第5章 報復の裁判

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(35)極東国際軍事裁判の開廷
(36)罪状認否で全員が無罪を主張
(37)広田弘毅の慙愧
(38)新憲法でも国体は変わらない
(39)意外な証人たち
(40)弱かった南京大虐殺の反証
(41)昭和天皇の戦争責任
(42)B、C級裁判
(43)極東裁判の判決文
(44)インド、パル判事の日本無罪論

 

(35)極東国際軍事裁判の開廷

5月3日、市ヶ谷の極東国際軍時法廷は定刻の10時半より遅れて午前11時20分に開廷が宣言された。シンガポールから移送された板垣征四郎(関東軍参謀長・第一次近衛内閣陸相)と木村兵太郎(近衛・東条両内閣陸軍次官 ビルマ方面軍司令官)が到着するのを待っていたからだが、先着した巣鴨組の26人は押しかけた内外の報道陣からたっぷり取材された。記者たちは久しぶりに接した首相や大臣など要人たちに往時の威令はなく、しょぼくれた老人にしか見えなかった。とくに松岡洋右は結核を悪化させ、やつれはてた姿で杖に縋って歩くのがやっとの凋落ぶりで、ひと目で重病人とわかる。こんな病人を強引に引っ張りだして裁くのは人道上の問題である。大川周明はパジャマの上着をだらしなくまとい、常軌を逸している。元将軍たちも軍服を脱ぐと疲れた表情で生気がない。
 ウエップ裁判長が開廷の辞を読み上げ、キーナン検事が各国検事を紹介すると裁判長は休憩を宣言した。
 傍聴席は法廷全体を見渡される中2階にあったが、日本人傍聴者はうっかり席を立てなかった。トイレにいこうと思えば、日本人は地下まで降りなければならない。1階以上のトイレには「日本人使用すべからず」の張り紙がしてある。日本人の傍聴人がトイレにいったりすれば、座席は外国人に占領されて座る場所がなくなる。日本人差別は、弁護士にも適用された。外国人弁護士は2階に個室もしくは2人で1室を与えられていたが、日本人弁護士の控え室は一階の大部屋で、共用の大机が用意されただけだった。弁護人の中には、炊事場から水を汲んできて、床にあぐらをかき、持参したイモや自家製パンの代用食弁当を食べるものもいた。食糧事情は益々悪化して、一般庶民も弁当に不自由していた。弁当でいえば被告たちは優遇されていた。タバコつきの米軍野戦食を支給されていたからだ。巣鴨拘置所の食事も粗末になり、タバコにも不自由していた被告たちは野戦食の詰め合わせを歓迎した。
 
 午後も引き続き起訴状の朗読がつづけられたが、翻訳された日本語は意味不明で、通訳の拙さにあきれているうちに機械的に朗読がすすめられ、法廷内はだれた雰囲気だった。
 上下二段に分けられた被告席の前列に座っていた東條被告のうしろの席にパジャマをシャツがわりに着ていた大川被告がいて、ボタンを外し前をはだけて腹をみせた。
 来賓席で「キャッ」と女性の悲鳴が聞こえた。
 うしろにいた法廷の憲兵隊長ケンワージ中佐が、ボタンをかけてやると、大川被告は前の東條被告のはげ頭を軽くたたいた。手首をスナップするような軽いたたき方だったので音もせず、気がついた人は少なかった。東條被告もふりむき大川被告の仕業とわかり苦笑して正面を向いた。大川被告は、隣の被告平沼騏一郎に話しかけ、ケラケラ笑いながらまたパジャマのボタンをはずしだした。
 会場の記者、カメラマンも大川の奇妙な行動に気がつき、大川を注視していると、今度はペタンと音が聞こえるほど東條の頭をたたいた。法廷内には爆笑が起こり、裁判官に向けていた視線を背後の大川に移した東條は、憮然とした表情だった。大川は、ケンワージ中佐に両肩を押さえられて、ウエップ裁判長は「休憩」を宣言し、外人記者たちが被告席の大川のもとに集まった。
 大川が東條のハゲ頭を叩く場面はニュース映画で全国に紹介された。まだ裁判が始まったばかりで、戦争後半からつづいていた塗炭の苦しみの中にあった庶民は、軍人に対する恨みを抱えていた。その軍人の代表が東條で、その東條が大川に叩かれたことに多くの国民が溜飲を下げた。
 
 翌日の5月4日は土曜日だったが、前日に読みきれなかった起訴状を朗読し、清瀬弁護団長が日本人弁護士を紹介し、月曜日に罪状認否をおこなうことで休廷となった。
 ウエップ裁判長は、大川の精神鑑定が必要と判断して退廷を命じ、大川は控え室で、MPの監視下に置かれていたが、取材に訪れた米人記者に「東條はバカだ。殺さねばならぬ」と英語でコメントしていた。
 大川は米軍野戦病院と東大病院で診察を受け、起訴状に対する答弁能力なしと判定され、松沢病院に入院して免訴となり東京裁判から除外され姿を消した。
 ただし、松沢病院入院中に、イスラム教の聖典「コーラン」を翻訳し、仮病の説もでた。
 
 5月6日、法廷は被告の罪状認否が予定されていたが、冒頭、小林俊三弁護士から、松岡洋右被告の病状が悪化しており、本人の罪状認否のときは出廷しても、それ以外のときは控え室で休憩させてほしいと要請した。
 ウエップ裁判長は、「被告松岡は、すぐに卒倒する状態か」と質問し、「そのような心配がある」小林弁護人が答えると「申し出は休憩中に決定する」と答えた。
 弁護団は、起訴状をはじめ翻訳が不適切で誤りが多いと指摘して善処を求めた。
 キーナン検事は、「起訴状翻訳には日本人の専門家も動員した。誤訳があったら訂正すればよい。それより、この裁判をどんどん進行させよ」と主張した。
 「被告にとって、もっとも重要なことは、翻訳にまちがいがあるかどうかでなく、自分にかけられた犯罪容疑に疑問があれば、自分の弁護人に聞けばはっきりする」
 とウエッブ裁判長もピントはずれの暴論を吐いた。
 とにかく清瀬は、今後疑義がおこる度に提議するしかなかった。
 「では、被告の罪状認否に移る」とウエッブ裁判長が述べた。
 「裁判長、この裁判を真に歴史的使命を全うさせるための動議があります。また裁判官の忌避申し立てもございます。発言をお許しください」
 よれよれの背広に軍靴を履いた清瀬弁護人が発言した。
 ウエッブ裁判長は、忌避する理由を簡単に述べてほしい、といった。
 「まず裁判長サー・ウィリアム・フラッド・ウエップ閣下に対する忌避の理由を申し述べます。第一の理由は正義と公平な裁判を進めるのにウエップ卿は適当ではありません。第二は、昨年7月のポッダム宣言の趣旨を守って、この裁判をするのは不適当であります」
 とことばを続けた清瀬弁護人に、もう少し詳しく説明してくださいと裁判長はいった。
 「ウエップ卿は、ニューギニアにおける日本軍の不法行為について調査し、オーストラリア政府に報告されています」
 「私がニューギニアその他の地方で調査して報告したことが、私が裁判長としてここに座ることに関係があるとは思いません。当法廷は、休憩を宣告します」
 清瀬弁護人が指摘したウエップ裁判長の調査とは、500人の生存者から聞いて作成した報告書で、ラバウルを占領した日本軍がおよそ150名のオーストラリア人と原住民を虐殺したというもので、日本軍の犯罪摘発者としてウエッブの名は各国に知られていた。オーストラリアの「シドニー・モーニング・ヘラルド紙」にも、「ウエップは、日本の残虐行為の調査をおこないオーストラリアと英国政府に報告書を提出した。検察官の役目を果たしたウエップが、日本を裁く国際裁判の裁判長をつとめる資格があるのか」との記事が掲載された。この記事をアメリカ人弁護士ファーネス大尉に見せられた清瀬弁護士が利用したのだ。近代法の常識として、被告と親族に恩怨関係にある者、事件の告発、起訴に関係した者は裁判官にはなれないとされている。そこを衝かれたウエップ裁判長は苦しまぎれに休憩を宣言したが、はたしてどんな決着がつくのか、被告、弁護側はもちろん、全員が息を呑んで見守っていた。
 15分の休憩がおわり、被告、弁護両団が着席すると、バンミーター大尉の起立の号令がかかりと、全員が立ち上がると判事団が入廷した。ウエップ裁判長の姿はみえなかった。しかし、裁判長席にはニュージーランド代表判事エリマ・ノースクロフトが座った。ノースクロフト判事は、法廷の裁判官は裁判所条令にもとづき、連合国最高司令官マッカーサー元帥に任命されたゆえに裁判所としてはどの判事も欠席させることはできない、と簡単に裁判長忌避動議を却下した。するとウエップ裁判長が姿を現し、ノースクロフト判事に替わって裁判長席に座った。
 「私は、当法廷の裁判官を受諾します前に、私の前歴につきまして慎重検討いたしまして、私の説が最も信用すべきあらゆる法律家に支持されたことを確信しました」
 ウエッブ裁判長はわけのわからない弁明をしたあと、罪状認否に移ると宣告した。

 

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(36)罪状認否で全員が無罪を主張

 

罪状認否は、英米法では必須の手続きである。前述したように、有罪を認めればその後の審理は打ち切られ、刑の量定のみが論じられ、無罪と答えれば裁判の審議が開始される。清瀬弁護士は提出していた妨訴抗弁書に基づいて、裁判所の管轄権審理を申請したが、ウエップ裁判長は、後日に討議すると留保して、罪状認否を被告ひとりずつに問うた。精神鑑定のため入院させられた大川被告を除いて全員が「無罪」と答えた。
 危惧されていた広田被告も、無罪と述べて花井弁護人を安心させた。
 
 起訴状によれば、被告たちは1928(昭和3)年から1945(昭和20)年9月2日の降伏調印の日まで、張作霖爆殺から満洲事変、さらに支那事変、大東亜戦争、日独伊三国同盟等、戦争遂行計画を共同謀議で立案、計画、遂行した結果、米、英、仏、ソ、中国、カナダ、オランダ、オーストラリア、フィリピン、インド、ニュージーランドなどの平和国家に対して「国際法並びに神聖な条約上の誓約」をやぶって「侵略戦争を計画、準備、開始、遂行」し、俘虜の虐待、非人道的な強制労働、被占領国民に対する「大量虐殺、陵辱、略奪、劫掠その他の野蛮行為」をくわえたというのだ。これらの行為は、平和に対する罪として36項目の訴因があげられていた。しかも、その後に「殺人及び殺人の共同謀議の罪」を19項目に渡って列挙していた。ソ連の発意として「張鼓峰事件」と「ノモンハン事件」も訴因に数えられていた。「張鼓峰事件」とは、1938(昭和13)年に起こった満洲国とソ連の国境紛争で、日本軍は朝鮮駐屯の第19師団を出動させたが、火力と機動力に勝るソ連軍の反撃に損害をだし停戦協定に調印した。「ノモンハン事件」は1939(昭和14)年、満洲国とモンゴル人民共和国との間に起こった国境紛争で、日本軍とソ連軍も出動して日満軍が大敗した紛争で、モスクワで停戦協定が結ばれて解決している。ソ連の理不尽さもさることながら、勝者が押し付ける傲慢な裁判と被告たちは受け取った。(1990年代、戦死者の数ではソ連側の方が多く、日本勝利説が流れた)
 この罪状認否の模様はラジオで放送されたが、英米法の慣例で、「無罪」を主張するのが裁判開始の儀式と知らない庶民は、東條の「無罪」主張に違和感を抱いた。
 病状悪化のために特別措置が要望されていた松岡被告は、巣鴨から両国の米軍野戦病院に収容され、死期間近と診断されて入院した。5月9日のことである。
 大川に次いで松岡が被告席から姿を消した。
 
 5月13日の法廷で、清瀬弁護士は提出ずみの妨訴抗弁書にもとづき、法廷に与えられた裁判管轄権の問題を指摘した。日本がポッダム宣言を受諾して降伏した以上、ポッダム宣言に定められた条件には従うが、それ以上のものには服する義務はない。ポッダム宣言第10条に明言してある「我らの俘虜を虐待した者をふくむ戦争犯罪人」つまり宣言発表時に知られた戦争犯罪である戦争法規違反者だけが対象者で、極東裁判の「平和に対する罪」「戦争犯罪」「人道に対する罪」は、先に降伏した日本の同盟国ドイツの戦争犯罪を裁くためのニュールンベルグ裁判のために考えられた罪名で、日本がポッダム宣言を受諾したときには存在しなかった罪名である。特定の行為が実行されたときに法律が存在しなければその行為は裁けない。いわゆる〝事後法の禁止〟は法理論の原則である。清瀬弁護士は、遡及処罰は禁止されている、と語気鋭く追及した。さらに、張鼓峰事件、ノモンハン事件は侵略戦ではない国境紛争で、すでに決着していると強く主張した。またタイ国は、戦争中は日本の同盟国で日本との戦闘はなく、日本の戦争犯罪は存在しない、と清瀬は陳述台を叩きながら熱弁をふるった。
 清瀬の弁論に興奮したキーナンは、清瀬の発言に割り込むように異議を申し立てていたが、休憩後に陳述台に立ち「我々11か国は、莫大な損害を受けたのに、この野蛮行為や略奪行為にたいして責任を持つ者を罰することができないのか」と感情をあらわに反駁した。3時間半に及ぶキーナンの興奮した反論につづいて、英国のコミンズ・カー検事が「彼らがこの裁判に反対というなら、起訴された28人は戦争犯罪人には含まれないことを確認しておけばよかったじゃないか」筋ちがいの嫌味の詭弁を述べた。
 清瀬は憤然として発言を求め、両検事の主張を厳しく攻撃した。
 「両検事は、ともに文明の擁護のための裁判とおっしゃるが、条約の尊重、裁判の公正は文明のカテゴリーにはふくまれないのでしょうか」
 となおも食い下がる清瀬に、ウエップは討論打ち切りを宣言した。
 ドイツの戦争犯罪を裁くニュールンベルグ法廷は、連合各国から選ばれた判事たちが互選で裁判長を選び、相談しながら日本の降伏後に法廷を運営した。
 極東裁判は、マッカーサーが任命した裁判長と主席検事が、ドイツの戦争犯罪を裁くニュールンベルグ裁判憲章を参考に、GHQの裁判とした。清瀬の、日本がポッダム宣言を受諾したときには存在しなかった「平和に対する罪」は万国共通に忌避される事後法で、当法廷は管轄権を有しないとの主張には、11人の判事の中には共鳴する裁判官もいて、ウエップは討論打ち切りを宣言しながらも、後日検討すると判断を先送りした。
 
 この日暗くなって、被告たちが巣鴨に帰ってきたが、広田夫人静子が待っていた。被告との面会は、弁護士も家族も1回にひとりしか許されない。静子夫人は、3男正雄を正門に待たせ、夫との面会に臨んだ。間もなくもどってきた夫人は、「とてもお元気でしたよ」と、特に変わった様子もなく普段の口調と同じように応えた。
 その翌日、正雄と2人の妹、美代子と登代子が法廷にでかけた。傍聴席から審理を見守り、休憩や退廷のときに傍聴席を見上げる父と視線を交わすだけだが、父と子の心の交流はしっかりできた。ことばは交わせなかったが、両者ともに満足できた。
 この日の法廷は、平沼騏一郎被告の弁護人クライマン大尉の管轄権異議の弁論があったが、管轄権問題は清瀬弁護士が論じつくしており、目新しい論点はなく、ウエップ裁判長は休廷を宣言した。
 1日おいた5月17日、法廷ではラダ・ビノード・パル判事がインド代表判事として紹介され、これまでの弁護団側の動議全部が却下され、次回法廷は6月4日と宣言された。

 

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(37)広田弘毅の慙愧

 

裁判が6月3日まで休廷と聞いた広田の妻静子夫人は、「鵠沼に戻りましょう」と家族にいった。静子は、広田と同郷の恋女房である。
 広田一家は、原宿に住んでいたが、昭和20年5月25日の空襲で焼けだされ、別荘にしていた鵠沼の家に住むことにしたが、広田が和平工作をすすめていることが海軍に洩れ、戦闘機の嫌がらせ銃撃を受け、警察からも移転の勧告があり、世話する人がいて急遽練馬に移転した。広田が戦犯容疑で巣鴨に出頭したのも練馬からだった。
 広田に面会した静子夫人は、どんな会話を交わしたのか洩らさなかったが、急な鵠沼移転は、夫との面会で決心したと考えられる。
 
 昭和8年、外交官だった広田は斉藤実内閣の外務大臣に抜擢され、さらに次の岡田啓介内閣でも外相を勤めたが、二・二六事件で岡田内閣が総辞職すると次の総理として大命が降下した。拝受した広田は組閣に取り組み、外務大臣に吉田茂を企図したが、陸軍大臣に任命された寺内寿一大将が吉田茂や朝日新聞社長下村宏の入閣を親英米派として反対した。さらに留任予定の小原直司法大臣も、『天皇機関説』の美濃部達吉への処分が甘かったと排斥された。広田に大命が降下したのは、近衛文麿が大命を拝辞したからであるが、基本的には二・二六事件で反乱を起こした陸軍の建て直しが期待されたからだ。
 事件当時、陸軍には現役の大将が10人いた。現役大将は、事件の責任をとって全員が辞めるべきではないか、と阿部信行大将が提案した。全員が辞めると大将が1人もいなくなり不都合が生ずるということで、若い3人を残すことになった。陸軍大臣・寺内寿一、教育総監・西義一、関東軍司令官・植田謙吉の3人である。
 だが肝心の陸軍は反省するどころか、組閣に容喙して政府を意のままに動かそうとした。図に乗った陸軍は、政党人の入閣は1名に抑えよと要求し、広田は、「軍部の妨害で組閣は諦め、その詳細を新聞に発表する」と通告して陸軍を黙らせ、自ら外相を兼務して広田内閣を発足させた。
 広田は、陸軍の現役武官制度を認めた。二・二六事件の後始末の粛軍人事で予備役にまわされた将官に陸軍大臣への道を閉ざすため、現役の大将、中将でなければなれない制度に改めたいと陸軍はいう。広田は、陸海軍の推薦がなくても自由に陸海軍大臣を選べるようにするのを交換条件として、軍部大臣の現役制に同意した。現役武官制度の交換条件は、寺内陸相と永野修身海相が同意していたが次の内閣では反古にされ、陸軍はこの制度を倒閣の具にした。広田の詰めが甘かったのだ。
 さらに広田内閣は、日独防共協定を締結、日独伊3国同盟の礎を築いた。広田は、中国もくわえて日独中の3国防共協定を企図したが、蒋介石に拒否されて挫折した。
 翌昭和12年の1月、完成したばかりの議事堂で開催された第70回議会で、政友会の浜田国松議員が軍を批判し寺内と激しい論争となり、「速記録を調べて、僕に軍を侮辱する言葉があったら切腹して君に謝する。なかったら君割腹せよ」と詰め寄った。浜田との論争に激怒した寺内は、議会を解散せよ、と広田に要求したが、閣内の意見を纏められず、広田は内閣総辞職を選んだ。
 広田内閣の後、宇垣一成に大命が降下したが、陸軍が陸軍大臣の人選に協力せず、宇垣内閣は流産した。その結果、林銑十郎内閣が誕生した。満洲事変のとき、天皇の裁可を得ずに出兵して越境将軍ともてはやされた朝鮮軍司令官で、その後斉藤実内閣、岡田啓介内閣で陸軍大臣を勤めた予備役陸軍大将である。林内閣は、予算案を議会で通過させると衆議院を抜き打ち解散した。選挙の結果、民政党と政友会が絶対多数を占め、林内閣の目論見は瓦解、勢いを増した政党が内閣不信任案を提出する気配に林内閣は総辞職した。
 3か月の短命内閣の後、近衛文麿内閣が誕生、広田は請われて外務大臣に就任し、その1か月後の7月7日、シナ事変(対中戦争)が勃発した。
 中国側は、7月11日に不拡大方針を基にした停戦交渉を呼びかけたが、この日、参謀本部では、居留民保護のため3個師団の派遣を要請し、近衛内閣はあっさりこれを認めた。広田も、消極的ながら日本軍の派兵を認めた。陸軍の言いなりになったのだ。
 日支紛争は8月にはいると上海に飛び火し、参謀本部は2個師団を上海に派遣し、海軍は爆撃機を使って渡洋爆撃を開始した。中国軍はクリークが多い上海の地形を利用して防戦したので、日本軍は苦戦を強いられ、別の3個師団で第10軍を編制、杭州湾上陸作戦を実施、上海防衛の中国軍を駆逐、一気に南京を攻略した。南京の陥落に国民は歓喜、盛大な戦勝祝賀の提灯行列など各地で祝賀行事を繰り広げた。
 しかしその南京で、日本軍の蛮行がおこなわれていたという。南京陥落でシナ事変は終ると考えていた大衆には知らされなかったが、福井淳南京総領事代理や岡本季正上海総領事から、相次いで南京事件の詳報が広田に知らされていた。また南京駐在の外国人で組織された南京安全国際委員会からの抗議文も、南京総領事館を通じて外務省に寄せられていた。外務省の東亜局第一課には、報告書と写真が山積みとなった。膨大な資料に目を通した石射猪太郎東亜局長は広田に詳しく報告した。広田は、石射局長から陸軍省軍務局に注意を喚起させ、自らも杉山陸相に軍規粛清を要望した。が、閣議に報告をせず、事件を知らなかった閣僚も出現した。
 結局、近衛に請われて留任した広田だったが、シナ事変に不拡大方針を貫けず、トラウトマン仲介案も進行できず、八方ふさがりの外務大臣だった。広田は、総理時代からの業績にも忸怩たる思いを残し、自らの責任を痛感しながら外相を辞任した。
 
 鵠沼に移った静子夫人は、1年ほど放置していた海辺の家の戸を開け放ち、娘たちを指揮して大掃除をした。久しぶりの我が家の晩餐だったが、主人公の顔がなかった。
 「パパがいなくって寂しいわね」
 お茶をのみながら、末娘の登代子がいうと、
 「いいえ、ママは少しも寂しくありませんよ」
 静子が答え、話題は夫婦のあり方に変わった。夫と妻、どちらが先に死んだら幸せか?
 「私だったら、どうするかしら……、きっとパパより先に死ぬわよ」
 そんな会話の後、静子は立ち上がって風呂にはいった。入浴後さっぱりした顔を見せたが、ほんのりとした化粧に生き生きした表情が若々しく美しかった。
 「お母さま、ゆっくりお休みなさいませ」
 と、正雄の妻いずみがいい、静子も「おやすみ」と子供たちに声をかけ寝室にはいった。
 翌朝、まだ暗かった。
 「お兄さま、ママが変よ」
 妹の声に、正雄夫婦は飛び起きて静子の寝所にいくと、静子は美しい顔のまま冷たくなっていた。薬を飲んでの自殺だった。
 悲報は巣鴨の広田にも伝えられた。広田は、花井弁護士を通じて、妻の葬儀に出席を求めたが、裁判所は却下した。静子死亡の詳細は、初七日の日、面会にきた正雄からも伝えられたが、広田は黙って聞いていた。静子は、広田家の菩提寺、福岡市の聖福寺に葬られ「祥雲院殿瑞光慧鑑大姉」の戒名が与えられたが、広田も一緒に「弘徳院殿悟道正徹大居士」という戒名をもらった。

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(38)新憲法でも国体は変わらない

 

極東委員会は、5月13日、「新憲法採択の諸原則」を決めてGHQに通告した。新憲法は日本人の自由な意思が積極的に表明されていることがはっきりわかる方法で採択されるべきこと。新憲法の諸条項の充分な討議と審議のために適当な時間と機会が許容されること、がその内容である。
 GHQも、極東委員会の主張をそのまま声明として発表し、吉田新内閣も追随した。5月19日、皇居前広場で食糧危機突破人民大会、いわゆる食糧メーデーがおこなわれた。終戦以来悪化の一途を辿っている食糧事情は、遅配、欠配がつづき、しかも脱脂大豆や芋ガラなどの代用食が配給されるのに立腹した労働者や主婦など25万人が参加した。朝日新聞の記事には、『飢える帝都に食糧メーデー 上奏文を決議 二十五万大衆 街頭を行進』と報じている。このデモ行進の中に「詔書 国体は護持されたぞ 朕はタラフク食っているぞ ナンジ人民飢えて死ね ギョメイギョジ」と書かれたプラカードを発見、東京地検は不敬罪で起訴したが、不敬罪はGHQの指令で消滅していると自由法曹団が指摘、GHQも天皇に特別な法的保護を受けさせないとの意向を示し、名誉毀損に変更して懲役8か月の判決となった。1週間前にも、世田谷区民の食糧デモが宮内省に押しかけ、天皇に面会を要求して座りこむなどの抗議行動を起こしており、GHQでは、「暴民デモは許さない」との声明をだした。
 一方、国会議事堂では第90回帝国議会が開かれ、25日から帝国憲法改正案が本会議に上程され、四日間の質疑応答がおこなわれた。
 最初の質問には自由党の北令吉が立ち、
 「憲法改正案には主権は国民に在りとされているが、これは国体変革ではないのか」
 と質した。
 「皇室の御存在は、自然に発生した日本国体そのものであります。皇室と国民との間に何等の区別もなく、いわゆる君臣一如であります、君臣一家であります。国体は新憲法によって変更されることはありません」と、総理の吉田茂は答えた。
 吉田内閣では、憲法担当の国務大臣に金森徳次郎を任命していた。金森は、岡田啓介内閣の法制局長官に任命されたが、天皇機関説に関連して著書に美濃部学説的な表現があると指摘されて辞職、その後貴族院議員となり、吉田内閣の国務大臣となった。
 「国体とは、国家の個性をいう。わが国の国体は、国民の心の奥深く根を張っている天皇とのつながりによって、いわば天皇を憧れの中心として、国民全体が結合し、もって国家存立の基底をなしている。本改正は、この基底を変更するものではないので、国体の変更をきたすものではない」と、金森国務大臣は答えつづけた。
 国体と同時に議論の対象になったのが国民主権であった。改正案には「天皇の地位は、日本国民の至高の総意に基づく」とされていた。
 共産党の野坂参三議員は「憲法前文の中で、『国民の至高な総意に基づく』の英文は、『sovereignty of the peoples will』となっており、『人民の意志による主権』と訳すべきであると主張した。
 マッカーサー主導の日本憲法改正案に対して、ソ連は極東委員会を通じて独自の提案をGHQに提出してきたが、もっとも重要視されていたのは、「すべての主権は国民に属し、天皇の機能は形式的な儀式のみをおこなうことに限定しなければならない」であった。
 GHQでも、極東委員会から指摘されるまでもなく、『国民の至高な総意に基づく』との訳文を問題にしていた。
 GHQ民政局次長ケーディス大佐は、「日本側の訳文『国民の至高な総意に基づく』は、日本人にも理解できないらしい。この翻訳が攻撃され、主権在民が検討された場合、天皇制も否定される可能性がある」と極東委員会の介入を警戒する口ぶりだった。
 激論の末、前文の「ここに国民の総意が至高であることを宣言し」を「ここに主権が国民に存することを宣言し」と変更され、第1条も「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」と改められ、自由党と進歩党の共同提案で衆議院に提出された。
 改正案は、衆議院の討議を終えると、「帝国憲法改正案委員小委員会」に移され、各党が思い思いに修正案を持ち寄って意見を出し合おうというもので、各党の委員は十四人、芦田均を委員長に選び、7月25日から8月20日まで13回開かれ、すべての議員や記者たちをシャットアウトして秘密会でおこなわれた。
 まず社会党が「生存権はもっとも重要な人権である」と力説し
 「憲法25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」
 の1項目が付け加えられた。
 
 義務教育について、帝国憲法改正案では「すべての国民は、その保護する児童に初等教育を受けさせる義務を負う。初等教育は、これは無償とする」となっていた。この条文を知り、ただちに反応したのが青年学校の教師たちだった。
 戦前の中等教育は、有産階級のもので、多数の小学校卒業者は就職していた。中学進学者はそれなりの教育を受けたが、同時に軍人としての基礎訓練を軍事教練で受けていた。陸軍も、将校クラスの指導者を中学以上の学校に派遣して、徴兵前の学生生徒に兵士としての基礎を身につけさせる利点があった。取り残されていたのが小学校卒業後に就職した青少年であった。昭和10年、陸軍省と文部省が協力して働きながら学ぶ実業補修教育と陸軍兵士の初歩訓練の場として青年学校が生まれた。青年学校の生徒は、貧しくて中学に進学できない青年たちで、設備も小学校の施設を借用するなど貧弱なものが多かった。
 終戦後、軍の協力組織として青年学校は廃校の恐れもあった。折角芽生えた小学校卒業者の教育機関を、敗戦とともに途絶させることに、青年学校の関係者は我慢できなかった。なんとか青年学校を存続できないだろうか。
 そんな時に、憲法の政府改正案が討議されることになったのだ。
 政府案の24条には、「すべて国民は、その保護する児童に初等教育を受けさせる義務を負う。初等教育は、これを無償とする」と書かれていた。青年学校の関係者で作る全国青年教育振興協議会では、青年期の学校教育を一部有産階級の教育機関にしてはならぬ。少なくとも中学校前期3か年を義務化して無償で教育することが、教育の機会均等である、と政府案の帝国憲法改正案の修正を要求しつづけた。その結果、第26条 「教育を受ける権利、教育を受けさせる義務」の(2)項目めに「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育は、これを無償とする」とあり、中学校三年制が義務教育となった。
 
 帝国議会に提案された憲法改正案の「第1章天皇」は8条から成立しているが、第2章戦争の放棄は第9条だけで、「国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを放棄する。陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない。国の交戦権は、これは認めない」は、「帝国憲法改正案委員小委員会」では第9条を次のように改定した。
 《戦争の放棄、戦力の放棄、戦力及び交戦権の否認(1)日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。(2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない》
 この改定は、芦田均小委員長の主導でおこなわれたが、《前項の目的を達するため》は原文にはなく、前項の目的以外ならば……自衛のための陸海空軍の保持は認められると解釈される恐れがあると心配の声がでた。芦田は「心配無用」と懸念を否定した。事実、この改定案には、GHQからのクレームはなく、衆議院本会議で小委員会の憲法改定案は、421—8と圧倒的多数で可決された。
 この憲法案は、さらに貴族院にまわされて審議されたものが衆議院に差し戻しされて再可決、第66条(2)内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならないとつけくわえられた。修正案は再度貴族院にまわされ、11月3日、貴族院本会議場で天皇が玉座の前に起立して、日本国憲法公布の勅語を読み上げた。その後皇居前広場で新憲法公布祈念祝賀式が挙行され、参集した国民は10万人と報じられた。
 満洲事変以後、日本現役軍人の暴走で苦渋を嘗めた中国が、日本の内閣総理大臣その他の国務大臣はシビリアンでなければならない、との規定をいれるよう極東委員会へ提議して、オーストラリア、ソ連などの同意を得てマッカーサーに通告して、マッカーサーが吉田に命じてさらに改定させた。とにかく、日本国憲法は、翌年5月3日から施行され、日の丸の国旗掲揚も認められようになった。敗戦後の憲法制定だから、連合軍の介入も多かった。占領軍の押し付け憲法と反発する声も多いが、63制の義務教育、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利など、日本独自で創設した条項も多い。戦力の放棄、戦力及び交戦権の否認、武力の行使又は威嚇は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する条項は、押し付けられたとの主張が多いが、首相幣原喜重郎が総司令部を訪問したときマッカーサーに戦力放棄を新憲法に取り入れると言明したとの説もある。

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(39)意外な証人たち

 

6月4日、極東裁判の法廷が再開され、キーナン検事が2時間50分に及ぶ検察側の冒頭陳述をおこなったが、その内容は翻訳文が前日に弁護団に配布されており、キーナン検事も、翻訳官も文書を朗読するだけで、弁護人たちは配布された文書を確認するだけの作業だった。キーナンの陳述が終ると、法廷は13日に再開される予定で休廷となり、キーナンはアメリカに帰国した。
 13日の法廷では、フィリピン代表判事デルフィン・ハラニーヨの紹介があり、判事団の11人が揃った。
 弁護団の米人弁護人で、法廷で代表をつとめていたコールマン大佐と到着したばかりの米人弁護士5人が辞任を申しでて、この日帰国した。マッカーサー元帥が、米人弁護士の援助要請を拒否したための辞任と伝えられたが、林逸郎弁護士は、判事、検事ともに戦勝国人で、裁判の一方性と弁護士の良心を主張しての辞任とみていた。米国の弁護士の評判は芳しくなかった。コールマン弁護士もガダルカナルで戦った兵士で、どう考えても公平無私な弁護活動ができるとは思えなかった。中立国が裁くのならともかく、勝利国が敗戦国の戦争犯罪を公正無私に裁けるのか疑問が残った。さらに戦勝国の犯罪——民間人の大量虐殺や原爆投下などは誰が裁くのか。なんとも不条理な極東軍事裁判であった。
 
 17日の法廷では、軍国主義教育が取り上げられ、最初の証人にGHQの民間情報局教育局長D・ニューゼント中佐が呼ばれた。中佐は戦前の4年間日本で教師生活を送り、日本では軍事教育のおかげで学生たちは侵略主義、超国家主義、権力への盲信、大東亜共栄圏への侵略是認などの心理的効果を与えたと証言した。
 木戸幸一被告の弁護士穂積重威、荒木貞夫大将担当の菅原裕弁護士が交々反対尋問に立ち、アメリカ政府或いは特別な団体の使命を佩びて来日したのではないか、諜報活動に服していなかったか、中佐の素性に疑惑を抱いているかのような質問を繰り返した。
 ニューゼント中佐につづいて教育史の海後宗臣東大助教授、大内兵衛東大教授、滝川幸辰京大教授、前田多門前文相、伊藤述史など学者たちが検察側証人として証言した。
 幼児教育論なら紙芝居は欠かせない、と清瀬弁護士が提案して日本紙芝居協会の佐々木秋夫会長が実演しながらの証言となった。紙芝居は単なる客寄せの手段で、正直、親切、友情など一般的な道徳のアピールが多く教育効果はなかったと主張できる、と清瀬は考えたのだ。しかし佐々木会長は、効果は不明だったが、軍国主義鼓舞の目的は明瞭だったと証言して清瀬を落胆させた。難しい話が飛び交う法廷内に、紙芝居の口上が響き、和やかな雰囲気であった。
 紙芝居の熱演が終ると、法廷は一転、検事側の証拠提出、それに伴う証人の証言がつづいたが、前総理で当時の外務大臣だった幣原喜重郎の満洲事変前後の政治裏面史が国民の興味を誘ったが、総体的にはだれた雰囲気だった。さらに松岡洋右が東大病院で死去したと告げられ、松岡の名は起訴状から削除された。
 キーナン検事が帰米して間もなく、「日本の天皇は戦争犯罪人として裁判しないことを決定している」と明らかにした。同時にワシントンの極東委員会の権威筋も、天皇の戦犯問題が議題となっても、委員会は反対するだろうと言明した。
 しかしキーナンも、極東会議の権威筋も、米国の方針と希望を表明しただけだった。
 極東裁判は、検事側証人として、五・一五事件で暗殺された犬養毅の三男で父の後を継いで政治家になった犬養健や予備陸軍大将だった宇垣一成、元首相の若槻礼次郎等が証言台に立ったが、検事、弁護人の直接、反対尋問ともに迫力がなかった。証人たちが被告と顔見知りで、告発とも弁護ともつかぬ当たり障りのない証言がつづいていた。
 7月5日、岡田啓介元総理への弁護側補足質問の後、証人席には元陸軍少将の田中隆吉が検事側の証人として登場した。田中は、日米開戦のときの陸軍兵務局長の要職にあった。したがって被告のほとんどが顔見知りだ。なぜ、元軍務局長が検事側の証人に、と戸惑う被告たちを尻目に田中元少将の証言は、普通なら証人が提出する宣誓供述書を使わず、いきなり検事の質問ではじまった。田中元少将は、陸軍大学を卒業後、昭和2年からシナ研究員として北京、上海に駐在、関東軍参謀を経て陸軍省兵務課長から兵務局長に就任、東條陸軍大臣、総理大臣に仕えた。兵務局とは、陸軍の風紀、軍紀を司る部門で、用兵など戦術面には介入できないが、田中元少将は満洲や対中国政策の裏面には精通していた。日本敗戦と同時に「敗因を衝く 軍閥専横の実相」なる著作を執筆、21年1月に出版している。それを知ったキーナン検事が田中を召喚して検事側証人に口説いたのだ。
 ポッダム宣言では、戦争犯罪人に厳重な処罰をくわえると明示されている以上、誰かがその咎を負わなければならないと田中は考えた。さらにキーナンは、トルーマン大統領から重大な指令を受けているという。マッカーサーも了解しているが、こんどの裁判で、天皇に責任はなかったとの結論を要請されているので協力してくれというのだ。田中は、積極的な協力を約束していた。
 田中の証言では、満洲事変は当時の参謀本部第一部長建川美次少将、第二部ロシア班長橋本欣五郎中佐、支那班勤務長勇大尉、関東軍高級参謀板垣征四郎大佐、作戦参謀石原莞爾中佐、大川周明博士が首謀者であった、と明言した。サケット検事が質問をつづけた。
 「田中さん、あなたがおっしゃった橋本を、あなたはご存知ですか」
 「わたしの友人です」
 「彼は、きょうの法廷にいますか」
 「イエス」
 「どこに座っているか、指で指してください」
 「あの左側であります」
 さらに田中は、板垣征四郎被告についても、自分の恩人といいながら、満州国に対して関東軍が持つ内面指導権をいかんなく駆使して、満洲国を支配していたと述べた。張作霖爆殺事件は河本大作大佐の指揮によるものと本人から聞いたともいった。翌日の新聞には、「張作霖爆殺は河本参謀の指揮 秘密集団さくら会の暗躍 満洲事変の首脳者 建川、板垣、橋本、石原、長氏」と田中証言が報じられた。国民の多くは、初めて真相を知らされたと思ったが、田中が聞かされた相手と証言した人物は、被告の板垣、橋本を除けば、すでに死亡していた。石原莞爾は引退して病床にあって直ちに反論できなかった。
 この日の法廷は田中の独壇場だったが、被告席には、もうひとつの衝撃が走った。天皇の側近であった木戸幸一侯爵日記の満洲事変当時の昭和6年9月前後の記述が朗読されたのだ。9月19日(満洲事変は9月18日未明勃発)前後の記述によれば、午後1時半若槻総理大臣が「これ以上の拡大はない」と上奏し、「政府の方針は真に結構なり、十分努力するように」との御言葉が発せられたが、軍部強硬派は内閣の方針を無視して戦線を拡大して満洲建国へ突き進み、天皇の言に従わない陸軍の暴走ぶりが顕わにされた。
 田中元少将の証言は翌日もつづき、木戸日記の暴露と合わせて、陸軍関係の被告を憤慨させた。田中は検察団に保護されていたから警戒する必要はなかったが、木戸は被告団の一員として、他の被告と行動を共にしている。自分だけ助かりたいために日記を提出した、と面と向かって詰る被告もでてきた。以後、木戸は被告たちの中で孤立した。
 8月、今まで個人の資格で弁護していた日本人弁護士たちが官選となり、日本の終戦処理費から月給が支給されることになった。基本給は月額1800円(副弁護人は1600円)別に法廷手当て3000円、家族1人に150円の手当が支払われるようになった。
 
 8月16日、元満洲国皇帝の溥儀が検事側証人として法廷に立つことになった。溥儀は、ウラジオストックからソ連軍の飛行機で厚木飛行場に運ばれており、GHQは東京裁判の証人として出廷すると発表していたので、内外の取材スタッフや傍聴人で法廷は活気づいていた。前日にひきつづき、南京虐殺の証言がアメリカ人伝道師ジョン・マギーによっておこなわれ、次いでキーナン検事の声が場内に響いた。
 「次に、ヘンリー・プー・イーを証人として喚問します」と。
 背後にソ連軍将校二名を従え、紺の背広に茶色のネクタイをしめた元皇帝の溥儀は、壇上で右手を挙げて宣誓すると証人席に座った。被告席には、溥儀を満洲国皇帝に担ぎだした板垣、土肥原被告をはじめ、ずらりと顔なじみの被告がならんでいたが、視線を被告席にむけることなく、検事を見つめていた。キーナンは、溥儀の生い立ちと経歴を訊ねた。
 「私は北京で生まれ、名前は溥儀です。満洲姓は愛親覚羅です……」から始まり、「旅順で関東軍板垣高級参謀に満洲国新政権の統領就任を強要され、『拒絶すれば断固たる処置をとる』と脅され、『止むを得ず屈服した』」と述べた。この日は昼食の休憩を含めて正味二時間の証言だったが、二日後に再開された法廷でも証言のつづきを求められ、すべて日本の脅迫で身の危険を感じたからだとヒステリックに主張した。裁判長も、「われわれは、証人から、なぜ日本に協力したか、その言い訳を散々聞かされたが、これ以上聴く必要ない」と口をはさみ、キーナンは委細かまわず質問をかさねた。
 「執政としても皇帝としても、官吏、軍人の任命権も、立法権もなかった。私の夫人は日本人によって毒殺された。下手人は吉岡中将です。1940年、吉岡中将は、私を無理に日本へ連れてきました。日本の天皇裕仁氏にお会いしたら、天皇は私に鏡と玉と剣の三つの宝を見せ、剣と鏡をくれました。これらの神器は日本の天皇を代表するもので、これによって満洲を同化し、奴隷化しようとしたものです」
 溥儀の証言は、中国での処罰から逃れようとする悪あがきで、すべての責任を日本に押し付けようとの意図が明らかであった。天皇と親しかった溥儀への反対尋問は手控えようと話し合っていた弁護側は、虚言のひどさに反対尋問の追及が厳しくなった。溥儀は記憶にない、忘れたなどの言い逃れに終始し、時には悲鳴のような声をあげるなど醜態を演じた。溥儀の証言は時間の浪費である、とウエップも洩らした。
 ついでシナ事変の発端となった盧溝橋事件(昭和12年7月7日、北京近郊の氷定河川原の日中両軍の衝突)が発生、その後戦火が上海に飛び火して、南京攻略に繋がった。南京虐殺事件の論告がなされ、〝南京虐殺事件〟を初めて知った国民もいた。
 シナ事変関係の立証が終り、法廷は日独伊3国同盟の審議に移っていた9月20日、検事側が証人と予定していた草場辰巳中将が自殺した、と国際検察局から発表された。草場中将は、ソ連軍によってシベリアに抑留されていたが、元関東軍参謀副長松村知勝少将と元関東軍作戦参謀瀬島龍三中佐とともにソ連検事の証人として、ウラジオストックから羽田に到着、東京駅近くのソ連宿舎に収容されていて自殺した。遺書があったが、ソ連側に没収されたといわれ、真相は不明である。
 
 3国同盟が太平洋戦争の誘因となり、日本軍の仏印(仏領インドシナ=現ベトナム、カンボジア、ラオス)進駐となり、真珠湾攻撃へつながったと各国検事の論告がつづいた。
 この後、ソ連代表のゴルンスキー検事が日本の『対ソ侵略』の冒頭陳述をおこなった。
 東京裁判で起訴された全被告は、1928(昭和3)年から1945(昭和20)年までの犯罪を問われていたのだが、ゴルンスキーは1904(明治37)年の日露戦争にまで遡って断罪した。さらに決着がついている張鼓峰事件、ノモンハン事件も蒸し返した。日本とソ連の間には日ソ中立条約が結ばれていたのに、その有効期間内の1945(昭和20)年8月9日、ソ連は日本に宣戦布告して侵攻を開始した。裁判に問うまでもなく従来の戦争法規を侵したのはソ連であった。
 
 11月2日、この裁判の最重要項目である『日本の一般的戦争準備』の検事側の立証がはじまり、アメリカのカール・ヒギンズ検事が冒頭陳述をおこなった。いうなれば満洲事変にはじまる日本の侵略戦争の総論で、日本の最終目標は全シナ、フィリピン諸島、オーストラリア、ニュージーランド、インドの侵略支配であったと断じた。この冒頭陳述を基に、キーナンを筆頭にアメリカの各検事が、18日間にわたって日本の侵略戦争を追及した。米国務省のバランタイン顧問を呼び、明治以来の日米関係を証言させた。また元米太平洋艦隊司令長官ジェームス・リチャードソン大将が証人として日本海軍の真珠湾攻撃のだまし討ちを陳述した。
 12月3日から蘭印(オランダ領東インド=現インドネシア)戦での日本の戦争法規違犯の立証のため、各検事が日本軍占領下の過酷な実態を暴露した。その後、法廷は『戦争法規違犯・残虐行為』の立証にはいり、検察側の立証は年があけた1947(昭和22)年1月24日、159回の公判ですべて終了した。
 
 2月24日、弁護側の反証は清瀬一郎弁護団長の冒頭陳述ではじまった。
 検察側の主張は、昭和3年の張作霖爆殺事件以来、日本は国策として中国侵略を企図し、共同謀議を元に、準備し、実行をしてきた。国家の戦争に参加遂行した被告たち個人も戦争犯罪人としての責任があるというのだ。
 それに対して弁護団は、個人の責任ではなく、日本の国家としての戦争犯罪が問われているとして、個人弁護よりも国家弁護優先の意思を統一するとの声もでたが、軍人被告は賛成したが文官や外交官被告たちの全面的な賛意は得られなかった。また日本人弁護士の間にも意思の疎通を欠いていた。

 清瀬弁護人は、日本政府が執った軍事措置は国際法に違反しているとは考えられないとして、国際法の定説として、戦争における人命の喪失は殺人ではない、と主張した。さらに太平洋戦争は、アメリカの蒋介石政権への援助で日中紛争を長引かせ、英国、オランダ、中国諸国とともに日本に対して経済的包囲網を布いたため、やむなく自衛のため戦端を開いたのだ、と日本の自衛戦を主張した。真珠湾の騙し討ちは事務の手違いで通告が遅れたが、アメリカは日本の暗号を解読してルーズベルトは事前に最後通告を知っていたから騙し討ちではないと反論した。

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(40)弱かった南京大虐殺の反証

 

1947(昭和22)年4月1日、新しい学校制度が発足した。義務教育の小学校にくわえて3年制の中学校が義務教育として発足した。従来の5年制の中学は3年制の高等学校として、昭和23年からスタートする予定だった。その後、大学は4年制になって新しい学校制度は完成する。
 また、都、県、市など地方の首長を選ぶ統一地方選挙、新憲法で決まった初の参議院選挙(4月20日)、第23回衆議院選挙(4月25日)と戦後初の体制変革の選挙であった。衆議院選挙では社会党が第一党となったが、過半数には達しなかった。婦人議員も15人に減少した。たて続く選挙に疲れたのかもしれない。
 
 5月1日から2日にかけて、山県県酒田市で、満洲事変当時の関東軍作戦参謀石原莞爾元中将の出張訊問がおこなわれた。石原退役将軍は、満洲事変の首謀者の1人だったが、郷里山形で病気療養中で出頭できず、ニュージーランド代表判事エリマ・ノースクロフトを長とする特別出張訊問団の派遣となったのである。酒田市商工会議所に開設された臨時法廷で、「満洲事変は陰謀でなく、本庄関東軍司令官の承認と意思による自衛権の発動だ」と石原は主張した。ダニガン検事が「兵力わずか一万の関東軍が、十万の中国軍を撃破したのは、長期間の準備があったのではないか」と反対尋問をしたが、「小兵力でも、訓練よく、団結よく、作戦よろしければ、数を恐れることはありません。今回の太平洋戦争でも、作戦よければ負けなかったと思う」とうそぶいた。
 石原元将軍の出張訊問は、検事側の徒労に終った。
 
 5月3日、日本国憲法が施行された。新憲法記念式典に参列した象徴天皇に対して、雨の中に集まった群衆の中から「天皇陛下バンザイ」の声が期せずして起こったという。
 国会が召集され、吉田内閣が総辞職、片山哲内閣が成立したが、自由党との連立工作が難航し、総理片山が各省の大臣を兼務して認証式を済ませ、外相芦田均、蔵相矢野庄太郎、文相森戸辰男、逓相三木武雄と社会、民主、国民協同三党の連立内閣を誕生させた。
 
 5月5日、法廷では「南京虐殺事件」の反証がはじまった。
 「南京虐殺事件」は、昭和12年12月13日からの南京攻略戦で日本軍がおこなった中国市民の大量虐殺、陵辱事件とされたが、終戦まで大半の日本人には知らされていなかった。しかし極東裁判では最大の戦争犯罪として、中国が最重要案件として殺され、陵辱された中国人は少なくとも42万と主張した。南京戦を正規兵として戦って戦死した中国兵、軍服を捨て民間人に変装してゲリラ戦で殺された死亡者は数万ぐらいはいたかもしれないが、40万とは多すぎると考えられた。
 日本軍の攻撃が迫った南京に残留していた英、米、ドイツ、デンマーク、オーストリアなどの牧師、医師、商社マンなど20名余が「南京安全区委員会」を組織し、日本、米国などの大使館所在地区を安全区として、赤十字の旗を立てて軍隊の立ち入り禁止地区に指定、中国軍の了解もとっていた。進入した日本軍にも同様の措置を要請する文書を提出したJ・マギー牧師は、受け取った日本軍将校は了承したという。ところが退却する中国軍兵士は軍服を脱ぎ捨て、一般市民の便衣を着てゲリラとなり、安全区に逃げこんだと強引に捜索する日本兵もいたという。さらに17日には、中支派遣軍司令官松井石根大将、上海派遣軍司令官朝香宮鳩彦中将らが馬に乗り南京入場式をおこなった。司令官が2人、しかも1人は皇族とあって、治安維持に厳重な警戒がとられた。当時、南京は百万都市といわれていたが、蒋介石の退去にともない避難した市民も相当いて、実際には25万の市民がいると軍では推測していたので、逃げ遅れた中国兵が数万いても、40万という数字は信じられなかった。
 だからこそ、弁護側の反証に期待が持たれた。
 南京虐殺の弁護側反証のトップバッターは、松井石根大将を担当した伊藤清弁護士で、元上海総領事日高信六郎を証人に呼んだ。日高総領事は南京入城式に参列、その後3回にわたって南京を訪問、そのときの見聞をもとにして、松井大将が南京攻略には慎重であったが、一般住民の反日感情は強く、老人、婦女子までがスパイ、サボタージュをおこなったので、日本軍の警戒心と敵意を掻き立てたとの供述書を提出し、翌年の元旦に年賀に訪れたとき、松井大将から「悪いことした部下がいた」と聞かされ、南京在留外国人の申し立てを耳にしたと述べた。
 伊藤弁護士は、日本軍が砲撃しなかった南京安全区委員会からの感謝状、中国兵が逃亡するとき衣服を剥ぎ取るために一般市民を殺害したという米国上海領事館の国務長官への報告電報などを書証として提出した。
 翌日は、第10軍の法務部長塚本浩次大佐が証人として出廷したが、「南京入城式後、松井大将の命令で日本兵の不祥事を調査して将校4、5人を含む主として略奪、強姦事件を処断した。傷害、窃盗は少なく、殺人も2、3件あったが、集団的虐殺犯はなかった」と証言した。執拗な検事の反対尋問もおこなわれたが、塚本大佐は、「知らぬ、記憶がない」を連発して追及をかわした。

 40万の大虐殺として告発した中国側の論告に、大いに反撃すると期待された弁護側の反論は弱く、中国の主張が目立つ結果となった。事件発生から70年以上経った今も、事件の有無を含めて、被害者の数が論じられている。

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(41)昭和天皇の戦争責任

 

前述したように「国家弁護」か「個人弁護」か、弁護人の意思は統一されず、外務省出身の被告と軍人被告の対立もあり、さらに各被告の利害が微妙に絡み合っていた。
 被告は侵略戦争に反対する平和主義者だった上、自分には権限がなかったと主張するのが典型的な個人弁護のパターンである。
 嶋田繁太郎大将は、昭和16年10月に東條内閣の海相に就任して、日米開戦決意の経緯を初めて知った。3日後の10月30日、海軍だけが戦争を反対して戦機を失しては申し訳ない、とあっさり日米決戦に態度をあらためた。しかし、証人台に立った嶋田は、「当時は日中戦争に手一杯で、政府、統師部には米英との戦争を欲する者はひとりもいなかったが、11月26日に届けられたハル・ノート(ハル国務長官の対日最終提案)を読み、日本の存立を危うくする最後通牒と解釈され、受諾しようという意見は全くなく、海軍は勝つ自信はなかったが、開戦を決意した」と延べ、11月30日に永野修身軍令部総長とともに天皇に「開戦の準備が完了」と上奏したと証言した。
 「真珠湾攻撃の前に対米通告をすべし、というのが天皇の考えですか」とロビンソン検事が訊ねると、「その通りです。天皇だけでなく、政府の方針でした」と嶋田は答えた。
 さらに「通告問題の責任をすべて東郷外相に負わせるつもりですか」と問われると、
 「対米通告は外務省の専管事項だから、手の出しようがありません」
 と、外務省の責任を示唆した。
 一方、そのときの外務大臣東郷茂徳は、「最初に奇襲ということをいったのは永野軍令部総長で、つぎに伊藤整一軍令部次長(戦艦大和の沖縄特攻で戦死)が、交渉をそのままにしておいてくれ」と要請したと主張し、海軍は既に決意していた真珠湾奇襲の作戦を成功させるために、ぎりぎりまで外交交渉を引き延ばせと申し入れてきたという。
 さらに裁判がはじまったばかりの昨年(1946年)5月、嶋田被告が東郷被告に、
 「海軍が奇襲を望んだといわないでくれ、いったらお前のためにならないぞ」
 と脅迫的に告げられたとも述べた。
 読みあげられた東郷の供述書を聞いた外務省出身の重光葵被告は、「あまり自己防衛に極端で他人に傷をつけ、気品に欠ける自己推奨」と評価した。
 嶋田は、1948(昭和23)年1月9日、異例の再喚問で、東郷のいう「脅迫的」言辞は「自分の逃げ道」として強弁したに過ぎないと一蹴した。海軍の要求どおり攻撃の30分前に対米通告をしていれば「国際法上、何ら差支えなかった」と、通告の遅れは外交官の手落ちで海軍の責任ではない、と東郷に反撃した。
 嶋田は、東條の副官と揶揄されるほど東條に服従し、サイパン陥落で内閣総辞職するまで東條のすべての要請に応えていた。
 
 戦争末期、アメリカでは日本占領政策について言論の自由や政体選択の自由を国民に保障し、戦争犯罪者の処罰がポッダム宣言に明示されている。統治機能も連合軍に隷属することも宣告済みである。しかし、日本全土を占領軍が直接統治するか、占領軍の監視のもとに日本の行政機関に統治を委任するか、はっきり決めていなかった。
 もし、連合軍が直接統治をおこなうとすれば、日本中の市町村に司政官を置かなければならないが、日本語を理解する語学兵も足りず、ジョセフ・グルー国務次官(前駐日大使)も天皇制を護持して日本政府を監督する間接統治を主張し、マッカーサーも受けいれた。
 戦争責任は天皇にはないとのマッカーサーの方針は、キーナン主席検事やウエップ裁判長らには了承されていたが、なおもソ連などの連合国には、天皇の免訴はおかしいとの声を呼んでいた。キーナンは、マッカーサーの権威を利用して「天皇免訴」を押し付けるよりも、被告の訊問の中で「天皇無責任」を証明したほうが賢明であると判断した。
 政府と軍の責任者が合意すれば、天皇は合意するしかない明治憲法での輔弼制度が欧米法になじんだ判事や検事、アメリカ人弁護人にも理解できない部分が多かった。キーナンは、すでに公開されている木戸日記が天皇訴追論者への声援に成りかねないとも危惧した。
 12月26日から予定されていた東條の個人弁護の訊問を買ってでて、清瀬弁護人の冒頭陳述を基にした口供書をブルーエット弁護人が朗読したあとにキーナンが直接東條に尋問すると決定した。が、日本は追いつめられてはじめざるを得なかった自存自衛のための太平洋戦争だった、と「国家弁護の方針」が語られていた口供書は、相当の長さだった。法廷は土、日の休廷を挟み30日、やっとキーナンの出番となり、「天皇の日米間の危幾を平和的に解決したいお気持はわかっております」と東條から証言を引きだすのに一旦は成功したかに見えた。
 ところが翌日の大晦日、木戸担当のローガン弁護人が、「木戸は天皇の平和希求のお気持に反する行動をとったことがなかったか」と東條に訊ねると、
 「そういう事例は、もちろんありません。日本の臣民が、陛下のご意思に反してかれこれするということはあり得ぬことであります。いわんや、日本の高官においておや」
 とキーナンの意向に真っ向から反する答弁をした。
 即座にウエップ裁判長が「今の回答がどのようなことを示唆しているか、わかるでしょうね」と介入し、キーナン検事は、嶋田被告担当のブラナン弁護人の訊問が終るのを待って、反対尋問を開始したが、発言は質問というより罵詈雑言に近く、東條は呆気にとられ、ブルーエット弁護人の異議申し立てで却下されてしまった。
 キーナンは、再度尋問して、東條の前発言を覆させようと決心した。
 1948(昭和23)年の正月休み中に東條に発言訂正をつたえなければならない。
 大晦日を山中湖の自宅で過ごしていた田中隆吉元少将に電報が打たれ、田中はキーナンの宿舎三井ハウスに駆けつけ、夜を徹して善後策を検討した。田中は、直接東條に結びつく人脈を思いつかず、松平式部長官に相談することを提案した。すぐに迎えの車が派遣され、松平長官を交えて対策が練られた。松平は、東條を直接知らないが、被告の木戸元内大臣ならばよく知っている、木戸元内大臣の令息である木戸孝彦弁護士を通じて東條を説得してもらうことにした。
 正月2日に開廷される東京裁判だが、3日、4日は土、日曜日で休廷、なにがなんでも5日の法廷に間に合うように東條を説得しなければならない。
 1月6日の午後、東條の訊問中にキーナンは、「東條の説得成功」を知らされ、
 「2、3日前、あなたは、日本臣民たる者は何人たりとも天皇の命令に従わぬ者はいないといわれましたが、正しいですか」と訊ねた。
 「それは国民感情を申し上げたのです。天皇の御責任問題は別です」
 「しかし、あなたは実際に米、英、オランダに戦争をしたではありませんか」
 「私の内閣において戦争を決意しました」
 「その戦争をおこなえというのは裕仁天皇の意思ですか」
 「私の進言……統師部その他責任者の進言によって、しぶしぶ御同意になったというのが事実です。平和愛好の陛下は、平和への御希望はもっておられました。昭和16年12月8日の御詔勅の中に、明確にその御意思の文言がつけ加えられています。しかも、それは陛下の御希望によって、政府の責任においていれた言葉です。まことにやむを得ざるものあり、朕の意思にあらずという意味の御言葉であります」
 キーナンも満足する回答だった。
 
 その後、検察側の最終論告がおこなわれ、キーナンが総論を朗読、極東裁判の意義は第三次世界大戦の防止と全世界への戒めであると謳い、被告たちの責任回避を非難した。最終論告の後、弁護側の最終弁論で東京裁判の審理は終わった。一昨年の4月、A級戦犯として起訴された27人の内、入院した大川周明、死亡した松岡洋右にくわえて永野修身も病を得て急死していた。発足して1年もたたない片山内閣が、社会党左右両派の対立が激しくなり、内閣総辞職に追いこまれ、芦田均内閣が誕生した。
 「判決を留保し、追って発表するまで休廷」とウエップ裁判長が宣言、東京裁判は結審したのは、開廷から755日たった4月16日のことだった。

 

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(42)B、C級裁判

 

一方、東京裁判の結審が近づいてきた3月、横浜軍事裁判所で、九州大学生体解剖事件の裁判が開かれた。この事件は、昭和20年5月、九州大学医学部解剖教室が、九州中部を爆撃して撃墜され、捕虜になったB29の搭乗員8名を西部軍から受け取り、生きたまま解剖し、輸血の代わりに海水を注射する実験をしたものだ。西部軍の命令でやったというが、西部軍では捕虜全員を中央に送るつもりで中央に連絡したが、情報をもった幹部だけを送り、残りは現地で処理せよといってきたため、西部軍の軍医小森卓が執刀した石山主任教授に持ちかけたという。小森軍医は、その後6月19日の福岡空襲で戦死、石山教授は逮捕後に自殺したので、解明できない部分が多かったが、西部軍司令官の横山勇中将ら2名、九大関係者では助教授や講師ら3名が絞首刑となり、18名が有罪となった。
 この事件も、国民の大半は、関係者が逮捕起訴され、広く報道されて知ることになった。人を助ける医学の徒が、仮に研究のためであっても、絶対に許されることではない。日本人であることに吐き気を催し、自己嫌悪を感じさせるおぞましい事件であった。
 生体解剖事件は、開戦責任を追及された国家指導者たちA級戦犯と異なり、捕虜、一般市民を虐待したB、C級戦犯として裁かれた。
 
 戦闘中に国際法規を破ったB、C級戦犯を裁く法廷は、米、英、豪、蘭、仏、中、比の各国がそれぞれ軍事法廷を開き、違法行為を働いたとして日本兵を裁いた。
 A級裁判と異なり、容疑者の起訴、判決の基準等裁判の進行は各国に一任されたため、実施国の国内事情や慣習によって判決にも相違があった。が、各国に共通していたのは、それぞれ軍法会議として処理したため軍人が判事を務め上告の制度がなかったことだ。
 7カ国で起訴されたのは総計5799人、死刑にされた者920人、有罪を宣告された者5200人に及んだ。
 米軍関係のBC級戦犯で、横浜法廷で裁かれた499名の中に、本土防衛の第13方面軍司令官兼東海軍管区司令官岡田資陸軍中将がいた。岡田中将は、日本を爆撃して撃墜され、東海地方に降下したB29の搭乗員38名を処刑したとして裁かれた。米軍の起訴状には、B29の搭乗員を捕虜にして不当な裁判で処刑した、と書かれていた。
 「私たちが処刑したのは、捕虜ではない。無差別爆撃をおこなった犯罪容疑者である」
 と岡田中将は反論した。第1次大戦後の1923(大正13)年、米英仏伊蘭日の6か国が参加して「戦時法規正委員会」がハーグで開かれ、「爆撃は軍事目標に対しておこなわれた場合のみ適法とする」と宣言していたからである。日本も宣言国の一員でありながら、中国・重慶爆撃を敢行したが、米軍の日本爆撃は桁違いだった。3月10日の東京大空襲、5月14日の名古屋市北部の焼夷弾爆撃は紛れもなく無差別爆撃であった。さらに広島、長崎に投下された原子爆弾など、まぎれもない戦争犯罪であるが、戦勝国ゆえに不問に付されたが、名古屋無差別爆撃に参加した搭乗員が犯罪容疑者として裁かれるのは当然のことであると岡田中将は主張した。だが勝者として裁く米軍横浜軍事法廷は、岡田中将に絞首刑を宣告したのだった。
 
 米軍のマニラ軍事法廷では、山下奉文14方面軍司令官がいち早く処刑されたが、すでに予備役に編入されていた開戦時の14軍司令官本間雅晴中将も処刑され、さらに「バターン半島死の行進」の直接の輸送指揮官、河根良賢少将も処刑された。マッカーサーは、逃げ出すときに置き去りにした部下が被害を受けたため、復讐心が強かった。
 フィリピンは開戦直後から日本軍に占領された地区が多く、市民の日本軍との接触も頻繁だった。撲られた、犯された、食糧を奪われた、などと被害者が申し立てると、それだけで起訴され、被害者が犯人と断定すれば、そのまま裁かれた。上官の命令での犯行も、上官が逃げてしまうと犯人とされた下級兵士が処刑された。とくにフィリピンはひどく、下級兵士が犠牲になることが多かった。罪を部下になすり付けて上官が逃げるケースもあった。皇軍と教えられていた国民は、軍隊のそんな実態が信じられなかった。

 ベトナムを植民地にしていたフランス、インドネシアのオランダ、シンガポールとマレーシア、ビルマ(ミャンマー)、インドの英国などの旧殖民地の宗主国は、植民地の独立問題も抱え植民地を奪われる復讐心もあってハードな判決が多かった。

 

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(43)極東裁判の判決文

 

さて極東裁判だが、判事11名がそれぞれ判決文を書き、ウエップ裁判長が纏める予定で、事前に判決の土台となる「判決意見書」をウエップが書いて各判事に配布した。ところが、この意見書に同意する判事がいなかった。原因は、ウエップが侵略戦争の違法性を、自然法に求めたことである。自然法とは、人間の自然的性質に基づく普遍的、恒久的な法律や規範をいう。人が人為的に制定した人為法、制定法と相対的なものである。
 英国の代表判事ウィリアム・パトリックは、ウエップの「平和に対する罪」を自然法として主張する法理論は、ドイツの戦争犯罪を裁いたニュールンベルグ裁判の判決とは基本的に違うとして反対した。ウエップは、ニュールンベルグ裁判の判決を模倣したくなかったのだ。多分、日本側弁護人から、平和に対する罪は事後法で、東京裁判には日本軍の「平和に対する罪」と「人道に対する罪」を裁く管轄権はないと主張されて却下したが、各国判事の意見の相違で却下の理由を説明できず、判決までに説明するとしていた。
 ウエップは、却下の理由を自然法で説明しようとしたらしい。
 
 ドイツの戦犯を裁いたニュールンベルグ裁判の基本法は1945(昭和20)年8月8日制定の「国際軍事裁判所憲章」であるが、その第6条に(A)「平和に対する罪」侵略戦争または国際条約、協定、誓約に違反する戦争の計画、準備、開始とその共同謀議への参加。(B)「戦争犯罪」は戦争の法規または慣習の違犯。占領地の一般住民殺害、虐待、捕虜の殺害、公私財産の略奪、都市町村の恣意的な破壊。(C)「人道に対する罪」と定義された。但し、C級犯罪は、ドイツのアウシュヴィッツ強制収容所のユダヤ人大量虐殺事件を裁くための項目で、日本人には適用されなかった。
 「平和に対する罪」は1945年8月8日の「ニュールンベルグ憲章」で創られた犯罪なのに、1928(昭和3)年以来の共同謀議で「平和に対する罪」を犯したとすれば、清瀬弁護士が指摘した「事後法」であり、極東裁判には「管轄外」の裁判なのである。
 パトリック判事は、ニュールンベルグ裁判において侵略戦争は国際法上の犯罪と決定している、と各国判事を説得、カナダのマクドゥガル、ニュージーランドのノースクロフト、米国のクレイマー、ソ連のザリヤノフ、中国の梅、フィリピンのハラニーリャら6名の判事から賛意を得て、7名の多数派で法律部分の判定理由を決定した。弁護人から異議が述べられてウエップ裁判長が却下した管轄権問題を、「憲章の法は決定的であり、本裁判所を拘束する」とニュールンベルグ判決を利用して説明しようとした。
 少数派だったインドのパル判事、フランスのベルナール判事、オランダのレーリング判事にも多数派判事が決定した草案は配られた。同意できない少数派判事は、自らの信念をもとに判決文を執筆、裁判長ウエップに提出した。多数派判事は、起訴状の訴因が多すぎるとして最終的には、侵略戦争の共同謀議、侵略戦争遂行、残虐行為の3つのカテゴリーに絞られ、判定対象も起訴状の55訴因から10訴因に減らされた。
 結審から3か月経った7月26日、判事団会議でようやく判決の一部が完成し、完成部分から翻訳にまわされた。翻訳団は、白金三光町の服部ハウス(服部時計店社長邸)に、判決内容が漏れないように何か月も缶詰にされて翻訳にあたった。持ちこまれた判決文は、パトリック判事を中心とした多数派(委員長は米国判事クレイマー)が作成したもので、ウエップ裁判長も、多数派に押し切られて容認せざるをえなかった。
 
 ウエップ裁判長が東京裁判の結審を宣言して間もなく、警視庁は肥料製造会社昭和電工本社の家宅捜査を実施した。昭和電工社長日野原節三が、工場増設のために復興金融公庫の融資を受ける運動費として政界に現金をばら撒いた容疑で逮捕され、9月になると前農林次官重政誠之、大蔵省主計局長福田赳夫、元日本自由党総裁幹事長大野伴睦、日本興業銀行副総裁二宮善基、前蔵相で経済安定本部長官栗栖赳夫らが逮捕され、芦田内閣は総辞職、10月14日、国会は民主自由党の吉田茂を首班に指名した。
 極東裁判は幣原喜重郎内閣のときにはじまり、第一次吉田茂内閣、片山哲内閣、芦田均内閣、第二次吉田茂内閣と4代の内閣で、2年余の歳月を費やしていよいよ大詰めを迎えていた。
 
 1948(昭和23)年11月4日、極東裁判はウエップ裁判長の判決文の朗読を開始した。判決文は、「第一章 裁判所の設立及び審理」にはじまり、「第九章 起訴状の訴因ついての認定」を経て「第十章 判決」に至る英文30万5千200語に及ぶ膨大なもので、読み上げるのに正味七日間を要した。11月12日午後、朗読を終えたウエップ裁判長は、休憩後に判決を宣告すると宣言して休憩にはいった。松岡洋右、永野修身が病死、精神病院に送られて免訴された大川周明にくわえて賀屋興宣、白鳥敏夫、梅津美次郎の三人は病気入院のため顔を見せなかった。
 休憩後、姿を現したウエップ裁判長は、アルファベッド巡に被告をひとりずつ呼びだし、判決を宣告した。
 
 荒木貞夫大将     終身刑
 土肥原賢二大将    絞首刑
 橋本欣五郎大佐    終身刑
 畑俊六元帥      終身刑
 平沼騏一郎元首相   終身刑
 広田弘毅元首相    絞首刑
 星野直樹元書記官長  終身刑
 板垣征四郎大将    絞首刑
 木戸幸一元内大臣   終身刑
 木村兵太郎大将    絞首刑
 小磯国昭元首相    終身刑
 松井石根大将     絞首刑
 南次郎大将      終身刑
 武藤章中将      絞首刑
 岡敬純中将      終身刑
 大島浩元駐独大使   終身刑
 佐藤賢了中将     終身刑
 重光葵元外相     禁固7年
 嶋田繁太郎大将    終身刑
 鈴木貞一元企画院総裁 終身刑
 東郷茂徳元外相    禁固20年
 東條英機元首相    絞首刑
 賀屋興宣(欠)    終身刑
 白鳥敏夫(欠)    終身刑
 梅津美治郎(欠)   終身刑
   病気欠席の3名の判決は、それぞれの担当弁護人が自席で受けた。
 
 絞首刑が東條英機、広田弘毅など7名、終身刑が16名、2名が有期刑と全員が有罪とされた。対米開戦の総理だった東條英機の絞首刑は当然であるが、広田弘毅の絞首刑は意外だった。承服できなかった。広田の訴因は、侵略戦争(満洲事変以後)の共同謀議、対中国侵略戦争遂行、人道に対する罪(違犯行為防止責任無視)の3つであったが、総理大臣のとき軍部大臣現役制を導入したことや、外務大臣として南京の虐殺事件の連絡を受けながら、陸軍に通告しなかったのは陸軍暴走を後押ししたと判断された。広田の死刑は中国が執拗に主張した。11人の判事の中で、インドのパル、フランスのベルナール、オランダのレーリングの三人が無罪、オーストラリアのウエップ、ソ連のザリヤノフは禁固刑が妥当としていた。結局、中国の主導で、6対5の1票差で広田の死刑が決定した。広田は黙って極刑を受け入れた。開廷直後の被告人の罪状認否にも、「無罪」というのもしぶった広田は、首相だったときの責任、日中戦争の発端となった盧溝橋事件のとき外相だった責任、南京事件等で「自分が責任ある地位あったときの事態について責任を回避しようと思わない。ゆえに主張は、あくまでも自分自身の範囲内でおこないたい。戦争を自衛戦として、責任をまぬかれる気持にはなれない」と言明しており、自己弁護もしなかった。天皇をはじめ関係者に累を及ぼさない覚悟だったともいわれている。広田以外の六人の絞首刑判決は、7対4の多数決で決定している。
 極東裁判の判決には、5判事の個別意見書が提出されたが、裁判長のウエップは21ページの短い別個意見を提出した。真の意味の反対意見は、インドのパル判事の1235ページ、オランダのレーリング判事の249ページ、フランスのベルナール判事の23ページであった。フィリピンのハラニーリャは、一部の被告の判決が寛大過ぎるとの趣旨で、原爆の投下が戦争の早期終結をもたらしたとアメリカに媚びただけだ。
 ウエップは、原則的には多数派判決に賛成したが、共同謀議の罪だけで死刑にすることに反対した。さらに天皇の不起訴問題にも触れ、連合国の都合で天皇を免訴した以上、有罪とされた他の被告も免責されてしかるべきではないかと述べた。ウエップの場合、多数派判事集団から判決文の作成に排除された鬱憤を晴らす形ばかりの意見書であった。
 オランダのレーリングは、当時の国際法では「平和に対する罪」によって死刑を適用できないとし、広田をはじめ文官である重光、東郷、木戸は無罪であると主張した。
 フランスのベルナールは「通例の戦争犯罪」について、閣僚や指揮官であっただけで広範な責任を科すのは不当である。また「平和に対する罪」は認められず、量刑の不公平さも指摘している。

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(44)インド、パル判事の日本無罪論

 

インドのパル判事は、徹底的に極東裁判を否定した。
 戦勝国は「通例の戦争犯罪」の管轄権を持つにとどまり、「新しい法律」(平和に対する罪)を制定する権限はない、と断じた。
 そもそも「侵略」は定義し難い概念であり、戦争の法的性格は不戦条約でもまったく変わっていない。他国を支配しようと準備することが重大な犯罪とするならば、第2次世界大戦以前の強国に共通する汚点である。過去に汚点を持たない強国はない。特に原爆投下をしたアメリカは甚だしい汚点を有し「人道」を論ずる資格はない。東京とニュールンベルグの両裁判は、将来に向けた「法の支配」構築に貢献するだろうが、そのときが到来するまでは敗戦国に不利な先例になるだけで、戦争の犯罪化は時期尚早であると断じた。
 残虐行為についても、占領地で日本軍が残虐行為を犯した証拠は十分にあったし、弁護側も南京事件を否定しなかったので日本の交戦法違反を認めた。が、問題はその刑事責任を被告にどう負わせるかだ。パルは証拠を読んで、残虐行為は散発的な事件で、検察側が主張したような「政府の政策」でも「閣僚が命令や許可」したものでなく、東京の閣僚には現地軍隊の管理権限もなかった。
 パルは「閣僚の不作為責任」を世界政府の「行動標準」になり得る概念とみとめるものの、それは将来の話に過ぎない。他方、現地司令官には残虐行為を抑える法的責任があるとして「軍司令官の不作為責任」を認め、個々のケースを検討した。そして南京での不法行為を知った松井の軍紀徹底命令は「効力がなかった」が、「法的責任を故意かつ不法に無視した」とは認定できないなど、いずれも証拠上、残虐行為に責任なしと述べた。
 かくしてパルは、個人としての被告は全員、起訴事実すべてに「無罪」と結論した。
 さらにパルは、「侵略」の定義を決めるのは困難だと述べた。「侵略戦争」は、学者の理論ではなく、現実の国際関係で解釈されるからだという。
 
 2010年現在、ハーグの国際裁判所(ICC)も、「侵略戦争の罪」「平和に対する罪」を管轄するのは、将来「侵略」の定義が成立してからの話であると実質管轄外としている。要するにパルは、処罰の根拠となる「平和に対する罪」が法の上で存在していない以上、被告全員は刑法では無罪であると主張した。また残虐行為については、「法」の存在は認めるが、検察側の立論と証拠が不十分として「無罪」と主張した。
 「満洲における日本の行動は、世界はこれを是認しないのは確かであるが、犯罪として非難することは困難である。平和に対する罪の法がそもそも成立しないのだから被告は全員無罪の判定となる」と述べている。
 ラダビノッド・パルは、カルカッタ高等法院の判事を勤めていた1946(昭和21)年5月、東京裁判のインド代表判事に指名された。パルが来日した翌年2月、英国首相アトリーはインドへの主権移譲を表明し、インドの独立が決定した。パルの東京裁判での強烈な反対意見は、インド政府部内でも賛意はえられなかった。
 
 文官としてただひとりの死刑を判決された広田弘毅には、意外感が強く、東京・数寄屋橋では減刑嘆願書の署名運動がおこなわれた。ブレイクニー弁護士が全被告を代表してマッカーサー司令官に再審請求を要求する申し立て書を提出した。マッカーサーは、対日理事会を構成する各国代表をGHQに招き、刑の宣告について意見を聴取したが、これは形式的手続きで、再審請求を却下した。
 11月24日、マッカーサーは、米第8軍司令官に判決通りの刑の執行を命じたとの特別声明を発した。
 11月29日、広田家の長男弘雄、長女菅野千代子、三男正雄、次女美代子、三女登代子の兄妹が、父を拘置所に訪ねた。広田は支給された米軍作業服を着て現れたが、右手にかけられた手錠で衛兵の左手に繋がれていた。5人の子どもが全員そろってきたのを相好をくずして喜んだ。
 教誨師花山信勝は、被告と家族との連絡など、いろいろ世話をしていた。広田兄妹といれかわるようにやってきて7人の戒名を持ってきたと広田に告げた。広田は、静子夫人死亡の折、福岡の菩提寺から「弘徳院殿悟道正徹大居士」という戒名をもらっていたので、花山教戒師の戒名を謝辞した。
 
 ところが11月30日、GHQは死刑執行を延期すると発表した。被告弁護人の一人が、東京の軍事法廷はアメリカの憲法に違反しているとして、米連邦最高裁判所に人身保護を申請したからである。申し立ては、大統領の命令によってマッカーサー元帥指揮下に設置された東京の法廷は国際的な合法性を持たず、アメリカの立法府もこのような新規の裁判所の設置をマッカーサー司令官に委任したこともない。東京の法廷は米憲法に違反しているとの主張だった。
 米連邦最高裁判所は、極東国際軍事裁判所は連合国の機関として設置されたものであり、合衆国の法廷は審理する権限は持っていないとして弁護側の申し立てを却下した。
 その報告を受けたマッカーサーは、12月21日、改めて米8軍司令官のウォーカー中将に、死刑執行を2日後の12月23日に実施せよと命じた。
 
 12月23日は、明仁皇太子(今上天皇)の誕生日である。処刑は午前零時1分の予定であるが、巣鴨拘置所には死刑台は4基しかない。東條、松井、土肥原、武藤を第1組、板垣、木村、広田を第2組と分けて処刑されることになった。
 22日午前9時から花山教戒師が、7人とそれぞれ個人面談をおこない、家族からの伝言を伝え、死刑囚たちの遺言を聞いた。全員が前日に刑の執行を告げられたが、落ち着いていたと花山教戒師は家族に告げた。さらに午後7時から、ひとり30分ずつ面談し、一階の仏間にそれぞれのコップに別れのぶどう酒と末期の水を注ぎ、入室を待った。
 刑の執行7分前、第1組の4人が独房から連行されてきた。自殺防止のため、全員が両手錠で、手錠はさらに大腿にしばりつけられていた。4人は、不自由な恰好のまま仏壇に線香をあげると、花山師の求めに応じて奉書に署名し、コップのぶどう酒を口につけてもらい、最後の水を飲ませてもらった。4人は深々と頭を下げ、花山師に感謝のことばを述べた。武藤が万歳三唱を提案し、松井が音頭をとり、「天皇陛下万歳」と万歳を三唱し、さらに「大日本帝国万歳」も三唱した。
 処刑場に通じる鉄の扉が開けられ、警備将校の先導で花山師と4人がつづいた。死刑執行には、対日理事国4か国代表も、マッカーサーの要請で立ち会った。
 被告たちは処刑室の入り口で花山師に謝辞を述べ、処刑室の中に姿を消した。
 花山師は、次の3人を迎えるために仏間にもどった。途中、背中に「ガタン」と響く衝撃音を聞いた。
 花山師は仏間で、ぶどう酒と水をコップに注いで次ぎの組を待った。次の3人は、板垣征四郎、広田弘毅、木村兵太郎の順ではいってきた。第一組と同じように、3人は線香を立て、署名を終ると、花山師が読経をした。
 経が終ると広田がいった。
 「お経のあと、マンザイをやったんじゃないか」
 「ああ、バンザイですか。やりましたよ。皆さんもどうぞ」
 広田に勧められて板垣が大声で音頭をとり、バンザイ三唱をした。広田は、万歳三唱を提言したとき、「マンザイ」と発音して、郷里福岡の方言ともいわれるが、福岡で過ごした時間が長かった筆者は、「まんざい三唱」と聞いた記憶はない。
 
 午前0時20分、3人の処刑がおこなわれ、東京裁判の死刑執行は終った。
 処刑された7人の遺体はどう処理されたのか。GHQでは極秘条項として公表しなかったが、小磯被告担当の三文字正平弁護士は、処刑後の遺体は横浜市の久保山火葬場で火葬にすると突きとめた。久保山火葬場は、三文字夫人を荼毘に付した場所でもあったし、近くの興福寺市川伊雄住職は知己であった。三文字弁護士は、市川住職の力を借り、飛田火葬場長の協力を得て、米兵の警戒がゆるむクリスマスイブを待って、飛田場長の目撃した骨捨場の真新しい遺骨の収集に成功した。三文字弁護人は、収集した遺骨をおさめた慰霊碑を名古屋郊外三ケ根山頂に建立、「殉国七士墓」を碑銘とした。
 
 7名処刑の翌日、マッカーサー総司令部では、未起訴のA級戦犯岸信介ら19名の釈放を発表した。松沢病院で治療を受けるために免訴されていた大川周明被告も快癒して退院したが、完成した回教の聖典「コーラン」の翻訳原稿を抱えていた。

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昭和の大戦争 南條岳彦 copyright by Takehiko Nanjo 2010