第6章 戦後のはじまり

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 (45)昭和天皇の再出発
 (46)朝鮮戦争
 (47)国連軍、後退か退却か?
 (48)第八軍司令官にリッジウェイ
 (49)マッカーサーが解任された
 (50)休戦会談とサンフランシスコ平和条約
 (51)忘れられていたBC級戦犯
 (52)マグロ漁師たちの被爆
 (53)もはや戦後ではない
 (54)所得倍増と東京オリンピック
 

 (45)昭和天皇の再出発
 昭和24(1949)年を迎えて、天皇の退位が噂となり巷に流れた。
 開戦時の総理東條英機の責任は重大で、日本国民を塗炭の苦しみを味あわせた咎は避けられず当然と思ったが、広田などの絞首刑は、戦勝国の恣意による懲罰、復讐ともいえるようで後味がわるく、釈然としない鬱屈の思いをのこした。
 天皇にしても、即位以来、股肱としてきた大臣たちが裁かれるのに、黙念とするしかなかったが、国体が護持されたことには安堵したにちがいない。国体とは、神武天皇以来つづいた二千六〇〇年の皇統(天皇家の血統)の保持をいう。
 極東裁判の処刑が実施されたのを機会に、退位するとの噂となったらしい。
 2月15日、総司令部は国際検察局を閉鎖したと発表した。一方的な発表で、日本政府には通知されなかったが、検察官がいなければ、被告の起訴はできず、極東裁判は閉幕した。迂闊に詮索すれば、ソ連が極東委員会の開会を要求、新たにA級戦犯を起訴して再度審判を開始せよと要求する恐れもあった。閉幕が決定すれば、天皇の不起訴も確定する。
 
 その頃、ソ連が解放したポーランドの選挙を巡って米ソの対立が激化、米英仏ソ四か国共同管理のベルリンでは、ソ連が他の三国の管理地域を封鎖、道路、鉄道など地上の輸送手段をすべて遮断した。米ソの対立はアジアにも持ちこまれ、中国内戦は共産軍の勝利となり、米国は、ソ連、中国、北朝鮮に対抗するために、日本をアジアの前進基地にしようと考えた。そのためには、日本を経済的に自立させるのが急務であるとして、米国・デトロイト銀行頭取ジョセフ・M・ドッジに日本の経済安定の方策を研究させた。
 ドッジは、「日本の経済は、アメリカの経済援助に頼りながら、国内的には補助金に縋って成り立っている。アメリカの経済援助や政府の公的援助で企業が成り立っているようでは、米国の同盟国として独立できない」と、提言した。
 昭和24年度の日本の予算はドッジの方針を基本に編成され、財政インフレーションは沈静化した。が、経済はデフレに追いこまれ、日銀券の収縮には成功したが、中小企業の倒産と失業者が急増した。大企業では人員整理を強行し、反対する労働組合との対立が激化した。戦後4年、戦災都市にはまだ焼け跡が残り、食料も不足する暗い世相であった。
 
 晴れやらぬ思いの天皇は、国民を激励して自らを鼓舞したいと考えた。そのためには、地方巡幸を再開することだと考えた。前述したように天皇の地方巡幸は、敗戦直後の昭和20年の11月12日、GHQの了解を得て伊勢神宮に参拝したことに始まる。敗戦で天皇を恨む民衆の行動が懸念されたが、天皇はどこにいっても歓迎された。つい最近まで、天皇の命令と信じて戦った民衆は、同情と畏敬の念で天皇に接した。
 昭和21年には、神奈川、東京、群馬、埼玉、千葉、静岡、愛知、岐阜、茨城と関東・東海地方の九県をまわったが、すべての巡幸先で、熱狂的な歓迎を受けた。天皇を恨み、投石する戦災者や復員兵、引揚者があれば取材したいと期待して同行した内外の記者やカメラマンは、落胆しながら、熱狂的な国民の天皇崇拝の念におどろいた。
 翌22年は、関西、東北、甲信越、北陸、中国、山陰と本州全域を巡り、国民の歓迎は過熱していった。特に原爆被災地広島では、民衆は日の丸の小旗を打ち振り、天皇陛下バンザイを連呼した。広島市では、「天皇陛下本市行幸に対する感謝決議文」を決議した。
 A級戦犯が処刑された昭和23年の巡幸はおこなわれなかった。
 
 さて昭和24年5月、天皇は九州6県を訪問して巡幸を再開した。米軍占領下で主権が及ばない沖縄は除外されたが、九州滞在は正身23日間、190か所の巡幸であった。北九州の工業地帯で戦災からの復旧に励む八幡製鉄所、三菱化成、安川電機などの工場を視察、引揚者住宅、戦場で夫を失った未亡人が集まって働く授産場、孤児院をまわり原爆被災都市長崎で被爆者を激励した。再び佐賀県にもどり熊本県に向かったが、その途中の5月29日、福岡県大牟田市の三池炭鉱三川坑に巡幸し、キャップライトをつけた坑内帽をかぶり、作業服姿で天皇は地下数十メートルの切羽(石炭採掘の現場)で、実際に石炭を採掘する作業員を激励した。三池炭鉱の閉山とともに姿を消した三川坑だが、閉山までその場所は「天皇切羽」と呼ばれて保存されていた。そのとき天皇が使用した坑内帽や作業服は「旧三井港倶楽部」にいまも保管されている。特別の配慮があったとはいえ、天皇が地底数十メートルの切羽に降り立つのは未曾有のできごとである。工場や炭鉱の現場作業員の大半は労働組合員で、いままで天皇制ハンタイを叫んでいた男たちだが、天皇から声をかけられると緊張に頬を染めて応対していた。
 
 6月27日、シベリアに抑留されていた日本人の送還が再開された。舞鶴港に到着すると復員兵たちはインターナショナルを歌いながら下船、出迎えの家族に共産革命をおこなうための帰国と口々に訴えた。舞鶴から関東、東北地方に帰郷する兵士たちのうち、240人が東京で下車して共産党本部に駆けこみ入党を申しいれたと伝えられた。
  さらに、ドッジのデフレ政策を受け入れた日本政府は、国鉄(JR)をはじめ大企業の人員整理を押し進め、各労働組合が反対闘争を繰り広げていた。大量10万人の整理を企図した国鉄は、労使交渉中の7月4日、東武鉄道伊勢崎線との立体交差点から水戸方向へ50メートルの国鉄常磐線の線路上で、国鉄総裁下山定則がバラバラ死体で発見された。捜査当局は自殺の可能性が高いと判断したが死因を断定できず、迷宮入りとなった。
  その9日後、国鉄中央線三鷹駅で無人の電車が車庫から暴走、駅舎を突き抜けて駅前の民家に突入、死者6人、重軽傷者は20人を超えた。事件は、人員整理に反対する国鉄労組の共産党員の共同謀議の犯行として、10人が検挙された。しかし裁判の結果、9人が無罪で、1人だけが死刑の判決を受けたが、被告は獄中で脳腫瘍のため病死した。
  さらに8月17日未明、福島県の東北本線松川駅と金谷川駅のあいだで、上りの旅客列車が脱線転覆し、蒸気機関車の乗務員3人が死亡した。9人の国鉄労組員と11人の東芝労組員が逮捕された。ふたつの組合員は、共同謀議の上犯行を実施したとして起訴され、一審、二審ともに被告全員を有罪とし、5人に死刑、5人に無期懲役、その他10人の被告も7年から15年の有期刑が言い渡された。
  全国的に人員整理反対の労働組合の闘争が展開されている最中の事件で、官憲が日本共産党員の犯行との予断ででっちあげたと疑われ、作家広津和郎らの救援活動で最高裁の差し戻しを経て、やり直し裁判の結果、事件14年後、全員に無罪の判決が下された。
 この事件では唯一の目撃者がいた。地元の斉藤金作という人だ。
 斉藤金作は、米兵らしきグループ12人がボルトを抜いているのを目撃した。斉藤は、その場で「口外するな。口外したら軍法会議だ」と脅された。数日後、男がやってきて、福島市にあるCIC(米国防諜部)に出頭するようにと告げられた。怖くなった斉藤は、弟が住む横浜に引っ越したが、昭和25年1月に行方不明となり40日後に水死体で発見された。数々の謎が未だに明らかになっていない。真犯人は誰だったのか? 事件は謎のまま闇に葬られた。ソ連との冷戦がヒートアップ、共産党関係者を排除しておくための米軍の謀略であるとウワサされた。半信半疑ながら、不気味な話として流布していた。

 

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 (46)朝鮮戦争
 
 朝鮮民主儀共和国(北朝鮮)の軍隊が、大韓民国(韓国)のソウルに侵攻したのは、昭和25(1950)年6月25日未明のことである。不意を突かれた米・韓軍は、一方的に釜山近郊まで追いこまれ、共産軍は日本にも来攻する勢いであった。慌てたマッカーサーは在日米軍を出動させ、首相吉田茂に政府直轄の警察予備隊7万5千人の創設と海上保安庁の保安官8千名の増員を指令した。警察予備隊の創設は、明らかな憲法違反であった。国連安保理は、マッカーサーに国連軍の指揮を認め、国連軍の戦いとした。9月、マッカーサーは、補給路の延びきった北朝鮮軍の背後仁川に国連軍を上陸させ、戦局を逆転した。
 米韓以外の国連軍は、タイ国軍一個大隊、トルコ国軍一個旅団が派遣されていたが、オランダ軍の1個大隊、英国の1個旅団、カナダの1個旅団も韓国に向かっていた。国連軍の将兵は、中朝国境の鴨緑江まで進撃すればこの戦争は終わると楽観していた。
 前線を視察したマッカーサーは、鴨緑江に向かって前進せよと国連軍に命令したが、米統合本部は、「韓国軍以外の軍隊を満州国境または朝鮮北東部に進出させてはならない」と賛成できないと連絡してきた。満州、沿海州など中国、ソ連の領土に近づいてあたらしい紛争のタネにしたくなかったのだ。統合本部は、反対意見を述べたものの、マッカーサーの楽観論に同意してしまった。
 
 日本海に面した朝鮮半島東海岸の元山には、敵前上陸のために米海兵第1師団が釜山から運ばれた。しかし元山沖の海面には、北朝鮮軍が敷設した機雷が多く、上陸部隊は元山沖の日本海で遊弋しながら掃海が済むのを待っていた。掃海作戦には、日本の掃海隊も参加していた。日本の掃海隊は、米軍が日本封鎖のためにばら撒いた大量の機雷を除去するため海上保安庁が旧海軍の掃海経験者を集めて日本沿岸の航海安全のために編成した組織だったが、米軍は掃海実施部隊が足りず、海上保安庁に協力を要請した。
 大久保武雄海上保安庁長官は、首相吉田茂の了解をとって、米軍への協力掃海出動を命じた。13隻の掃海艇と323名の乗組員が集められ、山下亀三雄元海軍中佐が指揮する5隻が仁川に、能勢省吾元海軍中佐が指揮する8隻は元山へ、いずれも米極東艦隊の掃海担当指揮官A・E・スミス海軍少将の指揮下にはいった。
 能勢隊が元山沖に到着した10月10日、海面には航空母艦、戦艦、巡洋艦が勢揃い、砲門を揃えて上陸地点を砲撃していた。元山は38度線を越えた完全な北朝鮮領である。本来、海上保安庁の船は立ち入り厳禁の海域である。米軍が艦砲射撃中の海面を避けて沖にでれば、水深は100メートル、錨をおろすには深すぎた。能勢掃海隊は、艦砲射撃中の米艦隊の背後に漂泊しながら待つことにした。シベリアから吹きつける北風はもう冷たく、4、5メートルの波に揺られながら待機していた。海上保安庁航路啓開本部長田村久三元海軍大佐も、総指揮官として巡視船「ゆうちどり」に乗って同行していた。
 艦砲射撃は10月10日に終わり、翌日から掃海が開始されたが、日本の掃海艇はすべて漁船を改造した木造船で、掃海艇の必須条件とされた浅い喫水ではなく、船尾が3メートルも沈み漁船改造の弱点をさらけだしていた。これに反して、米軍の掃海艇はいずれも鋼鉄船で波浪に強かったが、磁気機雷には弱かった。日本海軍での鋼鉄船の掃海は、小型ボートに先導させて磁気機雷を探りながらおこなうのが定石であった。
 ところが元山沖では、米海軍はいきなり鋼鉄掃海艇を走らせ、日本の掃海隊員たちをおどろかせた。
 能勢隊長が、掃海する米国掃海艇の作業を眺めていると、湾内に進入した米艇一番艦の後部から水柱があがり、轟音が空中に響いた。触雷だ。水煙が崩れ、突き上げられるように艦尾を持ち上げ、次の瞬間船首を立てて沈没した。つづいて退避しようとした二番艦の横腹にも爆発がおこり、瞬時に横転沈没した。日本艇も、避難して後方にさがった。
 翌日から艦隊の艦砲射撃が再開され、掃海作業も中止となった。
 さらに16日、艦砲射撃が終了し、17日から掃海作業が実施されることになり、能勢隊の4隻も湾内にはいり作戦に参加した。掃海は、2隻がペアを組み、200メートルの間隔で電纜線を曳航し、その中央に水上艦が発生するスクリューの磁気発生源を設置し、その磁気が磁気機雷に反応して爆発させる仕組みである。能勢隊長は、万一触雷した場合を考えて喫水の深い後部を避けて、前甲板や船橋付近で作業をせよと指示していた。
 午前中の掃海はなにごともなく進行し、午後からの作業も無事に終わる気配であった。午後3時過ぎ、海岸に一番近い第14号艇が轟音に包まれた。能勢隊長が爆発音におどろいて目を向けると、すでに第14号艇の姿はなく、海面には乗組員らしき黒点が散らばっているだけだった。作業をしていた全艇が、積んでいた伝馬船をおろして救助に向かった。伝馬船は、手漕ぎの櫓で漕ぐ。もちろん周囲の米掃海艇からも内火艇がおろされたが、こちらはすべてエンジンで走った。海に投げ出された乗組員は、負傷者をふくむ18名が内火艇に救助されたが、コック長中谷坂太郎が行方不明となり、そのまま死亡と判定された。中谷は前甲板にいたが、なにかを思い出したように、急に後甲板に走りだし、触雷事故に遭ったと目撃者は証言した。
 能勢隊長は、元山湾の機雷は、米韓軍の上陸を阻止するために北朝鮮軍が敷設した磁気機雷が多いと判断、そのためには掃海艇の前に小ボートを配置して掃海し、その後を掃海艇が掃海する二段掃海がベストだと考えた。しかし、日本の掃海艇に積んである手漕ぎの伝馬船では速度が遅くて役に立たない。米艦のほとんど全艦に積んである内火艇であれば活用できる。海上保安庁航路啓開本部長田村久三元海軍大佐も、能勢隊長の意見に同意して、米艦隊の掃海担当指揮官スミス海軍少将を訪ねた。
 「わが軍には、日本軍に貸し出すボートなんかない」スミスの返事は素っ気なかった。
 さらに、日本隊員たちに中谷コック長の死が伝えられると「アメリカの戦争にまきこまれたくない」「38度線は越えないとの約束が反故にされた」などの不満が噴出した。
 田村元海軍大佐は、なおも改善策を考えてもらいたい、とスミス少将に申し入れた。
 「日本掃海隊は明朝午前7時に出航して掃海をおこなえっ!  それがイヤなら、日本内地に帰投せよ。命令に違反すれば砲撃する」
 暴力団の親分のような答えが返ってきた。掃海と帰投、と相反する命令をだしながら、違反すれば砲撃すると恫喝するスミス少将の応対に、日本掃海隊員たちも感情を昂ぶらせた。掃海は38度線以南の海域で、戦闘に巻きこまれることは絶対にない、掃海に従事している間は給料を倍にするといわれて参加した掃海活動だったが、味方の指揮官から砲撃するといわれては立つ瀬がない。米艦隊は、日本側に犠牲を強要して自軍の損害を減らそうとしている。米軍に砲撃されても、反撃する武器は、漁船を改造した掃海艇にはなにもない。帰ろうと主張した。
 翌日、10月18日、能勢隊の三隻は、掃海作業をつづけてもいいという4隻を残して内地に向かって、元山沖を離れた。
 巡視船「ゆうちどり」の田村元海軍大佐は「内地に帰投すべし」と、能勢隊長に送信した。能勢隊は命令による帰国である、とのバックアップ命令であった。
 
 朝鮮戦争に旧日本軍の軍人も協力しているとの噂はあちこちで聞いたが、パイロットや船舶操縦兵などは、個人で米軍に雇用される例が多く、海上保安庁の掃海隊のような公式組織の参戦は例外で、国民には発表されなかったような気がする。
 能勢隊帰国の後は、新たに進出してきた日本掃海艇4隻が掃海作業に参加、10月25日に終了し、元山上陸のために待機していた米海兵第1師団も上陸した。
 元山上陸作戦は、ピョンヤン(平壌)攻略のために立てられた作戦だったが、ピョンヤンはすでに19日に陥落しており、国連軍は鴨緑江を目指していた。鴨緑江まで攻めていけば、戦争は終結すると兵士たち信じていた。
 しかし実際には、国連軍が鴨緑江を目指して蠢動を始めたころ、数万の中国軍がすでに国境を越え、国連軍の進攻ルートを予測してその山中に隠れて待ち構えていた。マッカーサーは10月25日を総攻撃の日として命令をだしていたが、越境中国軍も25日までは兵力を秘匿し、25日以降に連合軍を発見したら、積極的に攻撃せよと命じられていた。

 国連軍の動向は中国軍に筒抜けだったようだ。


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 (47)国連軍、後退か退却か?
 

 ピョンヤンを占領した韓国軍が、中朝国境の鴨緑江を目指して進撃し、山に挟まれた谷間に差しかかると、両側の山頂から突然の射撃を受けた。高地からの射撃は効果的で、韓国軍はあわてて後退しようとしたが、後方からも銃弾が飛んできた。包囲されたのだ。
 敵は、合図のラッパで一斉射撃を開始しチャルメラ笛の合図で手榴弾を投擲してきた。チャルメラ笛は、日本でラーメンの屋台などでよく聞かれた合図の笛である。算を乱した韓国軍は、逃げ場を探して逃げ惑った。やがて韓国軍は敵兵を捕虜にして、中国兵であるとわかった。この情報は、国連軍司令部にもあげられたが、米軍機の綿密な偵察にはそのような兆候は把握されず、中国軍の参戦は一笑に付されてしまった。
 韓国軍では、小人数の偵察隊を鴨緑江の手前5キロの楚山に派遣していたが、夜明けに北朝鮮敗残兵が鴨緑江を渡っているとの村民の通報を受け、ただちに出動してみるとイカダを結び合わせた橋を鴨緑江にかけ、200名ほどの兵士が渡っていた。女兵士が多いようだ。投降勧告をしたが応ずる気配はなく、機関銃と小銃の射撃で兵員をせん滅、イカダ橋は手榴弾で破壊した。この偵察隊は、すでに本隊が壊滅的打撃を受けていると連絡を受けていたので、鴨緑江の水を水筒に詰めて早々に引き揚げた。
 戦況の悪化もさることながら、おりからの冬の到来に、国連軍は防寒衣類の補給が急務で、防寒用の衣類を日本で調達するのに大童だった。日本の繊維メーカーはフル操業で冬用軍服や毛布をつくりつづけた。軍服だけでなく、武器、弾薬の製造や車両の修理など、米軍の注文はエスカレートして、人員整理に伴う労働争議に悩まされていた企業も方針を転換、雇用を拡大し、日本中が好況に沸いていた。
 掃海がおわり敵前上陸のために終結していた輸送船の米第1海兵師団が上陸できたが、出迎えたのは地上を進撃して元山を占領していた韓国軍部隊だった。海兵師団も東海岸沿いに第17海兵連隊を先頭に北上を開始した。気温は零下10度、北風に雪が舞い、モノクロの世界が広がっていた。米軍の情報では、中国軍は補給がつづかず、鴨緑江の北側に撤退したという。第17連隊が鴨緑江河畔の小邑恵山鎮に到着した。
 空は雲もなく青く澄んでいた。この辺の鴨緑江は源流に近く、河幅は4、50メートルしかなく、しかも両岸とも凍っており、中央の数メートルが流れているだけだ。景山鎮は米軍の爆撃で廃墟となっており、被災を免れた数軒の民家も人気がなく、扉が釘付されていた。対岸の中国領の街長白府ははっきり見えて、民家からはオンドルの煙があがり、戸外では陽光を浴びた中国兵の姿も望見できた。
 さらに奥には、朝鮮民族が聖山と崇める白頭山が山頂を雪で白く飾った姿を見せていた。鴨緑江までいけば、戦争は終わると告げられていた兵隊たちは、その場で戦争が終わるとは思っていなかったが、これで近いうちに戦争は終結すると考えた。中国軍は、補給がつづかず、小休止をしていると国連軍司令部は情勢を分析していた。鴨緑江のこちら側にいた中国兵も給養のため自国領にもどっていると恵山鎮の米軍将兵は知らされた。
 
 朝鮮半島の地形は北上するに従い、日本海と黄海の間の距離が長くなる。米第8軍の司令官ウォーカー中将は平壌の司令部で指揮をとっていたが、全軍が北上していけば、最右翼と最左翼に布陣する軍の間隔が広くなる。布陣する味方同士の間隔が広くなれば、敵の襲撃を防ぐ網が荒くなる。守り難くなるのだ。
 夜になると中国軍は全戦線で、得意の夜襲攻撃で韓国軍を壊走させた。中国軍の攻撃を受けていない米軍は、中国軍の参戦には懐疑的で、韓国軍の壊走が信じられなかった。
 マッカーサーは、鴨緑江にかかる橋の爆撃が必要と考え、新義州橋の爆撃を考えた。
 トルーマン大統領は、鴨緑江にかかる橋の朝鮮領内の部分のみの攻撃を許可した。中国領内を爆撃して第三次世界大戦の引き金を引くのをおそれたのである。
 マッカーサーはB29や戦闘機のべ600機を動員して、朝鮮・新義州と中国・丹東に架かる新義州橋の朝鮮側半分の爆撃を決行させた。中国領上空の飛行を禁止された連合軍爆撃機は、鴨緑江の朝鮮領上空しか飛行できず、橋を横切る形で幅3、4メートルの橋に命中させるのは至難の技で、1発も命中しなかった。
 爆撃に失敗した新義州鉄橋は、米軍機攻撃失敗のメモリアルとして、現在も鴨緑江に架かっている。
 越境してきた中国軍は数万と多くはなかったが、国境の向こうの中国領内には100万前後の中国兵が予備として待機していた。これらの兵力が国境を越えれば、直ちに戦闘に参加できるし、食料、武器、弾薬の補給基地でもあった。連合軍は、中国領内への攻撃は禁じられており、鴨緑江に架かる三つの橋(新義橋・朔州橋・満浦鎮橋)の南部分しか爆撃できない。
 鴨緑江を目ざして北上していた国連軍は、中国軍の待ち伏せ攻撃を受け次々に壊滅していった。
 第8軍司令官ウォーカー中将は、「敵の攻撃兵力は約20万……その全員が中国人であり、中国軍が前面攻勢を開始したことは疑いない」とマッカーサー元帥に報告した。
 つづいて第10軍団長アーモンド少将からも緊急事態を告げる電報がきた。
 マッカーサーは、ピョンヤンの放棄を決心した。ピョンヤンは、占領と同時に行政担当者も派遣されていたが、荷物を抱えた一般人の避難と撤退部隊で混雑した。
 東部戦線でも海兵師団の撤退が開始されていた。山岳地帯では、中国軍の巧妙な待ち伏せ攻撃を排除しながら後退した。海兵師団は撤退しながら50%の損害を受けた。
 「米国が味わった最大の敗北である」と米本土では報じられた。


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 (48)第八軍司令官にリッジウェイ
 
 12月23日、第8軍司令官ウォーカー中将は、首都ソウルの防衛拠点に駐屯する米第24師団視察のため司令部をジープで出発したが、トラックと接触事故を起こして泥濘の道路にスリップしてジープが横転、下敷きになった中将が死亡した。
 後任には、統合参謀本部次長M・リッジウェイ中将が任命された。リッジウェイ中将は、参謀次長として「朝鮮戦争」の勃発から最近の撤退作戦まで、第8軍のすべての作戦に関与した最高の適任者であった。
 12月25日深夜、東京に到着した第8軍新司令官リッジウェイ中将は、翌日の朝、マッカーサー元帥に着任の申告をした。リッジウェイが陸軍士官学校の生徒のとき、マッカーサーが教官で、旧知の間柄だった。
 リッジウェイが統合参謀本部で把握していた情報も、東京の総司令部で聞かされた戦況は芳しいものではなかったが、戦線を整備すれば攻勢に転じられるという話だった。
 ピョンヤンが共産軍に支配された12月5日、韓国政府はソウル市民の早めの避難を計画していた。たとえばソウル以北の避難民がソウルに殺到しないために、ソウル近郊に軍用道路を避けた避難路を指定、難民収容所や救護所を設け、食料や医療用薬品などを備蓄、避難民をソウル以外の地区に誘導するようにした。さらに、政府職員は一か月分の俸給が支払われ、下級職員は故郷で待機するように指示された。
 12月24日、東京では金龍周駐日公使が岡崎勝男官房長官を訪ね、「北部九州に韓国人百万人を収容できる土地を世話してもらいたい」と申しいれた。話を聞いた岡崎は絶句した。米軍が次々に撤退して日本に引き上げた場合、李承晩が落ち着くのは済州島しかない。済州島には、百万の兵は受けいれられない。米軍反攻時まで、百万の兵を養う土地を世話してほしいというのだ。百万の韓国人の街が突然出現して、周囲の日本人と摩擦は起きないのか。第一、百万の韓国民団員の増加を朝鮮総連が黙って見逃すだろうか。官房長官を通すより、首相吉田に直接申しいれた方いいと判断した岡崎は、首相に通ずる有力者を紹介した。金龍周の回想には、紹介された要人を訪ねたのかどうか触れていないし、ほかに〝韓国人難民百万人〟の日本受け入れに触れた資料もない。
 その日、大統領李承晩は、ソウル避難声明を発表した。「南部に家や友人を持つ者は、できるだけ早く食糧や衣類を持ってソウルを去るべきである」というのだ。
 ソウルの一般市民の避難は、ピョンヤンが中朝軍の手に墜ちた直後から始まっていたが、大統領の避難声明で公然とおこなわれるようになった。
 「第8軍は日本に撤退し、韓国軍は済州島で抵抗する事態を考える必要があります」とリッジウェイ中将は、マッカーサー元帥に秘密電報で連絡した。12月29日のことだ。
 12月31日、日没とともに最左翼のトルコ旅団と臨津江の下流の米第25師団と東海岸の韓国軍首都師団を除く第一戦部隊は、一斉に中朝軍の攻撃を受けた。どの部隊も同じように銃砲撃の後、沸き起こるチャルメラ笛と角笛、ラッパ音で包囲され、間隙が多かった米韓軍の間はあっという間に突破された。米兵や韓国兵も、あるだけの大砲を発射し、機銃、小銃、バズーカー砲を発射して応戦したが、降り注ぐ手榴弾の爆発に次々に倒れた。陣前に敷設していた地雷や鉄条網には一人が飛びこんで爆発させ、後続の兵が攻撃してきた。鉄条網も、人間梯子をくむように一人が犠牲になりその上を次々に越えてきた。米韓軍は照明弾を打ち上げて敵情を探ろうとしたが、砲火と照明弾に照らされて浮かび上がるのはすべて敵兵である。前面の丘も、側面の山も、地底から沸き起こった敵兵の姿ばかりだ。山や丘を越えて押し寄せる敵は、谷底や山陰から湧き出るように姿を顕わした。山も谷も敵兵に覆われた。人の波はゆれながら押し寄せてきた。揺れる中国兵の波が次々に押し寄せ、ラッパを吹奏し、チャルメラを吹き、ドラを鳴らし、人間の波がゆれている。まさしく人の波——人海戦術である。夜があけて、国連兵の視界は、中国兵で埋められてしまった。闇の中を山が動くように中国兵が襲来し、波が間断なく押し寄せる波のように、中国兵は押し寄せてきた。連合軍の陣地は、中国軍の人の波に呑みこまれて孤立し、壊走していった。
 
 夜が明けると、1951(昭和26)年1月1日である。
 1月2日の朝、中部戦線の危機が伝えられた。春川正面を守る韓国軍第3師団が北朝鮮軍の攻撃を受け、すでに侵入していた別の北朝鮮軍が背後から攻撃してきた。韓国軍第3師団とともに春川北側の韓国軍第5、第8師団も挟撃され、第3師団の救援に向かった韓国軍第7師団も随所で待ち伏せされ、連絡網はさらに寸断された。
 リッジウェイは、ソウルの再放棄を決心した。1月3日朝、ソウルを二分する漢江南岸への撤退命令を下し、駐韓大使ムチオを通じて、大統領李承晩にも退去を勧告した。
 ソウルから南下するには、大河漢江を渡らなければならないが、避難する市民の橋の通行は午後3時までとした。その後は軍隊専用とした。軍の撤退は戦車や大型トラックを渡河させねばならず、過去2回の戦場となった橋は工兵隊が補強した仮橋が重車輌の通行に耐えられるか危惧されたが、工兵隊は「指示する車間距離を守れば大丈夫」と保証した。
 李承晩大統領は鉄道で避難した。半年前、朝鮮戦争がはじまったときは、軍隊も一般市民も北朝鮮軍の急襲に算を乱して逃走し、敵の追跡を恐れて早々と漢江の橋を爆破したため、避難できず民間人に多くの被害をだしたが、今回はピョンヤン放棄の12月初旬から撤退の準備をはじめ、避難経路を定め途中に収容所を設け、給食、医療設備を整えていたので大きな混乱は起こらなかった。多くの一般市民が鉄道を使って——暖房のない客車と吹き曝しの貨車で——、開戦時と比較すれば整然とおこなわれたといえる。
 
 ソウルの南方に平澤という街がある。その東の安城にかけて、ソウルから撤退した国連軍が布陣した。その東北の長湖院にも、韓国軍と英国軍、米軍を配置した。これで黄海寄りの西部戦線の布陣は完成した。さらに全戦線の中央部原州は、中部戦線の要衝であり、ここを中朝軍が占領すれば、西部戦線の国連軍の背後を衝くのも容易となり、なおも忠州を通って金泉、大邱を簡単に掌中にできる。そうなれば釜山防衛も困難となる。
 原州地区は連日の降雪で視界がきかず、山野は雪に覆われ、視認できるのはぼやけた山の稜線だけで、パイロットは第六感に頼る銃爆撃しかできなかった。
 なぜか、中国軍は姿を消し、原州を攻撃してきたのは北朝鮮軍だった。中国軍と同じように夜襲が主体で、米第2師団の砲兵大隊は105ミリ砲18門で陣前に弾幕を張った。砲兵大隊は弾丸を射ちつづけたが、北朝鮮兵も勇敢に夜襲を繰り返し、1月6日は終夜、小銃、迫撃砲、機銃、手榴弾をつかって波状攻撃をかけてきた。第3波、第4波の攻撃では、砲兵陣地の20メートルに迫り、砲兵の弾薬手も拳銃と銃剣で応戦し、やっと撃退した。夜が明けて明るくなると、陣前には600人の死体が散乱していた。
 結果的には、米第2師団の原州死守は成功したが、周囲は友軍不在で、孤立したまま原州保持は不可能と判断、1月8日、原州南方の高地に防御線を構築して移動した。
 中朝軍は突然姿を消し、消息不明となった。
 2月を迎えて、国連軍は威力偵察を開始し、本格的攻勢に転じた。中国軍と北朝鮮軍も、本来のスタイルの攻撃を開始した。この攻撃に、中朝軍は総力を投じたが、国連軍も総力を挙げて対戦した。
 積雪寒冷の朝鮮半島では激戦が繰り広げられていた。
 中国、北朝鮮軍は人海作戦で夜襲をつづけたが、国連軍は航空機と砲撃で対応した。ラッパを響かせドラを鳴らしチャルメラを合図に攻撃してきても、国連軍も火力で反撃し、航空機で反撃した。春先の豪雨が降りつづき、雪解け水が川と道路を泥濘に変え、補給が途絶した。災害は敵味方を区別しなかったが、空輸力を持つ国連軍の方が有利だった。中国、北朝鮮軍は弾薬、食糧、医療品の補給ができず、莫大な死傷者をだし力つきた。
 3月15日、国連軍はふたたびソウル奪還をはたし、北緯38度戦の南まで支配地区を広げた。朝鮮戦争は目まぐるしく変遷していたが、まだ一年経っていなかった。

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 (49)マッカーサーが解任された
 
 昭和26年4月11日、国連軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥が解任された。マッカーサーは、中国軍の参戦以来、朝鮮戦争を解決するためには、中朝国境を越えて中国領内に待機している中国軍を攻撃しなければならないと主張していた。トルーマン米国大統領は、中国領内の爆撃は第3次世界大戦を惹起しかねないと、越境攻撃を厳しく差し止めていた。それに対してマッカーサーは、折に触れて越境攻撃を主張し、場合によっては核の使用も辞さないとも主張した。さらにマッカーサーは、国共内戦に敗れて台湾に亡命している蒋介石の国府軍を使って中国領内を攻撃させる案を台湾に打診したという。いうなればマッカーサーは中国と軍事的に対決しようとし、大統領は中国を朝鮮領から駆逐すればいいと考えていた。煎じ詰めれば文官統制を実施しただけである。
 後任は、第8軍司令官リッジウェイ(後大将)、第8軍司令官にはヴァンフリート中将が任命された。ヴァンフリートは、つぎの大統領アイゼンハワーやブラッドレー統合参謀本部議長と陸軍士官学校の同期生である。
 
 日本人の間では、マッカーサーの人気は高かった。マッカーサーは、アメリカ大使館を宿舎にして、毎日、日比谷の三井ビルの総司令部へ通勤していた。昼食は、大使館にもどって摂った。出勤して車を降りて警衛のMPの敬礼を受けると、相手の顔を見つめながら丁寧に答礼した。階段を昇りながらも敬礼を受けると、答礼を返して玄関に姿を消すのに20秒とかからない。この20秒のマッカーサーを求めて、日本人は第一生命ビルの前に群がった。少ないときで数人、ときには数十人も群がっていた。
 マッカーサー解任が伝えられたのは、この日の昼ごろであったが、新聞はいち早く号外を発行、ラジオは臨時ニュースで報じた。第一生命ビルには続々と人が集まり、夜ともなると数千人に達したという。マッカーサーは、大使館の宿舎で来日中の上院議員と食事中で、総司令部にもどったのは午後5時15分、集まった群衆に動じる様子もなくカメラマンのフラッシュを浴びながら、MPに答礼を返してビル内に姿を消した。
 昭和天皇も、ラジオの臨時ニュースでマッカーサー解任を知り、侍従に詳細を調べるよう命じた。昭和天皇は、このときまでに、マッカーサーとは10回会っている。終戦直後の9月27日、米国大使館に訪ねてマッカーサーとのツーショットが新聞に掲載されて国民に衝撃を与えた。最後は、朝鮮戦争の始まる前の昨年4月18日であった。マッカーサーは、天皇との会見を「しばしば天皇の訪問を受け、世界のほとんどの問題を話し合った。私はいつも、占領政策の背後にあるいろんな理由を注意深く説明したが、天皇は私が話し合ったほとんどの問題を理解し、どの日本人よりも民主的な考えかたを身につけていた。天皇は、日本の精神的復活に大きな役割を演じ、占領の成功は天皇の誠実な努力と影響力に負うところが極めて大きかった」と回想記で述べている。
 傲岸不遜といわれたマッカーサーだったが、天皇に対しては親近感を抱いたようだ。初めて会ったとき天皇は44歳、マッカーサーは65歳だった。このとき通訳をした奥村勝蔵は、マッカーサーがおもにしゃべり、くぎりがつくと「テル ザ エンペラー」と横柄な態度で通訳を命じたと洩らしている。しかし、天皇の車が大使館の玄関に到着しても出迎えもしなかったマッカーサーは、辞去する天皇を車まで見送った。事前に、天皇の車での到着と出立は、マッカーサーは出迎えもしなければ見送りもしない、と打ち合わせていたのに、45分の会談中にいかなる心境の変化があったのか、マッカーサーは車の傍まできて見送った。
 以後、10回に及ぶ両者の面会がおこなわれたが、会場はいずれもアメリカ大使館だった。天皇が、車で大使館を訪問したのである。これが、占領された国の天皇と占領した国の司令官との正常な関係であったのかもしれない。
 
 4月11日に解任されたマッカーサーは、4月16日の朝には羽田から飛び立ち帰国する予定だった。宮内庁長官田島道冶や侍従長三谷隆信、それに式部官長松平康昌らは、もはやマッカーサーは占領軍の総司令官ではない、最後ぐらいは元司令官が皇居に参内してお別れの挨拶をしてもいいではないか、と考えた。
 松平は第一生命館の総司令部にマッカーサーの副官を訪ね「総司令官の肩書きを外したマッカーサー元帥が皇居を訪問して天皇陛下に別れの言葉を述べたらどうか。マッカーサー元帥にとっても、日本国民にとってもすばらしいと思うが……」と打診した。
 「元帥は誰にも会わない。このことについては例外はない。もし天皇が会いたいというならば、これまでどおり大使館に来てほしい」とあっさり拒絶した。
 この問題に天皇やマッカーサーの意思がどれだけはいっていたか、不明である。
 14日、天皇はアメリカ大使館を訪れ、45分の面談をした。単なる別れの挨拶ではなく、占領政策遂行協力への謝意と国体を護持できた天皇の感謝の思いが交錯した。
 この日、マッカーサーの側近たちは、元帥が離日する16日には、羽田まで天皇に見送ってもらいたいと田島や三谷に要請した。宮内庁では吉田総理と相談の上、「日本はまもなく独立を回復する。そうなれば天皇はまた元首になられるのだから、アメリカ大使館までいかれれば十分である」と結論をだした。しかしGHQはなおも、16日には天皇、皇后そろって羽田に見送りにきてもらいたい、と要請してきた。
 「日本敗れたりといえども、天皇は天皇である。マッカーサーは、一元帥にすぎないが、占領行政をつかさどったから、大使館まで訪問して挨拶をしたのだ。ふたたび羽田に見送りにいくわけにはいかん」と松平康昌は断った、
 新聞には、「マ元帥、明朝羽田を出発」の記事に、アメリカ大使館から霊南坂、西久保巴町、赤羽橋、品川を通って羽田までの地図を掲載、国民こぞって沿道で見送れといわんばかりだ。さらに東京都議会がマッカーサーに感謝決議をしたと報じた見出し「捧げる630万の感謝」には羞恥すら覚える。
 さらに、「さよなら!マ元帥、有難う 日本を離れる前日の米大使館」の大見出しにつづいて「夜も祈る主婦の姿」——なにを祈るのか頭を垂れる主婦のつつましい姿もみられた——「名残り惜しむ群 お菓子やお守り持った人も 去りやらず立ち尽す」と、冷静さを失った小見出しや記事が埋まった出発当日の新聞である。
 天皇にかわってマッカーサーに新聞が神格を与えたのかと思った。
 
 4月16日午前6時半、警戒の日本人警官と大勢の一般市民が見守る中、マッカーサー一家(ジーン夫人と息子アーサー)を乗せたクライスラーがアメリカ大使館を出発した。警視庁音楽隊が演奏する『星条旗よ永遠なれ』のメロディにのって霊南坂を下り、西久保巴町から品川を通って羽田までの15キロの沿道には、警視庁、神奈川県警などの警察官一万名が警戒する中、マッカーサーの帰国を一目見ようと、星条旗と日の丸の小旗を打ち振る23万名の群集の見送りを受けて空港に到着した。吉田総理をはじめ閣僚や各国の外交官などが待ち受けていた。天皇の名代三谷侍従長もいたが、三谷は、「陛下のボンボヤージュをお伝えするために私が参りました」と伝えると「陛下にありがとうとお伝えください」と握手しながらマッカーサーは答えた。
 マッカーサーが乗ったバターン号が日本を離れたのは、午前7時22分であった。
 そのころ皇居では天皇が目覚めたばかりだった。侍従の入江相政は、その日の日記に、「朝早く、マッカーサーの羽田を発つときのラジオを聴く。マッカーサー自体には大した感慨もなかったのだが、最後に蛍の光のメロディを聞いたらやはり皇室のことなどについては相当よくやってくれたと思い急に寂しくなった」と書いた。
 天皇の戦争責任については、マッカーサーの一存で責任なしと決めたのではなかったが、マッカーサーの協力が絶大だったといえる。
 もうひとつ、日本人がマッカーサーに感謝していいのではないかと思うのは、ソ連の日本分割占領の提案を、断固拒否してくれたことだ。もし分割占領を認めていれば、今ごろ北海道は北方四島と同じ運命になっていたにちがいない。

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 (50)休戦会談とサンフランシスコ平和条約
 
 マッカーサーが解任される前の一月、アメリカの対日講和特使ジョン・フォスター・ダレスが来日、吉田茂首相と3回にわたって会談した。会談の内容は日米講和条約案であったが、アメリカは講和条約締結後も日本駐兵を希望する安全保障問題が重要と認識しており、朝鮮戦争で共産主義の脅威を知らされたばかりで、日本の独立後、日本国内とその周辺にアメリカ軍を駐留させたかった。ダレスは、ソ連も参加する全面講和が望ましいが、ソ連との意見が対立する現状では不可能なため、まず可能な国とだけ講和を結ぶことを主張、中国、ソ連との講和の道を閉ざす単独講和の方向が示された。吉田総理も、アメリカとの安全保障の取り決めを歓迎、自衛の責任を認識すると声明した。これでサンフラン講和条約の骨子ができあがった。
 ミズリー号上の降伏文書には、連合国最高司令官マッカーサーを筆頭に、アメリカ、中華民国(国府)イギリス、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランド9か国の代表が署名しただけだったが、講和条約にはソ連や北欧諸国を除いて、48か国が署名した。フィリピンやインドネシアなどが独立したこともあるが、実戦に参加しなかったが宣戦布告していた南米諸国が署名したため48か国の大量参加となった。
 日本国内では、アメリカ中心の講和条約に反対し、共産圏も参加する全面講和を主張する世論も多かったが、吉田はアメリカ案を受けいれる意思を固め、ダレスは講和会議には首相自身が出席し、講和全権団は超党派で組織してもらいたいと希望した。
 マッカーサーの後任として新しく連合軍司令官に就任したリッジウェイ大将は、占領下の諸法規の再検討の権限を日本政府に委譲すると声明した。これを受けて日本政府は、政令諮問委員会を設け、追放解除の再検討を決定した。鳩山一郎、岸信介、河上丈太郎、緒方竹虎など1万3千900名の追放が解除され、ついで旧陸海軍の正規将校1万1千名もつづいて追放を解除された。
 
 7月6日、マリアナ諸島のアナタハン島で、日本の敗戦を知らずに、女性1人を含む日本人20人のグループが発見され、米軍に救出されてグアム島から米軍機によって羽田に運ばれてきた。ただひとりの女性は、国策会社南洋興発の社員の妻で、夫とともに島に住んでいたが、米軍機の攻撃で夫が死亡、難破した船の乗組員や兵士たち31人が流れ着き、一緒に暮らすようになった。島の生活は厳しく、女性を妻とした男たち3人が死亡、救出されたときは、女性を含めて20人になっていた。女性を妻とした男が次々に死亡したのは猟奇的な事件と騒がれ、のちにアメリカの映画監督ジョセフ・フォン・スタンバーグが、この女性を主演に「アナタハン」と題する映画をつくった。スタンバーグ監督は、『嘆きの天使』『モロッコ』などの名作をつくった著名な監督だった。
 
 7月10日、朝鮮休戦会談の打ち合わせが開城で開始された。マッカーサーの強行論が第3次世界大戦を誘引すると懸念されながら鴨緑江近くまで進撃し、世界最強を自負しながら追い返された米軍に愛想をつかす声もあったが、攻めこんできた共産軍を元の線まで押しもどして追い返したからわが軍の勝利と主張するアメリカと、人海戦術で連合軍を釜山まで実力で追い詰め補給がつづかず撤退したが、戦闘では勝利した主張する中朝軍のあいだで休戦会談がはじまった。その中で、李承晩大統領は南北統一をはたすために休戦会談には反対した。アメリカは、数週間で休戦が成就すると考えていたが、大統領の反発と中朝両国の駆け引きに翻弄され、休戦協定が成立するまでさらに2年の歳月を必要とした。
 休戦会談開始のニュースは、第2次世界大戦の対日講和条約の調印も間近となり、平和の到来と喜ぶ人もいたが、特需景気の低下を危惧する人も多かった。
 
 8月なかば、首相吉田は、サンフランシスコ講和会議の全権を決めた。主席全権は吉田茂で、全権には国民民主党最高委員長苫米地義三、緑風会徳川宗敬参院議員総会議長、自由党星島二郎常任総務、蔵相池田勇人、日銀総裁一万田尚登の5人を任命した。
 参加国への招請は米英2国が連名で発したが、2国間の意見が食い違い、中華民国と中華人民共和国への招請状は見送られた。結局、日本を含めて50か国が招請されたが、インドのネール首相は、「日本は我々が謝罪を要求するようなことはなにひとつしていない」と参加を見合わせた。またフランスの要望で、ベトナム、ラオス、カンボジアの三国が急遽招請された。またビルマ(ミャンマー)とユーゴスラビアも参加しなかった。
 講和条約の調印式は、9月8日から、サンフランシスコのオペラハウスでおこなわれ、日本を含む50か国が署名した。ソ連、ポーランド、チェコスロバキアの共産国は、中華人民共和国が招請されなかったので、条約自体が無効として署名を拒否した。
 署名した国の中には、戦った覚えのない国が名を連ね(南米やアフリカ、中近東諸国)、日本が戦った国がこんなに多かったのかと日本人の多くは愕いた。
 平和条約に署名した吉田総理は、全権団を離れてプレシディオ陸軍基地で日米安全保障条約に署名した。この条約で、占領軍(日本では進駐軍と呼んでいた)が在日米軍と呼ばれるようになり、日本への駐留をつづけた。条約では、日本の要請で米軍が駐留し、極東の平和維持に必要がある場合、日本に大規模な内乱、騒擾が発生して日本政府から要請された場合、さらに外国からの攻撃があった場合に米軍が出動できるとされていた。
 対日講和条約と日米安保条約は、衆議院、参議院で承認され、翌年の4月28日に発効することになった。日米安保条約は日本の要請で米軍が日本に駐留するための条約であるが、日本に駐留する米軍の配備を規律する条件は「両政府間の行政協定」で定めるとしてあった。安保条約が国会審議の対象となるところから、具体的条件についての国内世論が条約の審議への影響をおよぼすのを避けるための措置である。
 日米行政協定は、講和条約と日米安保条約が批准された後、昭和27年2月28日、岡崎勝男国務相と米国のD・ラスク国務長官によって調印されたが、安保条約第一条に掲げられた目的、日本の要望で日本に駐留する米軍の行動遂行に必要な施設・区域の使用を米国に認め、米軍は日本国内のどこにでも基地を無償で要求する権利をもつことになった。またそのために、航空・通信・交通いっさいの利益の優先的供与、軍人・軍属・家族の出入の自由、一部の私用品を含めて物資の搬入の自由、検疫・関税の免除が保障された。これらの軍人・軍属・家族の裁判権には属人主義が採用されて日本の裁判権は及ばないとされた。さらに、年額一億五千五百万ドル(邦貨五千五百八十億円)の防衛分担金を日本が負担するときめられた。この行政協定は、日本の主権を侵害され、占領時代より悪化したと批判された。
 
 対日講和条約が発効する4月28日が近づいてくると、なんとなく期待感がふくらんできた。大した変化は期待できないと思いながらも、なにかが変わる期待感があった。ふたたび天皇の退位もうわさされた。新聞等で論評されるほどではないが、人々の会話ではよく聞いた。東京裁判も報復の感が強く、講和条約の発効とともに取り消してやりなおすのが順当という意見もあったが、やりなおすにしても、死者が甦るわけではない。天皇の退位論が噂になるのも、天皇の戦争責任がはっきり問われていないからではないかと論じられていた。
 天皇の戦争責任といっても、東京裁判のように起訴して判決を得るような形式でなく、苦労をかけてすまなかった、と会釈するていどのもので充分だ、と筆者は考えていた。
 昭和20年、終戦の詔勅を聞いた皇族が「国民へのお詫びの言葉がはいっていない」と洩らしたと後で聞いたが、筆者も共感を抱いた。
 戦局が終末を迎えつつあった昭和20年1月、京都洛北の近衛別邸に男たちが集まった。戦争が終わってA級戦犯に指名されて自死した近衛文麿、総理経験者の岡田啓介、首相経験者で海軍大臣の米内光政に、天皇家ともゆかりの深い仁和寺の門跡岡本慈航の四人だった。近衛が三人に持ちかけたのは、敗戦の場合には天皇を退位させ、皇太子が即位して皇位を継承し高松宮を摂政にして天皇の戦犯指定を逃れようというのだ。日本では、頭を丸めて引退した権力者の責任は問わない習慣があった。米英相手に通用するかはわからないが、最悪の場合を考えると天皇の退位も一つの方法であった。
 この後2月24日、近衛は天皇に拝謁して上奏文を朗読しているが、共産主義の浸透の恐れありと上奏したが、降伏、退位などには一切触れていない。
 
 昭和27年4月28日、講和条約発効の日、天皇退位の気配はなにもなかった。
 それよりも、5月1日のメーデーが日本中を揺るがした。
 第23回の中央メーデーは、皇居前広場の使用が禁止されており、明治神宮外苑広場で開催されたが、昼過ぎに集会はおわり、5地区へのデモ行進を開始した。このうち、都学連千名が本隊をはなれ、使用禁止の皇居前広場に突入をはかり、阻止しようとした警官隊と衝突して馬場先門から皇居前広場へなだれこんだ。それを眺めていた別のデモ隊もあとにつづき突入した。皇居前広場は、6千人のデモ隊に膨れあがり、二重橋前を警戒していた5千名の警官隊と正面衝突、デモ隊は太鼓を鳴らし、石を投げ、こん棒、プラカードなどを振りかざして警官隊に殺到、警官隊は催涙ガスを使用、ピストルで応射、デモ隊を日比谷へ追いつめた。この間デモ隊は米軍自動車など13台、白バイ11台を焼き、20台を大破した。この騒動は6時過ぎに鎮圧されたが、デモ隊の2人が射殺され、重軽傷者あわせて2千人。その後の捜査でも130人が検挙され、総検挙者は1200人を超えた。
 この年は、皇居前のメーデーだけでなく、各地で火炎ビンが投げられる騒擾事件が相次いだ。2月21日は反植民地デーの統一街頭デモの日で、各地で交番など警察関連施設への襲撃で火炎ビンが投げられた。さらにメーデーの後の5月30日には5・30記念デモ(昨年の占領軍との衝突事件)では、新宿などで火炎ビン騒擾事件が起こり3人が射殺された。大阪でも朝鮮動乱2周年集会、東京では国際平和記念大会、と日本中が戦場のような騒ぎだった。
 これらの騒動は、共産党の基本方針に基づく極左冒険主義戦術によるものだったが、徳田球一がコミンフォルム機関紙に極左戦術を批判する論文を発表し、事態は沈静化した。しかし、共産党の武装革命論は大衆に支持されず、この年10月の総選挙では、共産党の候補者全員が落選した。

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 (51)忘れられていたBC級戦犯
 
 昭和27年2月、衆議院法務委員会で、元フィリピン第14方面軍司令官(刑死した山下奉文の前任者)で、フィリピンの軍事裁判で終身刑の判決を受け、フィリピン大統領の恩赦で釈放された黒田重徳とマヌス島で服役釈放された元第6野戰憲兵隊長だった菊池覚元大佐が参考人として呼ばれ、モンテンルパとマヌス島の状況を説明した。モンテンルパには死刑囚60人が処刑を待っていて、マヌス島には210名が服役しており、5人が死刑を執行されたが、遺体は沖合十マイルのところで水葬にされた。食糧事情がわるく栄養不足で結核などの病人が大勢いたと報告した。
 この年の9月、ビクターレコードから、『ああモンテンルパの夜はふけて』というレコードが発売された。モンテンルパは、山下奉文が処刑されたマニラ近郊の刑務所である。日本人の間ではもう忘れ去られようとしていた獄舎の戦犯死刑囚の元兵士から、歌手の渡辺はま子の自宅へ手紙が届いた。望郷の念を切々と訴えた便りには自分たちが作詞、作曲した『ああモンテンルパの夜は更けて』の詩と譜面が同封されていた。
 渡辺はま子は、フィリピンに大勢のBC級戦犯が判決を受けたまま放置されているのを知り、この詩と譜面をビクターレコードに持ち込み、ほとんど無修正で歌い、レコードに吹き込んで発売された。ラベルには、
 作詞:代田銀太郎
 作曲:伊藤正康      
 歌唱:渡辺はま子・宇都美清
 と印刷されていた。このレコードが発売されると、たちまち人気を呼び人々に口ずさまれるようになった。しかも作詞者と作曲者は、元陸軍の将校で、ニュービルビッド刑務所に収容されたBC級戦犯の囚人であることもわかり、聴く人の同情をかった。
 戦時、戦地で戦う兵隊たちを慰問した経験がある渡辺はま子も、戦犯として獄舎につながれた人々を慰問できぬか、と個人でコネを探してフィリピン政府に働きかけ、モンテンルパのニュービリビット刑務所を訪れたのはその年の暮のことで、囚人たちは狂喜してはま子を迎えた。別室で、作詞の代田銀太郎と作曲した伊東正康に会って作詞、作曲の礼をのべたはま子は、ドレスに着替えてステージに立った。まず往年のヒット曲「蘇州夜曲」を皮切りに、兵士たちが兵隊になる前に流行していた歌謡曲を次々に唄い、100人余の囚人服の観客の喝采を浴びた。最後に、「ああモンテンルパの夜は更けて」を唄いだすと、急に静まりかえった観客たちは、はま子が唄いすすむにつれあちこちから小さな声が唱和し、やがて男たちをまじえての大合唱となった。被害者の住民が訴えた犯人名と同姓という理由で罰せられた元兵士、上官に無実の罪をおしつけられた元兵士など、全員が感激の涙を流しながら渡辺はま子とともに「モンテンルパの夜は更けて」を一緒に歌った。
 その後「モンテンルパの夜は更けて」のオルゴールがフィリピンのキリノ大統領に贈られ、これをきっかけに大統領は日本人全戦犯の釈放を決断した。昭和28年にはいって、全員が大統領特赦で釈放され、そろって帰国してきた。
 
 話は遡るが、開戦前の昭和16年11月10日、参謀総長杉山元陸軍大将に、三人の陸軍中将が招請された。一か月後に開戦を予定されている太平洋戦争に、南方総軍を創設し、マレー・シンガポールを攻略する第25軍、フィリピンには第14軍、蘭印(インドネシア)を攻撃する第16軍を新しく編成、司令官として山下奉文中将、本間雅晴中将、今村均中将がそれぞれ内示を受けた。山下中将はシンガポール攻略に成功したものの、左遷ともいえる満州北部の防衛司令官となり、敗色濃厚なフィリピンの第14軍司令官に任命されて敗戦、既述の通り戦犯裁判で処刑された。開戦時の第14軍司令官となった本間中将は、マニラを占領したものの、マッカーサーが無防備都市を宣言してコレヒドール島に逃げこみ、挙句の果てに惹起した「バターン死の行進」の責任を取らされ予備役に編入され、敗戦後BC級戦犯として銃殺刑にされた。これまた、部下を捨ててオーストラリアに逃げたマッカーサーの屈辱からの復讐だった。
 今村司令官のインドネシア侵攻作戦は、シンガポールやフィリッピン作戦が一段落してから始動することになっていた。現実には他の戦線で戦った兵力を参加させる予定で、とりあえずサイゴンに設けられた南方軍総司令部に出頭して、新任の総司令官寺内寿一大将に着任を申告した。香港、フィリピン、シンガポールなど順調に戦況が推移し、今村の作戦は3月1日を期して実施されることになった。
 その日の未明、第2師団(仙台・丸山政男中将)、48師団(台湾歩兵第1、台湾歩兵第2連隊、第6師団の歩兵47連隊で編成=土橋勇逸中将)は、フィリピンに上陸したが、欄印作戦のため16軍に参加して蘭印侵攻部隊となり、スラバヤ攻撃のためクラガンに上陸した。東海林支隊(後にガダルカナルの救援)、坂口支隊(五十六歩兵団=その後ビルマ戦線の拉孟、騰越で玉砕)と寄せ集め部隊はボルネオ島タラカンに上陸した。
 第2師団を主力とする16軍は、首都バタビヤ(現ジャカルタ)をめざしてバンタン湾への敵前上陸を実施した。先遣部隊ともいえる第2師団は無事上陸したが、後続の16軍司令部と直属部隊が沖合の輸送船上で待機しているとき、司令官が座乗する輸送船に魚雷が命中して沈没した。味方の日本軍の誤爆であった。司令官今村も海に投げ出され、救助艇に引き揚げられて上陸した。総司令部では無線機を海没させたために連絡がうまくとれず、若干の混乱はあったが事なきを得た。
 3月7日夜、やっと復旧した無線機に「本日午後、東海林支隊の第一線に現れた敵の軍使が、蘭軍最高司令官が日本軍最高指揮官に停戦申し入れの意思を持っていることを伝えられたい、と申し出た」との通信があった。
 「明日、午後2時、蘭印総督と蘭印軍司令官はカリジャチ飛行場に来たり、日本軍司令官と会見して直接停戦を申しいれれば、その場で諾否を回答する」と今村は回答させた。
 翌日、チャルダ蘭印総督、ボールデン在ジャワ連合軍司令官と幕僚たちが、今村たちより先に到着していた。オランダ軍の統帥権を持っていたチャルダ総督は、開戦後に英軍のウエーベル大将がやってきて、政府間の協定で米豪蘭軍の統帥権をにぎったが、日本軍上陸の報に接すると飛行機でインドに逃げてしまい、残された英豪米軍も命令に従わず、ボールデン司令官も戦意を喪失したらしい。今村は、バンドン放送などジャワの放送局で無条件降伏を声明することを条件に、停戦を受けいれた。こうして、ジャワは上陸9日で降伏してしまった。
 インドネシア全域に軍政を敷いた今村の評判は、現地インドネシア人にはよかったが、参謀本部や陸軍省の幹部には評価が低かった。皇軍の武威を原住民や俘虜にもっと浸透させよ、というのだ。皇軍は、畏怖されねばならないというのだ。
 この時期、ミッドウエイ海戦の敗北、ガダルカナル島への米軍上陸、と戦局の転換期をむかえていた。11月18日、今村は、新しく創設された第8方面軍の司令官に任じられた。第8方面軍は司令部をラバウルに置き、ソロモン諸島と東部ニューギニアを戦域として隷下に第17軍と18軍が配属された。
 今村がラバウルに到着して第8方面軍の統帥を発動したのは11月26日のことである。ガダルカナルでは、一木支隊、川口支隊、さらに急遽増援部隊としてガダルカナルに駆けつけた第2師団主力の総攻撃も失敗していた。陣頭指揮のために島に渡った第17軍百武司令官の努力も空しかった。ポートモレスビーを目指してニューギニアに渡った南海支隊も壊滅状態で、打つ手がない第8方面軍司令部であった。
 ガダルカナルの日本軍撤退を成功させた今村は、ラバウルの全部隊に食糧自給のための開墾を命じ、大本営に陸稲や野菜の種子、農具などの手配を依頼し、ラバウル全部隊の自給自足体制を確立した。戦闘力も温存するためほぼ全軍を地下壕に潜らせた。米軍も、当初攻略を予定していたラバウルをパスして、フィリピン上陸を決めた。
 日本のポッダム宣言受諾で戦争は終結したが、ラバウルでは、陸海軍を代表して大将に昇格していた今村が、総司令官として降伏文書に署名した。その後ラバウルの将兵は収容所に収容され、オーストラリアの軍事裁判にかけられた。
 戦争を企画・実行したA級戦争犯罪は東京の国際法廷でおこなわれたが、戦時国際法違反をB級、一般国民や俘虜の虐待をC級として、連合各国の軍事裁判で裁くことにした。B級容疑者は部隊長や下士官以上の幹部に多く、C級は非人道的犯罪として俘虜収容所の下級兵士や軍属に多かったといわれたが明確な区別はなく、一般的にBC級と呼ばれた。
 軍事法廷は、アメリカ、イギリス、オーストラリア、オランダ、中華民国、フィリピン、フランスなど47か所で開かれ、5千6百人が被告になり、920人が死刑、3千400人が有期刑を宣告された。
 
 今村は、ラバウルの豪州軍の軍事裁判で、10年の有期刑の判決をうけていた。ところが、それを待ち受けていたように、オランダ軍がジャワ島バタビヤの刑務所に移送した。
 インドネシアでは、もどってきたオランダ軍に対して、スカルノが独立戦争を挑んでおり、降伏した日本に帰国するよりはこの国の独立に寄与したいと日本兵2千名ほどが独立戦争に参加して、半数近くが生命を失っていた。独立派のスカルノは、アメリカ、フランス、国際連盟などにも独立の応援を要請、1949(昭和24)年12月に、オランダに独立を認めさせていた。オランダ軍の法廷では、インドネシアが独立する前に、すべての軍事裁判の判決をださなければならなかった。今村の裁判も、第16軍司令官時代に、原住民に暴行を加えた各部隊の責任を追及するものだったが、独立運動をはじめた民衆が協力せず、部隊の大半は既に帰国しており、オランダの検察は立証に四苦八苦していた。結局、今村の責任は立証できなかった。さらにオランダは、インドネシアが独立すればインドネシア領内の主権を失うので、今村は独立前に無罪を宣告され、豪州軍から宣告された禁固10年の刑を日本で服役するため巣鴨拘置所に送り返された。昭和25年1月のことだった。
 今村がインドネシアで過ごしている間に、ラバウルの収容所が閉鎖され、収容されていた戦犯の将兵は、ニューギニア最北端のアドミラルティ諸島のサンゴ礁と火山岩のマヌス島に新設された収容所に移されていた。かつて今村の部下だった230名が、酷暑炎熱の島の非衛生的な宿舎で連日の重労働と粗食に病人が続出し、このままでは、半数が生きて帰れないのではないか、と絶望的な状況が収容されていた部下のひとりから知らされた。これは、刑期が満了して帰国する同僚に託し、今村家にとどけられたものを夫人がさらにジャワの今村へ郵送したのである。
 巣鴨に到着した今村は、伝手を求めてマッカーサー総司令部へ、同じ禁固刑に服するのならば、部下と一緒にマヌス島で過ごしたいと申しでた。この話を聞いたマッカーサーは、日本にきて初めて武士道に触れた思いだったと感動、今村のマヌス島での服役を了承したという。ちょうどそのとき、豪州軍は、日本で逮捕して巣鴨に収監中の日本軍の将兵80名をマヌス島へ送る予定だったので、昭和25年2月21日、横浜を出港するオーストラリア船に今村も乗船、家族や友人に見送られて出発した。
 今村のマヌス島到着は3月4日、待っていた戦犯たちは声をあげて迎えた。
 土壌のわるいマヌス島では野菜が少なく、今村はラバウルの経験から自給を考え、日本から持参したトマトやネギの種を栽培する耕地を収容所側に認めさせ、自分を含めた50歳以上の老人の作業とした。今村は、1886(明治19)年生まれの68歳、収容者では最年長である。家庭菜園のような農場と思われそうだが、マヌス島は南緯2度の赤道直下の炎熱酷暑の島で、生きるだけでも困難な荒漠の地である。今村は、他に強要することなく、自らは率先して農作業に励んだ。
 6月11日、西村琢摩元陸軍中将など5人が死刑を執行された。西村元中将は、開戦時近衛師団長としてシンガポール攻略戦に参加、そのときの作戦の責任を問われて死刑判決を受けていた。今村は彼らの悩みや迷いを聞いては慰めていた。今村は、単なる司令官ではなく、宗教家でもあった。クリスチャンではなかったが聖書と歎異抄(親鸞の教えを説いた鎌倉時代の仏教書)を手元におき、時間があれば目を通していた。豪州軍に対しても、積極的に待遇改善を申し入れて認めさせた。豪州軍も、今村元将軍の要望は容認することが多かったが、西村琢摩元中将らの死刑執行は強行した。
 今村は、隷下部隊の犯罪はすべて自分の責任であると一貫して主張し、敗戦の責任も司令官の自分にあると力説していた。
 
 昭和28年7月、延々とつづいていた朝鮮戦争の休戦会談の調印が、連合軍と北朝鮮、中国軍との間におこなわれたが、南北統一以外の休戦はあり得ないと韓国軍は署名を拒否した。いずれにしろ、三年間つづいた朝鮮戦争は実質的な戦闘は1年でしかなかった。
 もうひとつのビッグニュースは、豪州軍がマヌス島の戦犯収容所を閉鎖すると発表したことだ。まだ42か月の刑期を残していた今村は、巣鴨で服役することになった。
 マヌス島の戦犯収容所の将兵165名を乗せた白竜丸は、8月8日夜6時過ぎ、横浜大桟橋に接岸した。家族や関係者5千人が出迎え、埠頭は歓呼のどよめきに包まれる中、担架に乗せられた重病人がまず運ばれた。帰国しても服役をつづける147人は、家族ともどもバスに分乗して巣鴨に向かった。新聞記者に取り囲まれた今村元司令官は「私もいいたいことはいっぱいあります。しかし、なにもいってはいけない、とオーストラリア政府の申し入れを日本政府も認め、われわれも守るようにいわれていますので、私が一番に破るわけにはいかない」と口を閉ざした。が、収容所では夜を徹して関係者と語り合った。
 対日平和条約はすでに発効しており、収容所の管理も日本側でおこなっていた。平和条約では、連合国が裁いた戦争犯罪人は釈放しないで量刑を引き継ぐと決められており、日本側が管理するようになったからといって即座の釈放はできなかったが、豪州兵に管理されるのと比較すれば雲泥の差があった。食事が変わっただけでも天国の思いだったし、外出も大目に見られた。実際問題としては、軍人恩給は停止されており、「戦犯」と聞いただけで極悪非道のイメージが先行し、本人はもちろん家族も世間から阻外されることが多く、今村は巣鴨刑務所の中から、戦犯の妻、家族と蔑まれている現状を打破しようとしていた。敗戦の責任は自分たち司令官にあると主張、獄舎に謹慎していたが、昭和29年11月に釈放された。小田急線豪徳寺駅近くの自宅には、三畳一間の小屋を建てさせ、今村は帰宅したその日から、独房生活を延長したような暮らしをはじめた。今村の釈放を知った人々が次々に訪れて旧交を温めたが、今村は敗戦の責任をとる司令官の姿勢を崩さなかった。インパール作戦の悲劇を生んだ司令官牟田口廉也が、戦友会などに顔を出して、敗戦の責任を部下師団長におわせた例と対比して語られた。
 今村は、侵略を受けた場合に、撃退できるだけの戦力は持たなければならないと再軍備論を唱えるなど、旧軍人らしい持論も持っていた。
 復活した軍人恩給を受けながら今村は自宅の三畳の小屋にこもり、未帰還家族の援護活動や旧部下の相談に応じていたが、昭和43年10月4日、心筋梗塞で逝去した。
 こんなに評判のいい旧軍人は珍しい。

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 (52)マグロ漁師たちの被爆
 
 昭和29年3月1日未明、静岡県焼津港のマグロ漁船第五福竜丸は、マーシャル群島のビキニ環礁北東160キロの海面で操業中、南西方向の水平線の彼方に火柱を目撃、数分後に轟音が響き白い降灰に見舞われた。灰は甲板に積もり、全乗組員23名の頭や顔、手足に降り注ぎ、やがて顔や手足が火傷を起こしたように黒くなり、歯ぐきから出血した。
 3月14日に焼津港に帰着した乗組員は、地元の病院で診察を受け、重症と見られた2人は東大病院に入院した。まもなく米国がビキニ環礁でおこなった水爆実験による放射能灰をかぶっての被爆とわかり、全員が東大病院に収容された。水爆実験は、アメリカ側から海上保安庁にも水産庁にも知らされておらず、焼津港の漁業関係者も、被害がでて初めて知ることになった。その後の調査で、他の船も被害を受けていることがわかり、廃棄されたマグロは457トンに達した。
 半年後の9月、久保山愛吉無線長が死亡した。広島、長崎につづく放射能被爆に、原水爆反対の署名運動がはじまり、全国的な反核平和運動を巻き起こした。
 アメリカでは、日本は被害を誇大に発表している、漁師たちはスパイだった、などと口実を設けて謝罪しようとしなかった。さらに久保山無線長が死亡したのは、日本の医師の手当てがわるかったからだと放言。広島、長崎の原爆投下は、100万のアメリカ軍兵士を救うためだったと強弁したのと同じ手法だった。最終的には、アメリカの責任は不問にされたまま、漁業被害は24億円といわれたが、200万ドル(邦貨換算7億2千万円)が慰謝料として支払われた。乗組員には200万円ずつが支払われた。
 第五福竜丸の船体は東京都江東区の夢の島公園内の展示館に展示されている。
 
 この年の暮、吉田茂内閣が総辞職して、鳩山一郎内閣が誕生した。しかし、鳩山内閣は早期解散を野党社会党と約束することで吉田内閣不信任案を可決させていたので、年が明けた1月24日に国会を解散した。総選挙の結果、鳩山が率いる民主党が第一党になり首班に指名されたが、少数与党のため、日ソ交渉の開始、日本住宅公団の設立以外の公約は実現できず、自由党との妥協で予算を成立させるのが精一杯だった。
 
 国会が解散される前の1月10日、運輸省の練習船大成丸が、ガダルカナル島などの南方激戦地に放置されていた南方海域の遺骨収集に向かった。大成丸は、海員養成所や商船大学など海事教育機関のための航海実習船で、今回も150人を超える実習生が乗り組んでいた。さらに大成丸には、重要な任務が与えられていた。
 昨年秋、すでに戦死の公報が受けて墓まで建てていた岡山県久米郡の小島護元陸軍伍長から実兄に航空便が届き、オランダ領ニューギニアに生きており、近いうちに帰国させるとオランダの警察からいわれていると記されていた。実兄は愕いて村役場に駆けこみ、便りを見せて報告した。戦後二、三年の間は、戦死公報をうけて墓を建てたのに戦死した本人が還ってきたり、死んだと思いこんで奥さんが再婚したら夫が帰ってきたという悲劇が生まれたが、十年もたって生きていた戦死者は信じられなかった。しかし、現実に発生しているのであれば、すでに戦死公報を受けた多くの遺族が、我が家も生きている英霊ではないか、と色めきたった。連絡を受けた村役場でも、小島元軍曹の生存を県庁援護課へ連絡し、県援護課は厚生省援護局へ報告した。大成丸の派遣計画が練られていたときだったので、生きていた英霊の引取りが任務につけくわえられた。戦争が終わって十年も経つのに、どうやって生きてきたのか、「死んでも帰れぬニューギニア」と自虐的にうたっていた復員兵たちは、どんな生活をして生き延びたのだろうか。このニュースに接した人たちは素直には信じられなかった。
 追いかけるように、岡山県上房郡出身の島田覚夫(35)、宮崎県児湯郡出身の下窪龍雄(33)、岩手県出身の八重樫三蔵(36)からの便りもそれぞれの故郷に届き、一行は4人で暮らしていることがわかった。
 朝日新聞には、「密林生き残りの日本兵 オーストラリア紙の伝えるその生活」の見出しで、オーストラリアの日曜新聞サン・ヘラルドの紙面に掲載された記事が紹介された。この記事は、ニューギニアの生き残り日本兵を直接取材、「4人の日本兵は、満州にいた飛行整備兵だったが、釜山から愛国丸という船に乗せられて1943(昭和18)年ラバウルにつれてこられた。そしてウエアク(ニューギニア)に派遣され、ついでホーランジアへ移動せよと命じられたが、二日後に米軍が上陸してきた。日本兵たちは、丸太でイカダをつくり、武器、弾薬を積んで増水した川を渡ったが、大勢の兵が流されてバラバラのグループとなり、最後は4名となってしまった。捕まえられたのはオランダ総督の官邸から2、3マイルのコジャ村で、4人は原住民と一緒に小屋を建てイモやとうもろこしを栽培、生命をつないでいた」と報じられていた。
 10年もの間、人目を避けてジャングルの中で生きてきた4人の日本兵が生存していたとは意外であった。食糧があっても、熱帯の病魔に襲われれば生き延びるのも容易ではない。4人が互いに協力しあったから生き延びられたのだろう。同時に、他の島にも生きている兵士がいる可能性もでてきた、
 太平洋戦争で日本軍の死者は200万人以上と推定されていたが、その半数は消息不明で放置され、戦死の公報を受けたのに捕虜になって生きていた例もあり、戦後四、五年は期待する家族もあったが、10年もたつと大多数の家族があきらめていた。
 逃げまわっていた兵隊たちは数年前には4人となり、逃げまわっているよりは定住地を決めたほうが暮らしやすくなると考え、原住民居住地に参加を希望したら、あっさり認めてくれた。村での居住権をもらった4人は、原住民を見習って耕作をはじめる一方、簡単な鍛冶で蛮刀の焼き直しをして住民に喜ばれた。
 東西を英領と蘭領と二分されていたニューギニアの蘭領ホーランジアには、オランダ公使が駐在し、治安のために原住民を雇用していた。4人の日本兵の存在も公使に知られ、公使館に保護されたのだった。
 4人は、オランダ軍の飛行機でウエワクへ運ばれ、ガダルカナル、ラバウル、ブーゲンビルなどの島、ニューギニア東岸のブナ、サラモア。マダンなどで5千800余柱の遺骨を収集してきた大成丸に乗船した。大成丸は、3月19日、竹芝桟橋に帰着し、遺骨はそのまま日本青年館に運ばれ、政府主催の慰霊祭がおこなわれたが、4人の生還兵は、検疫のために寄港した横浜で下船して、慰霊祭には列席しなかった。

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 (53)もはや戦後ではない
 
 昭和31年、全国知事会の懇談会の席上、「戦災などで親に別れて孤児になった子供たちのために、親探し運動を展開できないだろうか」と提案され、即座に全知事が賛同、新聞社も協力、全国的な「親探し運動」がはじまった。敗戦から10年、戦災孤児、引き揚げ孤児、生活苦などから親に捨てられた孤児など、全国に相当数の孤児がいるとみられていた。各県の施設に収容されている子供たちの資料を持ち寄り、パンフレットを作成してその子たちの親を探そうというのだ。新聞の協力もあり、149名の親を探し出した。親は捜せなかったが、多くの「里親希望者」が現われ、遅ればせながら国民一人ひとりの善意で戦争の傷跡を一つずつ消していく時代を迎えたのである。
 この年7月、経済企画庁は昭和31年度の経済白書を発表した。その中で、日本経済は復興を通じて成長する時代はおわり、経済成長は近代化によって支えられる。「もはや戦後ではない」と記されていた。事実、前年度の国際収支は3億3千500万ドルの黒字だった。三菱長崎造船所の船舶建造量は世界のトップとなり、国民の実質個人所得は6・7%増となった。しかも米作も未曾有の豊作となり、農家の所得も7・4%のアップとなり、米の自給自足も可能となった。
 この年、筆者は月給1万3千円のサラリーマンとなったが、一般家庭では「電気炊飯器、電気洗濯機、電気掃除機」が三種の神器ともてはやされていた。
 テレビの放送ははじまっていたが、モノクロ受像機は10万円前後と高く、プロレスや相撲は、喫茶店や飲み屋でみていた。
 昭和33年、東京タワーが完成、受像機も5万円前後と安くなり、全国的なネットワークも完備され、庶民の家でも買えるようになった。さらに皇太子(今上陛下)と民間人正田美智子との婚約がととのい、昭和34年4月10日、宮中で結婚の儀式がおこなわれ、儀式終了後、2人を乗せた6頭立ての御料馬車を中心に全長139メートルの車列が、皇居二重橋から渋谷区の東宮御所までをパレードした。この皇太子御成婚パレードはNHK、民放の各テレビ局が競って生中継をした。テレビ中継は相当前から告知されていたので、庶民も争ってテレビ受像機を購入した。テレビの見える地域は全国すべてではなかったが、県庁所在地など視聴可能なほとんどの大都市では、人々は争ってテレビを買い、売り切れて買えず、中継をみられない人も出現した。だが、これを契機にテレビの普及は目覚しく、テレビから流れるコマーシャルが購買意欲をさらに掻き立て高度成長経済を支えた。
 
 昭和35(1960)年の1月、岸信介(A級戦犯容疑で逮捕されたが不起訴で釈放)首相が、日米安保条約の改定条約に調印、これを批准するために衆議院に安保特別委員会が設置され審議が開始された。日米安保条約は、昭和26年、サンフランシスコ平和条約締結時に、アメリカの希望で締結された条約だが、日本が侵略された場合は米軍出動の義務はあったが、米国が攻撃された場合は日本には参戦の義務はなかった。時の首相吉田茂が調印したものである。岸が批准を求めた安保改定条約には、在日米軍が攻撃された場合は自衛隊も参戦すると明文化され、さらに極東の範囲には台湾も含まれると岸が説明したため、安保反対の社会党にくわえて、自民党の松村謙三、三木武夫、石橋湛山らの派閥も反対にまわり採決に欠席した。6月19日のアイゼンハワー米国大統領来日予定日に自然承認されるために強行された委員会採決だったが、昨年からつづいていた反対運動は過熱、国会周辺はデモ隊にとりかこまれた。アイゼンハワー大統領来日の打ち合わせに来日したハガテイ新聞係秘書は、羽田で全学連の学生に包囲され、米軍ヘリコプターに救出される始末だった。
 6月15日、労働組合の大規模な実力行使がおこなわれ、一般市民の主婦グループや新劇人会議も国会周辺のデモに参加していた。そこを児玉誉士夫輩下の右翼団体維新行動隊が襲撃した。傍らにいた警官隊が傍観していたため、多くの負傷者がでた。夕方、激昂していた全学連主流派が国会に突入した。阻止する警官隊も応戦して乱闘となり、その中で、東大生樺美智子が死亡した。学生側は機動隊の暴行で死亡と主張したが、警察は転倒して圧死したものと発表した。樺美智子の死亡に、学生たちは狂ったように暴れまくったが、警官隊も暴徒鎮圧と荒れ狂い、デモ隊や取材中の記者にも見境なく警棒で殴りかかり、実況放送中のラジオ関東(現ラジオ日本)のアナウンサーが殴られながら放送をつづけ、最後は泣きだしての実況放送となり話題を呼んだ。
 岸は「デモは国民の一部で、『声なき声』の支持がある」と、自衛隊を出動させてデモ隊を鎮圧させようとしたが、自衛隊幹部や警察幹部から説得されて断念した。アイゼンハワーの来日も中止され、新安保条約は6月19日に自然承認された。
 新安保条約阻止運動が活発化していく最中の5月21日、グアム島のジャングルで暮らしていた元日本兵2人が発見され、米軍に保護された。米軍は、海軍病院で2人の健康状態をチエック、異常なしと判定した。日本の好況もあり、グアムへの観光客も増えてホテルや旅行会社の社員や駐在員も滞在して、小さいながら日本人社会を作っていた。
 元日本兵の収容を依頼された海軍病院では、通訳や身元確認を日本人会に要請した。深夜の連絡だったが、病院前にはたちまち数人の日本人が集まり、救急車の到着を待っており、日本兵発見のニュースはたちまち日本にも知らされた。
 日本兵は、皆川文蔵(新潟県)と伊藤正(山梨県)の2人で、ともに39歳。昭和17年、徴兵で甲府の第49連隊に入隊、その後グアム島を守備する独立混成第10連隊に編入されたという。
 日本からの新聞記者も病室に訪れ、インタビューをしているが、
 「月をみて日にちを数え、草の根やヤシの実、パンの木の実、川の魚を食べ、木の上に小屋を作って暮らしていた。最近は観光客が増えてきたが、私たちの隠れ家は、観光客もはいれない地域だったから16年も発見されなかったのだ。私たちは2人だったから生き残れたと思う。どちらかが体調をくずしても、片方が元気だったから生きてこれた」
 と交々語ったという。
 2人とも、環境の激変が原因なのか、沈みこんだり、はしゃいだり、軽い躁鬱状態だった。だが、米軍将兵や地元の記者、住民などからサインを求められると、嬉々として部隊名や出身地まで書いてサービスしていた。
 病院の検査がおわると、米軍の飛行機で立川米軍基地へ搬送されることになったが、帰国を前に、数年前に病死した戦友の遺骨を掘り返し持ち帰ることにした。その時、同行取材を希望した記者は、全員が拒否された。ふたりが潜んでいた隠れ家は、米軍火薬庫の近くで、立ち入り禁止地区だったからだ。
 立川基地でふたりが米軍機のタラップを降りると、出迎えの家族や取材スタッフに野次馬と化した米兵とその家族に取り囲まれ、MPに救出される騒ぎになった。ターミナルビルに落ち着き、米軍支給の背広を着て会見に臨んだが、現地グアムで語りつくしたのか、口は重かった。
 新潟県出身の皆川は、とりあえず都内の旅館に泊まることにしたが、伊藤は出迎えの母と一緒に、列車で山梨県身延の実家にもどった。
 
 過激な安保改定条約の締結阻止運動で揺れる中、元兵士救出のニュースは、騒然とした世情を一時的に和ませたが、条約の批准は自然成立した。一旦は自衛隊出動まで考えた岸は総辞職して池田勇人内閣が誕生した。しかし、エネルギー革命で退職を余儀なくされた炭鉱労働者の解雇反対の三池争議はつづいていたし、社会党の浅沼稲郎委員長が右翼少年に刺殺され、山谷のマンモス交番が住民に襲撃されたり、平穏な状態にはもどらなかった。
 11月、選挙の洗礼を受けた第2次池田内閣は、「所得倍増計画」を発表した。10年間で国民総生産を倍増させる計画で、産業構造の高度化、人的能力の向上と科学技術の振興政策を織りこみ、翌年度の予算編成に反映させるという。
 安保反対で荒廃した人心を、経済振興政策で融和させようと考えたのだ。事実、池田内閣の所得倍増計画は、机上の空論と揶揄される一面もあったが、現実には電化製品の売り上げが伸び、日産自動車が国産乗用車「ブルーバード」を発売した。東京オリンピックの開催も決定され、東海道新幹線の建設が進められた。給料も上がったが、物価も上昇した。さらに経済開発が環境汚染を引き起こし、工場廃水が原因と考えられる「水俣病」など公害病を発生させた。

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 (54)所得倍増と東京オリンピック
 
 昭和39(1964)年、敗戦後の日本に君臨していた連合軍総司令官マッカーサーが84歳で死去した(4月)が、この年は東京オリンピックの年で、そのために名神高速道路、東京—大阪間の新幹線、東京モノレールなどが整備され、10月10日のオリンピック開会式を迎えた。秋晴れのこの日、天皇・皇后が臨席した東京オリンピックの開会式で、天皇が開会を宣言し、快晴の大空に航空自衛隊のアクロバットチーム5機が姿を顕し、青空にそれぞれ大きな輪を描いた。5つの輪は5大陸を表し、オリンピックの象徴とされていたからだ。過酷な戦場の記憶が癒される想いだった。
 日本初のオリンピックは成功裡に終わった。
 所得倍増計画も順調に進展しているかに見えた。ところが倍増計画の提唱者池田総理が、オリンピック開会の直前、咽喉ガンで倒れた。9月のことだった、病状は急速に悪化、オリンピック終了後の11月9日、池田内閣は総辞職、後継総理は自民党副総裁川島正二郎と幹事長三木武夫の裁定で佐藤栄作が指名された。池田勇人は失言が多かったが、大蔵省出身で練り上げた施策で経済を成長させた。いつのまにか、庶民の三種の神器は、カー(車)、クーラー、カラーテレビとなっていた。その一方、国民の経済格差が広がり、沖縄基地から出動する米軍の北爆に反対するベトナム反戦運動が繰り広げられた。
 山陽特殊鋼が神戸地裁に会社更生法を申請した。負債総額500億円で無理な設備投資に資金繰りが追いつかず、数年前から赤字を粉飾決算で隠蔽していたことも明るみにでて連鎖倒産が続出、オリンピックの好況が一転して戦後最大の倒産となった。さらに全国的な冷害、山一證券の経営行き詰まりに株式市場がパニックに陥った。
 
 佐藤は、1月に訪米してジョンソン大統領に小笠原諸島と沖縄返還を申しいれていた。
 8月、佐藤が祖国の首相として初めて占領下の沖縄を訪問した。ところが、「沖縄の祖国復帰は日米政府間で確認されている」との報道に、その具体的なスケジュールを聞きたい、と沖縄の住民たちが宿泊のホテルを訪れた。しかし総理は、質問には明確には答えず、米国と日本本土の安全のために現状を固定するのではないかと住民たちは疑い、ホテル前に座りこみなおも追及しようとした。総理側は警官隊にデモ隊の排除を要請し、警官隊は抵抗する住民16名を逮捕し、抗議するデモ隊にホテル前は騒然となり、総理は米軍基地内の迎賓館に避難して泊まった。
 沖縄は、まだ戦争がつづいているかのようだった。本土の日本人が、沖縄を訪問するときはパスポートが必要だった。米軍の沖縄紹介のパンフレットには、沖縄最大の異人種は日本人と書かれていた。統治責任者は米高等弁務官で、行政府主席と全職員の任免権をもっていた。佐藤は、ジョンソン大統領に小笠原諸島と沖縄の返還を要望し、ジョンソンは小笠原については検討すると応じたが、沖縄については触れなかった。
 ベトナム戦争を戦うアメリカは、基地としての沖縄を手放すことは不可能だが、行政府主席の公選を実施して、反基地闘争を沈静化させようとした。
 佐藤総理も、沖縄復帰を公約に自民党総裁三選をはたしたが、返還後の米軍基地の形態については触れなかった。
 沖縄行政府初の主席公選は、革新共闘の屋良朝苗が沖縄自民党公認の西銘順治を破って当選した。しかし北ベトナム爆撃のため、沖縄に集結していた大型戦略爆撃機B52の出撃は日常化し、爆弾を満載した飛行機が離陸に失敗して爆発事故を起こし、米軍の基地使用を認めたままでの返還に反対する県民運動を触発した。
 
 この年昭和43(1968)年は、アメリカの原子力空母「エンタープライズ」が長崎県の佐世保に入港、ベトナム反戦とあいまって、猛烈な寄港反対運動が繰り広げられた。医学部インターン問題に端を発した東京大学の学園紛争は、三派系全学連の安田講堂占拠となり、卒業式、翌年度の入学試験が中止に追いこまれた。日大でも20億円の使途不明金が判明、学園紛争に発展した。千葉県成田でも、学生たちが新国際空港建設反対の農民を支援する闘争を展開し、国際反戦デーの10月21日の夜、新宿駅周辺に集合、1万人に及ぶ群衆を交えて新宿駅構内に乱入、ホーム、駅舎に侵入、投石、放火と騒乱状態を発生させた。警視庁では700人余を検挙した。一連の騒乱に参加したのは、暴力革命路線を放棄した共産党から除名され、全学連の主導権を握った新左翼の三派系の学生たちだった。
 
 昭和44(1969)年正月、皇居に20万の市民が参賀したが、その中からパチンコ球を投擲した男が現われた。男は奥崎謙三と名乗り、近くにいた警備の警察官に自分の犯行と自首した。奥崎はニューギニアからの復員兵で、死んだ戦友からの声でパチンコ球を投擲したと自供した。精神鑑定を受け、暴行罪として懲役1年6か月の判決を受けた。
 日本は、アメリカのベトナム戦争特需の恩恵を受け内需も拡大して再び好況の時代を迎え、GNP世界第2位の経済大国になった。さらに日米安保改定条約(60年安保)締結から10年を迎えようとしていた。安保条約は、10年を固定期間として、以後一年の猶予期間をおいて通告すれば、いつでも破棄できる単年度条約となる。沖縄県民の基地反対運動で基地使用に障害がでても困る米軍は、基地の利用が認められるならば、沖縄を日本に返還してもいいのではないか、との意見も出現したという。日本の野党は、「核抜き本土なみ」の返還を要求していた。佐藤は、「核兵器」は「持たず、作らず、持ちこませず」の三原則を国是とすると明言していたが、北爆基地として重要視される沖縄を「核抜き本土なみ」の返還交渉の提案には慎重であった。佐藤は、紀元節を建国記念日として復活させたり、大学管理法、日韓条約の締結など野党が反対する法案をつぎつぎに強行採決したが、沖縄返還は米国相手の外交交渉なので、態度を明確にしていなかった。
 アメリカでは8年間つづいた民主党に代わって、共和党のニクソンが大統領に就任し、外交問題の権限をキッシンジャー大統領特別補佐官に与えていた。日本側の沖縄返還交渉は外務省が担当し、アメリカの窓口には国務省があたっていた。交渉の焦点は、「核抜き」を明記したい日本と、作戦上核の有無を文章化したくないアメリカとのせめぎあいだった。
 たまたまキッシンジャー大統領特別補佐官と親しい京都産業大学の若泉敬教授を、佐藤は密使に仕立てることにした。以後、沖縄返還交渉は、外務省対国務省、若泉教授対キッシンジャー特別補佐官の二元外交で進められる。
 佐藤は、訪米してニクソンと首脳会談を開き、一挙に沖縄問題を解決しようと決心、11月中旬の訪米を発表した。沖縄は「核抜き、本土なみ」で返還されると佐藤はいう。
 ベトナム反戦と佐藤訪米反対に暴れまわっていた反日共系の活動家赤軍派数十人が、山梨県大菩薩峠で軍事訓練のために合宿していたところ、警官隊に襲われ53名が逮捕された。赤軍派は、共産主義者同盟の戦闘部隊であった。大量の逮捕者をだしても、過激派学生たちの佐藤訪米阻止運動は激しく、羽田空港への道はすべて封鎖されてしまった。
 昭和44(1969)年11月17日、佐藤は首相官邸からヘリコプターで羽田空港へ飛び、羽田からアメリカへ向かった。核抜き沖縄返還の密約に署名するためだ。
 11月19日、ホワイトハウスの大統領執務室では、佐藤、ニクソンふたりだけの会談が1時間余にわたってひらかれ、愛知外相、木村官房副長官ら日本側の随行員は、米側のロジャース国務長官、マイヤー駐日大使らのスタッフとともに会議室で待機した。
 初日の会談で、沖縄問題は解決した。米軍は沖縄の核を撤去し、統治権すべてを1972年に返還するとの共同声明を発表した。沖縄問題は初日で解決したが、ニクソンと佐藤の密約で「極東有事の場合は、米軍は撤去した核兵器を再度沖縄へ持ちこむ場合もあるが、日本もそれに協力する」となっており、ふたりが署名した合意議事録一通ずつが大統領官邸と総理大臣官邸のみに保管されることになった。日本では、「核抜き本土なみ」の沖縄返還と報じられ、佐藤は得意の絶頂にあった。三日間の首脳会談が終わった翌日の11月20日夜、佐藤は「帰ったら国会を開いて解散だ。保利官房長官に連絡せよ」と随行の竹下登に命じた。帰国した佐藤は、12月2日に国会を解散、年末投票に踏み切り大勝利を博した。政権保持のための密約であった。
 
 昭和45(1970)年3月、大阪千里丘陵の万博会場の太陽の塔の下のお祭り広場で日本万博の開会式が挙行された。77か国、合計124団体が参加、183日の会期中に6421万人の入場者が訪れた。エキスポ70は、戦後の復興をはたし、経済大国としての日本の勝利宣言でもあった。
 3月31日、東京から福岡にむかっていた日本航空機「よど号」が、赤軍派の学生9名にハイジャックされ北朝鮮に飛んでいった。大菩薩峠の大量逮捕に戦力を喪失したための亡命であった。
 東京都新宿区牛込柳町の交差点は、朝夕のラッシュ時には、車が1キロ以上渋滞する交通の難所で、しかも交差点が谷底になるような地形に、車の排気ガスがいつも滞留していた。文京医療生活協同組合医師団が調査すると、交差点付近の住民の血液や尿の中から、異常な数値の鉛が検出された。車のガソリンにはノッキング防止のために微量のエチル鉛がくわえられており、それが長時間の間に人体内に蓄積されたものと判定された。東京都も、都内数箇所で検査、ガソリンの無鉛化対策に取り組んだ。
 東京都杉並区一帯で、光科学スモッグが発生、目がチカチカして気分がわるくなった高校生40名が病院へ運ばれた。光化学スモッグは、自動車の排気ガス中の炭化水素や窒素化合物等が、工場から発生した亜硫酸ガスなどと合体し、大気中で強い日光にあたって化学変化をおこして発生するとされた。
 静岡県富士市田子ノ浦港では、市内およそ150の製紙工場から流れこむ1日200トンのヘドロが港内に堆積して浅くなった航路の浚渫作業を開始したが、ヘドロから発生する硫化水素ガス中毒で作業員11名が倒れ、作業は中止された。次善の策として、ヘドロを深場の海洋へ投棄しようとしたが、そこをあわびの漁場として海に潜っていた漁民たちの体に発疹が発生して、結局は工場の汚水処理方法の改善で対処するしかなかった。
 
 昭和46(1971)年2月10日未明、栃木県真岡市の銃砲店が強盗に襲われ、散弾銃10丁と散弾1500発が奪われた。数時間後、東京北区の国道の不審尋問で犯人は逮捕されたが、その中に、沖縄返還交渉に訪米する佐藤首相の出発阻止行動に参加して逮捕された反日共系過激派集団「京浜安保共闘」の活動家の横浜国大生がいた。警察庁では、「京浜安保共闘」の過激行動の計画とみて警戒を強めた。
 6月17日、日本時間の午後9時、東京の首相官邸とアメリカ・ワシントンの国務省を衛星回戦で結び、沖縄返還協定の同時調印の模様がテレビで放送された。調印したのは愛知揆一外相とロジャーズ国務長官で、佐藤・ニクソンの共同声明の実施細則を決めて、72(昭和47)年7月1目までの返還が決定した。米軍の基地使用を認めたままの返還には反対が多く、全国291箇所で抗議集会やデモがおこなわれ、東京では警備の機動隊に鉄パイプ爆弾が投げられ、警官30人が重軽傷を負い過激派700人余が逮捕された。
 沖縄の屋良朝苗主席も抗議のために調印式には欠席した。
 
 9月、昭和天皇と香淳皇后は、欧州親善旅行に出発した。アメリカは訪問国ではなかったが、途中のアンカレッジでニクソンの訪問を受けたが、会談内容は発表されなかった。両陛下は、その後デンマーク、ベルギー、フランス、イギリス、オランダ、スイス、西ドイツを訪問したが、オランダ、イギリスでは、第2次大戦中に日本軍に捕まって虐待された復員兵たちが抗議にやってきて一騒動になった。一旦戦争を起こせば、その怨念は生きているかぎりつづくらしい。
 東京・新橋の日本石油本館内の郵便局で小包2個が爆発、郵便局員が火傷を負った。小包は、後藤田正晴警察庁長官と新東京国際空港公団総裁あてとなっており、沖縄返還協定反対の意思表示だけでなく、強引に計画を遂行する佐藤内閣への抗議とみられた。
 警視庁の土田警務部長宅では、送りつけられた小包が爆発、夫人が死亡した。また、新宿の伊勢丹デパート前の交番でクリスマスツリーに仕掛けられた縛弾が破裂、警官ひとりが左足の膝下を吹き飛ばされ、通行人二人が重傷、警官と通行人ら8人が負傷した。
 東京は、まるで戦場のようだった。

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昭和の大戦争 南條岳彦 copyright by Takehiko Nanjo 2010