1987)年、86歳のとき、歴代天皇としては初めての開腹手術を受けた。良質の腫瘍摘出のための手術と公表された。翌63年8月15日、全国戦没者追悼式に、那須の御用邸で静養中の昭和天皇は、強硬に出席を主張、ヘリコプターで帰京して参列した。その1か月後の9月、病状が悪化して昭和天皇は宮内庁病院に入院した。天皇は、そのまま快復することなく、4か月後の昭和64年1月7日、87歳で崩御した。病名は十二指腸がんといわれた。

平成元年は1月8日からはじまった。
 昭和天皇の崩御とともに、天皇の戦争責任が論じられるようになった。
 明治憲法では天皇の統師大権も統治大権も輔弼者の責任というのが、天皇無責任論者の主張であったが、筆者は無条件には納得はできなかった。記者会見の席上、戦争責任を問われた昭和天皇は、文学的素養がないのでわかりませんと答えをはぐらした。
 だから昭和天皇が崩御したあと、天皇に戦争責任はあると発言した長崎本島市長には、筆者も共感を持った。 しかし、市長は右翼に銃撃されてしまった。

 平成15年、月刊「文芸春秋」7月号の誌上に、上智大学加藤恭子元講師が発見した昭和天皇の「謝罪詔勅草稿」が公開された。草稿の筆者は1948(昭和23)年から1953(昭和28)年まで宮内庁長官をしていた田島道治で、田島の伝記執筆のため加籐が田島家から借用した資料の中に謝罪詔勅の草稿がはいっていたという。草稿の文面は、
 「朕、即位以来茲(ここ)ニ二十有余年、夙夜祖宗(しゅくやそしゅう)ト萬姓(ばんせい)トニ背(そむ)カンコトヲ恐レ、自(みずか)ラ之(こ)レ勉(つと)メタレドモ、勢(いきおい)ノ趨(おもむ)ク所能(よ)ク支フルナク、先ニ善隣(ぜんりん)ノ誼(よしみ)ヲ失ヒ、延(ひい)テ事ヲ列強ト構ヘ遂ニ悲痛ナル敗戦ニ終リ 惨苛今日ノ甚(はなはだ)シキニ至ル。屍(しかばね)ヲ戦場ニ暴(さら)シ、命ヲ職域(しょくいき)ニ致シタルモノ算(ざん)ナク、思フテ其人及(および)其遺族ニ及ブ時、誠ニ忡怛ノ情禁ズル能(あた)ハズ。戦傷ヲ負ヒ戦災ヲ被(こうむ)リ身ヲ異域(いいき)ニ留メラレ、産ヲ外地ニ失ヒタルモノ亦(また)数フベカラズ、剰(あまつさ)ヘ一般産業ノ不振、諸価(しょか)ノ昂騰、衣食住ノ窮迫等ニヨル億兆塗炭(とたん)ノ困苦ハ誠に国家未曾有(みぞう)ノ災殃(さいおう)トイフベク、静カニ之(これ)ヲ念(おも)フ時憂心灼(ゆうしんや)クガ如シ。朕ノ不徳ナル、深ク天下ニ愧(は)ズ。身九重(きゅうちょう)ニアルモ自ラ安カラズ。心ヲ萬(ばん)姓(せい)ノ上ニ置キ負荷(ふか)ノ重キニ惑(まど)フ。
然リト雖(いえど)モ方今(ほうこん)、稀有(けう)ノ世変(せいへん)ニ際(さい)曾シ天下猶(なお)騒然タリ 身ヲ正シウシ己(おの)レヲ潔(いさぎよ)クスルニ急ニシテ国家百年ノ憂(うれい)ヲ忘レ一日ノ安キヲ偸(ぬす)ムガ如キハ眞(まこと)に躬(み)ヲ責ムル所以(ゆえん)ニアラズ。之ヲ内外各般ノ情勢ニ稽(かんが)ヘ敢(あえ)テ挺身(ていしん)時艱(じかん)ニ當(あた)リ、徳ヲ修メテ禍(わざわい)ヲ嫁シ、善ヲ行ッテ殃(わざわい)ヲ攘(はら)ヒ、誓ッテ国運ノ再建、国民ノ康(こう)福(ふく)ニ寄与(きよ)シ以ッテ祖宗(そそう)及(および)萬(ばん)姓(せい)ニ謝セントス。全国民亦(また)朕ノ意ヲ諒(りょう)トシ中外の形勢ヲ察シ同心協力各(おのおの)其天職ヲ尽クシ以ッテ非常の時局ヲ克服シ国威ヲ恢弘(かいこう)センコトヲ庶幾(こいねが)フ。」
 文語文になじみのすくない読者のために、著者は口語訳を試みている。
『即位以来二十余年、始祖以来の代々の天皇と国民に背くことのないよう日夜勉めてきたが、時の流れを変えることができず、善隣との友好を失い、列強と戦い、遂に悲痛なる敗戦に終り、今日の如き甚だしい惨禍を招くに至った。屍を戦場に暴し、また職場で命を落とした人々は数えようもなく、死者とその遺族に思いを致すとき、真に心痛の思いを禁じ得ない。また戦傷を負い、戦災を被り、あるいは異国の地に抑留された人達や外地で財産を失った人も数え切れない。その上一般産業の不振、諸物価の高騰、衣食住の窮迫などによる数え切れないほど多くの人々の塗炭の苦しみは、まさに国家未曾有の災いというべきである。静かにこれらを考えるとき、心配の炎は身を焼くようである。しかしながら現今は稀有の激変期にあり、世情は騒然としている。自分一人を正しく潔くすることを急ぐあまり、国家百年の憂を忘れ目先の安らかさを求めることは、真に責任をとることにはならないと考える。内外の情勢に鑑み、敢えて身を挺して艱難に立ち向かい、徳行を修め善行を積み禍を払って、国運の再建と国民の幸福に尽すことにより祖宗と国民に謝罪しようと思う。全国民もまた、朕の意を諒とし、内外の形勢を察し、心を合わせて協力し、それぞれの天職に尽すことによってこの非常時を克服し国威をひろめることを心より願う』
 筆者の田島直治は、芦田均首相(昭和23年3月10日~10月15日)の要請で宮内府長官に就任し、昭和天皇に仕えていた。この謝罪詔勅は、A級戦犯らの処刑の前後、天皇の退位の噂が流れたが、その時期の謝罪詔勅原稿であった可能性が高い。天皇がどう考えていたかわからないが、田島が天皇の意思を無視して勝手に書いたとも思えない。天皇の意思を尊重した原稿にちがいない。この時期、天皇も悶々としていたと想像すると、あのときわだかまっていた天皇の戦争責任への思いが晴れる気分であった。それにしても、この詔勅は、日の目をみなかったのはなぜか。
 東京裁判の判決直前に、田島直治を宮内府長官に任命した芦田総理は退任、吉田総理が誕生していたからではないだろうか。


 平成16(2004)年10月、今上天皇の秋の園遊会の模様がテレビで中継されていた。招待客にあらかじめマイクをつけ、天皇との会話を中継をしていた。
 この日は、将棋の永世棋聖、米長邦雄棋士にマイクがつけられていた。天皇の質問(最近はいかがですかといった質問と記憶している)に「日本中の学校に国旗を掲げて国歌を斉唱させるのが私の仕事でございます」と棋士は報告した。すると天皇は、「強制でないのが望ましい」といった。「もちろんそのつもりです」と棋士は答えたが、バツのわるそうな表情だった。棋士は都内の教育委員をしており、教育委員会は各公立校の公式行事に日の丸掲揚と君が代斉唱を全校で実施せよと指令、いうことを聞かない教師は懲罰にかけていたらしい。さらに職員会議などでは、挙手で採決することも禁止していた。
 米長棋士は、陛下、私を褒めてください。一生懸命君が代と日の丸の普及に努めていますから……といいたかったらしいが、天皇も鮮やかに、強制はいけませんよ、とたしなめた。うっかり、がんばってください、とでもいおうものなら、天皇から激励された、と天皇の言葉は利用されていただろう。
 その翌年、天皇皇后両陛下が揃って、戦没者を慰霊し平和を祈念するため、太平洋戦争の激戦地、北マリアナ諸島のサイパン島(現・米国領)を訪問、事前の日程にはなかった太平洋韓国人慰霊平和塔と、沖縄の塔(沖縄出身の犠牲者を祀る)にも立ち寄って祈りを奉げたと、テレビニュースで報じられた、
多くの日本人女性が、崖から飛び降りて自殺したマッピ岬でも祈りを奉げて父昭和天皇の思いに添った、と筆者は考えた。父昭和天皇の心に籠っていた悔恨の情をそのまま、サイパンで吐露したのだ。もしかすると、この日が真の昭和の終りだったかもしれないと思った。

 ところが2010(平成22)年6月16日、国会でシベリア特措法(戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法)が成立した。この法律は、戦後シベリアに抑留され強制労働を強いられた人たちに特別給付金を支給するもので(25万円〜150万円)戦後65年経った現在、死亡している元抑留者も多く、その場合は相続人に支払うとしている。国際法上、捕虜の労働賃金は、抑留した国が労働証明を発行して、労働をした捕虜の母国が支払うことになっているが、ソ連は労働証明を発行せず、日本はそれを口実に支払いを拒否した。元抑留者たちは、国家賠償訴訟を起こしたが、裁判所が判断することではない、と棄却したので議員立法で提出可決されたのである。
 原爆被爆者の認定を巡っても、まだ解決されていないケースもある。
 旧軍人や軍属とその遺族は恩給や「戦傷病者戦没者等援護法援護法」の適用を受けているのに、空襲被害者の援護措置は一切ないとして救済立法を求める空襲被害者の全国組織も、終戦記念日の8月15日に結成された。
これらの問題が決着しなければ〝戦後〟は終わらないのではないか。

(おわり)

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昭和の大戦争 南條岳彦 copyright by Takehiko Nanjo 2010