第4章 マッカーサーの君臨

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(28)東久邇宮内閣の誕生
(29)饒舌だった皇族内閣
(30)幣原喜重郎内閣の発足
(31)君臨するマッカーサー
(32)焼け跡の初春
(33)GHQの新憲法改正案
(34)戦後初の総選挙と東京裁判

(28)東久邇宮内閣の誕生

東京では、総辞職した鈴木貫太郎内閣のあとを受けて、東久邇宮に組閣の大命が降下した。東久邇宮稔彦王は、皇族久邇宮家の9男として生まれ、明治天皇の第9皇女の降嫁先として新しく設立された宮家の創始者で、現役の陸軍大将である。開戦時、近衛内閣の後継を選ぶときも陸軍の暴走を抑えるのは皇族内閣しかないと東久邇宮の名前も候補にあがったが、戦争責任の累を皇室の及ぼす恐れがある、と木戸幸一の推薦で東條英機内閣が出現した。
鈴木内閣はポッダム宣言受諾で戦争を終らせたが、受諾をめぐって鈴木総理の黙殺発言で結論が遅れ、広島、長崎への原爆投下やソ連参戦を招き、受諾決定を天皇に委ねて輔弼の責を果たせなかったための内閣総辞職で、鈴木総理は黙殺発言に一生の悔いを残した。
東久邇内閣の当面の課題は、摩擦なく占領軍を受け入れ、300万以上の海外日本軍の降伏と武装解除をすすめ、復員させるのが急務であった.
連合軍司令部は、正式の降伏受理の打ち合わせに、権限を持つ使者をマニラへ派遣せよと通告してきた。陸軍参謀次長の川辺虎四郎を全権に、海軍の横山一郎少将を首席随員に総勢17名の使節団が派遣されるすることになった。連合軍の指定は、真っ白に塗った飛行機に緑十字のマークをつけて沖縄伊江島まで飛んでこいというものだった。しかし、厚木海軍航空隊の戦闘機は「徹底抗戦」のビラを撒き散らし、無線で各基地に参加をよびかけている現状で、伊江島に到着する前に日本軍機から撃墜される恐れもある。
極秘のうちに、木更津航空隊で一式陸攻2機を白く塗り、用途も目的地も伏せたまま待機させ、8月19日の午前6時、17名の使節団は羽田から海軍輸送機で木更津に向かい、目的地への航路を記した地図を操縦士に渡して出発した。九州付近には囮の白塗り機を飛ばすなど策を練ったが、襲撃されることもなく出迎えた米軍機と出会い、伊江島で米軍のダグラス機に乗り換えてその夜マニラに到着した。
連合軍の最初の日本進駐は空からは厚木、海からは横須賀を予定しており、先遣隊の到着予定は23日、司令部は25日と告げられた。中2日の余裕では準備できぬ、と延期を要請して3日延ばしてもらって帰ってきた。1、2日のばしたから厚木の状況を改善できるわけではないし、とにかくやっていかなければ仕方ない状況に追いこまれていた。幸いに、徹底抗戦を主張していた厚木の小園大佐はマラリアの発作を起こし、高熱のために倒れて病院に収容され、抗戦を叫んで陸軍の飛行場目がけて離陸した戦闘機群は、陸軍に説得されて厚木にもどってきて武装解除に応じた。さらに天佑というか、台風が発生して連合軍の到着予定が2日順延された。 米軍に占領されるまで、広島、長崎の原爆被害の取材制限はなく、8月19日の朝日新聞には広島の写真が掲載されたが、一本の煙突のみが写る焼け野原であった。
8月30日、総司令官マッカーサーを乗せた飛行機が厚木に着陸、すでに到着していた先遣部隊と合流、車列を連ねて横浜ニューグランドホテルに向かい仮総司令部を開設した。その夜、満州の捕虜収容所にいたウエンライト中将が、飛行機で送られ横浜に到着、3年半前、コレヒドール要塞で見送ったマッカーサーとの再会をはたした。
9月2日、東京湾内の米戦艦ミズリー号上で、日本政府を代表して重光葵外相、大本営を代表して梅津美治郎参謀総長の2人が降伏文書に署名した。毎年、8月15日を終戦記念日としているが、正式に降伏文書に調印したこの日が正式の敗戦の日である。
 重光は、駐華大使だった1932(昭和7)年、上海で開催された天長節(天皇誕生の日)の祝賀会場で朝鮮独立党員の爆弾テロに遭って片脚を失い、義足を引きずりながらミズリー甲板上で署名するニュース映画での重光の姿は痛ましかった。
 冒頭「われわれ戦争に参加した主要国の代表は、平和回復の厳粛な合意を結ぶため、ここに集まった。過去に流された血の中からよりよい世界が新たに生まれる。その世界とは、信頼と理解に基づき、人間の尊厳と自由、寛容、正義への人類の最大の願望の達成にささげられる世界である」とマッカーサーが演説し、日本側の署名を待って、マッカーサーが連合軍総司令官として署名し、連合国の代表が次々に署名した。
 この調印式には、ウエンライト中将と、シンガポールで山下奉文に降伏した英国のパーシバル中将が勝者の一員として出席していた。
 翌9月3日、ルソン島北部山岳地帯で持久戦を戦っていた山下奉文大将は14軍司令官としてバギオで米軍に降伏することになり、調印会場のバギオの高等弁務官別荘に出頭すると、なんとパーシバルがいるではないか。パーシバルはシンガポールで敗北の英軍司令官として山下司令官に降伏した後、捕虜となって日本の捕虜収容所にいたのに、なぜフィリピンにいるのか。ミズリー号での調印式に列席後、マッカーサーがシンガポールでの勝者山下大将を貶めるため、急遽フィリピンに送り込んだ陰湿な復讐劇だった。フィリピンを日本軍に追われたマッカーサーの報復である。
 調印後、山下はマニラ南方30マイルのモンテンルパ町のニュービリビッド刑務所に捕虜として収容された。戦争犯罪者として裁かれることになる。マッカーサーの人生における最大の屈辱は、フィリピンで日本軍に敗北し、部下を置き去りにしてオーストラリアに逃亡したことである。
マッカーサーは、フィリピンを開放し、日本軍を無条件降伏に追いこんだ今、フィリピン人の前で、勝鬨の儀式をあげ、人生最大の屈辱を晴らさなければならなかった。そのために、なにがなんでもフィリピン人面前での生贄がほしかったのだ。
 フィリピンでは日本軍の損害も多く、軍人民間人合わせて49万人の死者をだした。半分以上が戦病や餓死者だった。
 筆者の父親も、中部ルソンで6月半ばに戦病死と知らされた。以後、母の働きで兄と妹3人が育てられた。

 日米開戦時に第14軍司令官としてフィリピンを攻撃した本間雅晴中将も裁きの庭に立たされた。本間中将は50日でマニラを攻略せよと大本営から命じられ、,開戦1か月も経たない1月2日マニラを占領した。

 マッカーサーがマニラを無防備都市と宣言、米比軍主力とともにバターン半島突端のコレヒドール要塞に立てこもったからだ。
 大本営は、補給のない要塞なんか糧道を絶てば即座に落城する、と事前の計画通り、48師団をジャワ(インドネシア)攻略部隊に参加させるために引き抜いた。あとを任されたのは、フィリピン占領地の治安維持部隊として編制されていた老兵部隊であった。
 マニラ湾を扼するバターン半島は長さ30キロ、幅20キロのジャングル地帯で、標高1千メートルを越える山並がそびえ、先端のコレヒドール要塞を護る天然の要害になった。シンガポール、ジャワ、セレベス、ボルネオと攻略した大本営としてはコレヒドールのマッカーサーだけが目障りだったが、そのマッカーサーも「アイ・シャルリターン」の名言を残して、コレヒドールを脱出してオーストラリアに逃げた。
 マッカーサーがいなくなったが米比軍の抵抗はつづき、4月9日になって、バターン半島守備軍の司令官キング少将が降伏してバターン半島の戦闘は終った。
日本軍には、投降してきたのは米比軍7万5千名と予想より多くて捕虜の統制ができず、7万人の輸送手段もなく、歩かせることにした。50キロも歩けばサンフェルナンドから鉄道で運べる。捕虜50名ほどに1名の武装日本兵が付き添い、隊列を組んで歩きだすと、灼熱の太陽の下、マラリアや赤痢の罹病者が次々に倒れて大混乱を招いた。
 米比軍の兵士たちは、これを「死の行進」と呼んだ。
 コレヒドール要塞には、なおも2万名がいて抵抗をつづけていたが、マッカーサーがオーストラリアに逃げたあと全米比軍司令官に任命されたウエンライト中将は、コレヒドール要塞の2万の将兵とともに降伏、本間中将は、米比軍をコレヒドールに逃がした責任を問われて予備役に編入された。マッカーサーは、現役を引退していた本間元司令官と当時の野戦輸送指揮官河根良賢少将を戦犯法廷でバターン死の行進を捕虜虐待の戦争犯罪として極刑を宣告させた。

 

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 (29)饒舌だった皇族内閣
 
 首相東久邇宮は、今次の敗戦の責任をとって軍官民すべてが等しく反省しなければならない、即ち一億総懺悔の要ありと内閣記者会で述べた。
 つい先日まで、一億総特攻と叫ばれていたのに、今度は総懺悔といわれて、我々はなにを懺悔すべきなのか。中学生でなくても、いきなり船に乗せられて、銃を渡され、食料も与えられず戦えと命じられた下級兵士は、なにを懺悔すればいいのか。夫や子供を失った女たちは……、思えば思うほど腹立たしい談話だったが、反発する論調もなく時間が過ぎていった。筆者たちが暗誦させられた「軍人勅諭」では、「朕は汝らの大元帥なるぞ」と宣言し、「上官の命を承ること実は朕が命を承る義なりと心得よ」と明記されている。一生懸命それに従ってきたのに、いまさら懺悔だの反省だといわれても困る。
 マッカーサーについてきた大勢の新聞記者のひとり、イギリス紙の記者バーチエットは広島に赴き、原爆の災禍を「ノーモアヒロシマ」のことばとともに、全世界に発信した。
 さらに東久邇宮首相は、
 「私たちは原子爆弾を忘れるから、あなたたちも真珠湾攻撃を忘れてくださらんか」
 と、外国人記者団に申しいれ、捕虜虐待の戦争犯罪人は自分たちで裁くと主張、挙句のはてに天皇陛下には開戦の責任はないと大日本帝国憲法の仕組みを説明した。日本の憲法では、天皇に属する国政、統師の大権は、内閣と統師部の輔弼(天皇の行為について進言し、その全責任を負うこと)によるもので、内閣も統師部も内部で討議合意を得たものを上奏して裁可を仰ぐのが通例で、天皇が否決することは絶対にない。内閣と統師部は、それぞれが討議して意見の一致をみた案件しか上奏しない。上奏されれば、すべてを裁可するのが決まりで天皇には拒否権はない。裁可は、全員が同意した案件のみ天皇も同意する形式で、天皇の責任で判断されることはないと天皇無罪論を展開した。
 素直に「軍人勅諭」を暗記した中学生としては、総理大臣の説明は理解できなかった。
 
 外地からの復員兵はまだいなかったが、内地で敗戦を迎えた兵隊たちが帰ってきた。身のまわりの小物をつめた雑のうを肩にかけ、いかにも敗残の兵といったみすぼらしい復員兵が多い中で、大量の毛布や食料をトラックに積みこんで復員してくる兵もいた。後から聞くと、玉音放送の前日に終戦情報を入手して、仲間数人と共謀してトラックを民家に隠し、各自帰郷の命令で大半の兵隊が姿を消した後、トラックに荷物を積んで持ち出したという。米軍上陸に備えて貯蔵されていた大量の物資が、運搬手段がなく兵隊たちの多くは担いで帰るしかなかったが、自分たちは輸送手段を確保できたから成功したのだ、とドロボー復員兵は自慢した。
 そのころ、近所の人の紹介で、陸軍の物資を預かってもらえないかという話が持ちこまれた。陸軍の倉庫に保管されていた物資だが、占領軍に没収されると敵を喜ばせるだけだから、暫らくの間、預かってもらいたい、と1メートル四方の梱包5個が大八車に積まれていた。この荷物は、莚で包み荒縄で縛られており、中味は地下足袋と教えられた。極度の物資不足で靴などは入手困難で、土木作業用の地下足袋は貴重品だった。預かれば何足かお裾分けがあるかも知れない。母も同じ思いらしく、積極的に協力する姿勢だった。屋内に隠すには少し量が多すぎた。天井裏、仏壇の裏、戸棚の後ろ、押入れの布団の間、思いつくすべての場所に地下足袋をかくし、いい気分で夜を迎えた。
 ところがその夜、地下足袋の話を持ちこんできた知人が、警察官四、五人を案内してきた。軍の倉庫から盗みだした犯人は、盗品は民家に預け、再度盗もうと倉庫にもどってきたところを捕まり、あっさり自供したから、返してもらいにきたという。もともと預かったものだから返すのは当然のことだが、家族みんなで必死の想いで隠したのに、無念窮まりなかった。
 
 ミズリー号での降伏文書の調印式には、連合軍の従軍記者200人以上が押しかけて取材したが、彼らの次の目標は、東京ローズと東條英機を探しだすことだった。誰もが特ダネにしようと焼け跡の東京を駈けまわっていた。
 NHK(日本放送協会)では、交戦中の米軍兵士への宣伝放送で、英語をしゃべる複数の女性が交代でマイクに向かっていた。戦意を喪失するように全員が甘い口調で語りかけていたが、この複数の語り手が米軍兵士たちの人気を呼び、『東京ローズ』と名付けて憧れの的とされていた。人気の『東京ローズ』を探してインタビューをすれば、特ダネまちがいなしだ。INSのクラーク・リー記者は、戦争前にAP通信の日本駐在をしていたことがあり、まんざら土地カンがないわけではなかった。
 リー記者は、日本駐在のときの旧知を思い出し同盟通信社のハワイ出身二世記者に、協力を要請した。その結果、米軍兵士たちに人気のあった『ゼロアワー』に出演していた数人の中のひとりアイバ戸栗を突き止めた。アイバは『東京ローズ』とは名乗らず、リー記者も『東京ローズ』と呼ばれているのは、『ゼロアワー』のアナウンサーたちで、アイバもそのひとりであると送稿した。
 横浜のGHQでは、リー記者の「東京ローズ」報道を知り、記者たちの野放図な取材に制限をくわえたが、リー記者は国電(JR)を使ってMPの監視の目をくぐりぬけ東京にはいり、コネを使って世田谷用賀の東條宅を聞き出し、東條英機のインタビューにも成功した。これまた大特ダネである。だがその原稿を送るには軍の手をわずらわせなければならない。送稿の通信手段を軍に頼るからだ。検閲の意味もあった。
 東條へのインタビューを知ったGHQは烈火のごとく怒った。監視をくぐり抜けて取材したリー記者に対してではない。戦争犯罪人への対応をまかせてくれと言明した東久邇内閣が、何もせずに従軍記者の単独インタビューを許すのが怪しからんというのだ。
 翌9月11日、GHQは、東條英機以下39人の逮捕を命じた。
 MPが逮捕に表われたとき、東條は窓を開けて対応し一旦窓を閉め、奥に姿を消してピストル自殺を図った。銃声でMPが飛びこみ、手当てをして野戦病院に搬送して東條は一命をとりとめた。あらかじめ医者に聞いて心臓の位置に○印をつけていたが、東條が左利きだったため失敗した、始めから自殺する意思がなく、婦人用の小型拳銃を使ったなどと噂された。この日、逮捕令が下された39人は、日米開戦時の閣僚が主だったが、小泉親彦(厚生大臣)、橋田邦彦(文部大臣)などが自殺した。参謀総長だった杉山元元帥の自殺も報じられる中、東條の自殺失敗は嘲笑の的にされた。
 
 9月17日、マッカーサーは、宿舎をアメリカ大使館に移し、司令部を日比谷お堀端の第一生命ビルに移した。
 9月29日、新聞を見た国民は全員が目を剥いた。すべての新聞に、天皇とマッカーサーが並んだ写真が掲載されたのだ。モーニングに威儀を正して気をつけの姿勢の天皇と、略装で両手を腰にあてリラックスした大柄なマッカーサーは、まさに敗者との記念撮影を楽しむ勝者の思いあがりが覗える。日本敗戦の事実が否応なく眼前に突きつけられた。後年、東京大空襲の焼け跡を視察中の天皇の写真を見たときの衝撃もひどかったが、マッカーサーと並ぶ写真を見たときの憤怒には及ばなかった。
 天皇がアメリカ大使館にマッカーサーを訪問したのは27日のことで、翌28日の新聞には訪問の記事だけが掲載された。各社の自己規制か、内閣情報局の容喙か、記事だけで写真は掲載されなかった。掲載されなかったのを知ったGHQが命令をだして、29日に天皇とマッカーサーのツーショットを掲載させた。
 今度は内閣情報局が驚いた。天皇、皇族の写真掲載には許可を必要とする。無許可掲載を理由に、写真掲載紙を発売禁止処分にした。そのころの新聞はほとんどが宅配で、販売禁止処分の効果はなかった。しかしGHQでは、天皇の写真掲載を禁止する権利は内閣にはない、と情報局の不許可を取り消し、ポッダム宣言の受諾にあたって約束した民主主義の確立と言論、宗教、思想の自由および基本的人権の尊重を実現するために、天皇や政府に関して自由な討議を尊重し、政治犯の釈放、特高警察の廃止、治安維持法の廃止、内務大臣の罷免等を東久邇宮内閣に要求した。治安維持法がなくなれば、治安維持が不可能になる、とこれらの要求の受け入れは不可能として東久邇宮内閣は総辞職をしてしまった。
 ちょうどその日の10月4日、国務大臣だった近衛文麿がGHQにマッカーサーを訪ねると、マッカーサーが近衛にいった。
 「憲法改正が必要である。改正して自由主義的要素を加味しなければならぬ。議会も反動的だから、早急に解散しなければならぬ。婦人参政権と労働者の権利を認めるべきだ。日本が早くしなければ、摩擦を覚悟して我々がやらなければならない」
 一説によれば、「政府の構成(construction)について問うた近衛に、マッカーサーが憲法(constitution)と誤解したらしい。通訳の誤訳も考えられる。近衛は、自分に憲法改正の研究をせよと依頼されたと思いこんだ。

 

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 (30)幣原喜重郎内閣の発足
 
 10月6日、73歳の幣原喜重郎に組閣の大命が下った。
 幣原喜重郎は、外務官僚から政界に転じ、1924(大正13)年、加籐高明内閣で外務大臣となり、以後若槻礼次郎内閣、濱口雄幸内閣で外務大臣を勤め、国際協調路線を堅持したため軍部から軟弱外交と非難された。ロンドン軍縮条約の締結で統師権干犯とテロに遭った濱口総理に代わって総理代理を勤めたが、第二次若槻内閣のとき満州事変の勃発で内閣総辞職となり、政界を引退し、軍部が独走する時代を終戦まで生きてきた。国家運営は、国際紛争の解決は軍事対決ではなく外交交渉で解決すべきあるとの理念を幣原は持っており、富国強兵政策のもとに軍拡競争を企図する陸海軍に容認されることなく、10年以上の隠棲の生活を送っていたが、華族の一員で男爵の称号を持つ貴族院議員で、皇室崇敬の念が強かった。
 ミズリー号上の降伏文書の調印式で署名した東久邇内閣の外相重光葵が辞表を提出し、急遽要請された吉田茂が後任に就任していた。総辞職した内閣の後継者として幣原の名があがると、吉田がGHQに乗りこみ、マッカーサーと参謀長サザーランド少将の了解をとってきた。
 幣原内閣は、外相吉田茂、海相米内光政、陸相下村定を留任、厚相芦田均などでスタートしたが、海外将兵の復員業務と国民の食料確保が急務だった。陸軍省と海軍省は間もなく復員省と改名するが、海外に取り残された将兵の引揚げに専念していた。
 
 10月2日の朝日新聞には、外地から初めての復員船高砂丸が南海の孤島メレヨン島から2千名ほどの陸海軍の将兵を乗せて、大分別府港に入港した、と報道された。
 初の外地からの復員で、「メレヨン島の皇軍還る 誠意ある米軍の態度 メレヨン島の皇軍帰還」の見出しで報じられた記事には、
 「メレヨン島から帰還した北島義人大尉は語る。米国側からは海兵師団のコールマン中佐が駆逐艦で来島、降伏文書に同意するかと訊いた。引きつづき武器や兵隊の所持品検査がおこない、同中佐の態度は終始誠意にみちたものであった。飢餓のため相当の死亡者がでたことを告げるとびっくりして、日本軍なればこそ今日までこんな島でがんばったのだと語っていた」と報じ、満面笑みに溢れた高砂丸から下船する将兵の写真も掲載された。
 コールマン中佐のことばを日本軍への賞賛と解釈した下村定陸相は、皇軍の軍紀の厳格さを天皇に上奏した。天皇は「よくやってくれた。私が喜んでいると旅団長に伝えよ」と応じたという。
 ところが10月25日、「〝メレヨン島の生地獄〟草食う兵を〝蚕〟と嘲笑 一部将校の暴虐に憤激」の記事が中国新聞に掲載された。
 メレヨン島は、トラック島の西、グアム島の南、パラオ諸島の東の太平洋上の島……というよりサンゴ礁群で、メレヨン島と日本軍は呼んでいたが、1979年に独立してミクロネシア連邦の島嶼として、ヤップ州のウオレアイ環礁となった。
 
 昭和19年4月、大本営は南洋の島々から兵をかき集め、福山41連隊を主力に独立混成50旅団3400名を編制、北村勝三少将を旅団長にしてメレヨン島に派遣した。米軍の次の目標はサイパンと想定、サイパンに来攻する米軍をメレヨン島に陽動できると考えたらしい。メレヨン島には、海軍が建設した滑走路が一本あり、警備隊や設営隊など3千2百名がおり、陸海合わせて6千数百人の兵力となった。糧秣、弾薬も相当量持ちこんだが、揚陸して野積みしたまま空爆され灰燼にきしてしまった。しかもサイパンが攻略されると補給も断たれた。こんな状態で放置されるのはたまらない。いっそのことパラオの友軍に合流してフィリッピン戦闘に参加したいと具申したが、現地で持久戦をつづけよ、と拒絶された。米軍もレイテ作戦に忙しく、ちっぽけな岩礁の寡兵は放置し、時々通りがかりの米軍機が銃撃していくくらいだ。
 食糧の補給がなく自給自足を試みたが、全島サンゴ礁で、イモやカボチャなどの耕作には適していない。各分隊で痩せ地に種をまいてみたが、悲しくなるような小さな実が実るだけだ。そんな小さな実でも盗まれるので、見張りを置き、盗みの現行犯は射殺された。兵隊は1日30〜50グラムの米を食べられそうな野草と一緒に炊いて食ったが、3口で飲んでしまう。当初はオオトカゲやヤシガニがいたが、すぐに食べ尽くしてしまった。日本軍は潜水艦で補給を試みたが、積載量は限られており、しかも制空、制海権は米軍に握られていて、補給は思うに任せなかった。米軍はメレヨン島の日本軍の戦力は消滅したと判断、次の攻撃目標フィリピンを攻撃した。メレヨン島の日本軍は。日米両軍から放置された。全員が栄養失調で、死亡者が1日に20名もでていた。
 この状態は終戦後もつづき、降伏交渉に島を訪れた米軍将校も悲惨な状況に絶句した。
 外地からの最初の復員船がメレヨン島に配船され、生存者1600名が別府港に上陸したが、500名以上が病院に入院した。中国新聞の記事は、入院患者から取材したらしいが、将校の67パーセントが生還しているのに、兵士の7割が死亡したのは将校と兵隊の待遇に差別があったからだと兵隊たちは訴えた。
 昭和21年雑誌『世界』の2月号で、文部大臣安倍能成がメレヨン島の死亡兵遺族の訴えをテーマに軍隊内の階級差別を取り上げた。将校たちも反論して、問題が広がった。
 独立混成50旅団長北村勝三少将は、死んだ兵隊の家族をまわって謝罪したあと、8月15日に割腹自殺を遂げた。海軍部隊の司令官宮田嘉信大佐も、さらに1年後に自決した。私的制裁だけでなく、人肉事件もからんでいたともいわれた。
 50旅団の南洋第五支隊には、ポートモレスビー攻略を企図してニューギニアで全滅した南海支隊が再建され、参加した福山41連隊の兵士もおり、福山護国神社に全国メレヨン会が建立した慰霊碑がある。

 

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 (31)君臨するマッカーサー
 
 マッカーサーと天皇のツーショット写真を掲載した新聞を販買禁止にした東久邇宮内閣に、販売禁止命令の撤回を命じたGHQが、今度は各新聞の検閲を開始し、さらに日本人同士のプライベートの手紙の検閲も開始した。国民全員が受け取る郵便封書が、配達される前にGHQに開封され、手紙の内容が検閲されるのだ。実際には、英語を少し理解できる日本人が雇われて、占領行政を阻害するような非難、中傷の文言を発見すると、上部に上げる作業をすると聞かされた。実際に届けられた封書は既に開封されており、GHQ開封のシールが貼られていた。封書郵便の検閲は昭和27年に廃止されたというから6年ほどつづいたらしい。悪名高い特高警察でも、受信者にはわからぬようにこっそりしていた信書の開封を、GHQが公然と実行した。その他、幣原内閣には、憲法改正、婦人参政権、労働者の団結権(労働組合結成の奨励)、学校教育の民主化、秘密審問司法制度撤廃などを要求し、経済機構の民主化を命じた。財閥解体についてもGHQと日本政府との間で検討され、三井、三菱、住友、安田の4大財閥の自主的解散の大蔵原案がまとめられた。
 10月10日、政治犯約3千人が釈放された。共産党の徳田球一、志賀義雄も解放され、日本共産党も合法政党になった。
 全国の主要都市は一面の焼け野原で復興の兆しはまだ見えなかったが、米軍兵士にまとわりつく若い女性たち、もの欲しげに闇市をうろつく軍服姿の復員兵、ハローと声をかけてはガムやチョコレートを米軍兵士にたかる子どもたちの姿が随所に見られた。
 この年(昭和20年)は、農家の人手不足で米が不作であった。空襲を受けた中小都市でも、家を焼かれて浮浪者となった罹災者や両親を失った孤児たちが発生し、行き倒れの死者がでていた。東京も、上野駅や東京駅などに浮浪者が住みついた。住む家があっても、食糧の配給が順調にいかず、電気、ガスの復旧もままならぬ状態で、国民のほとんどが飢えていた。迫りくる年の瀬を不安な思いで迎えようとしていた。
 
 11月12日、天皇はGHQの許可を得て、伊勢神宮の私的参拝に出発した。開闢(天地の始まり)以来の敗戦を報告するための参拝である。伊勢神宮は三重県伊勢市にあり、天皇家の祖神である天照大御神と三種の神器のひとつ八咫鏡(ヤタノカガミ)が祭ってある。巡幸の警戒は厳重にしているものの、身内を戦争で失い、住まいを空爆で焼失した罹災者や多くの戦友を失った復員兵など、天皇を恨む民衆の行動が懸念された。参拝を主目的としているが、天皇制に対する庶民の反応を窺う試金石でもあった。
 お召し列車は、沼津駅に6分間停車したが、駅周辺は焼け野原である。焦土の中から暴民がでてきて石を投げたりする輩が現れるかもしれない。列車が止まると警備陣も側近の侍従たちも身を堅くして緊張した。しかし、心配は杞憂に終った。沼津駅でも、伊勢でも、天皇は民衆に歓迎された。このあと神話の中の初代神武天皇陵や祖父の明治天皇陵参拝のため京都に向かったが、民衆は昔通り「神聖不可侵」の存在として天皇を寓した。つい最近まで、天皇の命令と信じて戦った民衆は、戦災の苦労を恨むことなく、同情と畏敬の念で天皇に接した。
 敗戦後、初めて天皇に接する民衆の態度に興味を持ち、天皇に同行していた内外の記者たちも、天皇の神秘な魅力が民衆をひきつけるのか、長年の間に植えつけられた崇敬の呪縛から国民が解放されないのか判然としなかったが、天皇と国民との結びつきが強固だったことにおどろいた。(三種の神器は八咫鏡、草薙の剣、勾玉(まがたま)で、天皇家に伝わる)
 
 11月20日、一年前の首相小磯国昭をはじめ、松岡洋右、南次郎など11名に戦争犯罪人としての逮捕命令がでた。かつての関東軍司令官だった本庄繁は自決した。追い討ちをかけるように梨本宮、平沼騏一郎、広田弘毅、正力松太郎ら59名に、さらに近衛文麿、木戸幸一、緒方竹虎ら9名にも逮捕命令がでた。梨本宮への逮捕令は、戦犯容疑が皇室に累を及ぼし、天皇にも波及するのが懸念された。近衛は自殺を選んだ。
 ワシントンでは、マッカーサーが発した59名の戦争犯罪人逮捕令をめぐって天皇の戦争責任が論じられ、東京では外国人記者の質問に対して幣原首相が天皇退位は考えられないと答えた。11月28日、天皇は第89臨時議会の開院式に行幸、開院の勅語を発したばかりだった。議会は、大政翼賛会の推薦議員がほとんどだった。
 
 日米開戦以来4年の12月8日、朝日新聞は1ページ全部をつぶして「太平洋戦史 真実なき軍国日本の崩壊 連合軍司令部提供」のクレジット付の記事を掲載した。
 「日本国民に塗炭の苦しみをあたえた今次敗戦を惹き起こしたのは、軍国主義者の権力乱用、国民の自由剥奪、捕虜及び非戦闘員に対する国際慣習を無視した政府並びに軍部の非道な行為は、1925(大正14)年の治安維持法の成立に始まったものである。この法律が国民の言論圧迫を目的として約20年間にわたり益々その過酷の度を増し政治犯人がいかに非道なる取り扱いを受け人権を蹂躙されたかは既によく知られるところで1933(昭和8)年から1936(昭和11)年の間に、所謂「危険思想」の拘留者、主張者、実行者という「嫌疑」で検挙されたものは5万9千名を超え、その指導者に盲従し一切の批判を許さぬことを教えることになった。1936年2月には、2400名以上の陸軍々人が反乱を起こし(二・二六事件)、高橋蔵相、渡辺教育総監を暗殺し、時の侍従長鈴木貫太郎海軍大将に重傷を負わせた。軍国主義者の支配力が増大するに伴い検閲の法規を強化し、言論の自由を剥奪する新しい法律が制定された。そしてその制度こそは、支那事変より連合国との戦争遂行中も継続された。さらに陸海軍大臣は現役でなければ就任できない大臣現役制を採用して内閣への支配力を強化した。
 連合国最高司令官は治安維持法の撤廃を命令し、戦争に関する完全なる情報を日本国民に与えるよう布告した。今や日本国民は、日本は如何にして敗れたか、何故かかる悲惨な目に遭わねばならぬかを理解し、軍国主義的行為に反抗し国際平和社会の一員としての国家を再建するための知識と気力を持ち得るのである。かかる観点から米軍司令部当局は日本及び日本国民を今日の運命に導いた特別記事を提供するものである」(大意)
 このような前文に、「中国軍の攻撃によって始まったと日本が主張した満洲事変は、国際連盟のリットン調査団の、日本の自衛戦とは認められないとの報告が採択されると、それを不満として日本は連盟を脱退し、中国との対立を激化し盧溝橋での武力衝突を呼び支那事変に発展、真珠湾攻撃にはじまる太平洋戦争へと繋がった」と決めつけた。この「太平洋戦争史」は、翌日からの紙面にも連載として引き継がれ、日本側発表の欺瞞性、マリアナ、レイテの決戦など連合軍の勝利と日本軍敗北の歴史を公開した。さらにラジオでも「天皇制をどう思うか」の討論番組や、聴取者の疑問に応える形式の「真相はこうだ」と名付けたラジオ番組が放送された。苦戦の末に上海戦に勝利した日本軍が南京を攻略したとき、市民にまぎれて逃げようとした中国兵や逃げ惑う婦女子を射殺したり強姦したり、悪行の限りをつくした日本兵の蛮行、泣き叫び逃げ惑う女性の悲鳴や嬌声、嫌がる女性に迫る怒声、聞いていてバカバカしかった南京の蛮行。後年、被害者は50万(中国側の主張)ともいわれたが、ラジオで熱演した声優たちの演技で国民は南京事件をはじめて知った。隠されていたミッドウエイ戦の敗北など戦争の歴史を、GHQに知らされた国民は多かった。
 連合艦隊の参謀長が捕虜になっていたとわかったのは、もうちょっと後のことだった。
 1944(昭和19)年、山本五十六長官戦死後の連合艦隊司令長官古賀峰一大将が台風にまきこまれセブ島沖で乗機もろとも行方不明となり殉職したが、列機の参謀長福留繁中将の乗機は不時着、福留中将はゲリラに捕まり捕虜となった。福留中将は、セブ島守備の陸軍部隊とゲリラ隊との取引で救出されたが、海軍の機密書類がゲリラの手から米軍に渡っていた。海軍乙事件として秘匿されていた不祥事も戦後になって明るみにでた。下級兵士が捕虜になれば、軍法会議で処刑されてしまうのに、将官ともなると軍の作戦機密を米軍に知られる過失も見過ごされる官僚の隠蔽体質を暴露した。
 
 戦犯容疑者が次々に逮捕される一方、横浜で最初の軍法会議が米兵俘虜虐待容疑で俘虜収容所所長の若い将校や警備員の裁判が開かれた。これらの容疑者は直接戦争をはじめた責任者と異なり、下級将校や警備兵が多く、全国に300人ほどいた。東條などはA級とされたが、俘虜虐待で裁かれるBC級戦犯のための軍事法廷は、中国、フィリピン、インドネシア(オランダ)、インドシナ(フランス)、ニューギニアやソロモン諸島(オーストラリア)、サイパンやグアム(アメリカ)など49か所に設置されたが、いい加減な伝聞、虚偽の証言、通訳の誤訳、裁判執行者の報復感情などから不当な扱いを受け、無実の罪を背負わされる事例も少なくなかった。
 フィリピンの14方面軍司令官山下奉文大将は降伏調印後、そのままマニラ南方モンテンルパ町の刑務所に収容され、9月25日、米国民およびフィリピン市民に対する部下の野蛮な残虐行為とその他の重大犯罪を許し、指揮官として部下の行動を統制する義務を怠ったとして起訴され、10月8日に第1回の公判が開かれた。訴因は123項目に及び、米軍は6人の将校を弁護人に任命していた。当初、反感を抱いていた弁護人も、大将が部下を統率できなかったことを起訴理由にされていることに疑問を持ち、大将に復讐するための裁判ではないかと思うようになった。123項目の訴因で裁かれた裁判が、僅か2か月で結審し、46時間後の12月7日に判決が言い渡された。わずか15分の判決言い渡しで絞首刑と判決された。弁護人たちがワシントンへ飛んだ。弁護団は、裁判中止令状と人身保護令状請願の訴えをフィリピン最高裁判所と米国最高裁判所に起こしていたのだ。
 
 東京のA級裁判のためキーナン検事はすでに赴任して、マッカーサーとの打ち合わせをはじめており、日本国内ではA級戦争犯罪人に天皇が召還されるのか、戦々恐々としていた。アメリカの世論も、天皇の戦争責任を追及せよとの声が強かった。
 マッカーサーは、一発の銃声もなく、数百万の日本軍の武装解除ができたのは、天皇の命令によるものだと天皇の威令を絶賛した。アメリカでも、グルー元駐日大使らを中心とする親日グループが、天皇を戦犯として処罰すれば、アメリカはポッダム宣言の約束(最終的に日本政府の形態は、日本国民の意思により決定せらるべきものとす)を破るだけでなく、天皇の命令で動く日本の行政システムを破壊する。占領軍の直接統治となれば、地方行政の末端まで日本語を理解する行政用の兵士数万人が必要となるが、現状では不可能である。天皇を通して日本の行政組織を動かすのが妥当であると主張した。
 しかし連合国の世論は天皇の戦争責任を追及する声が強く、予断をゆるさなかった。
 南方から復員兵や民間人が次々に引揚げてきた。夏服姿の軍人には冬の軍服が支給されたが、女性には支給する冬服がなく、軍服や毛布を支給した。空爆に破壊された輸送機関もまだ復旧されず、米や燃料も足りず、飢えと寒さの混沌とした歳末を迎えていた。

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 (32)焼け跡の初春
 
 1946年の元旦、この年がどんな年になるのか、誰にもわからなかった。大都市はもちろん、地方の小都市までも空爆に曝され、日本中が焼け跡だった。さらに配給される食糧はなく、暖房は欠乏し、はたして冬を越せるか、不安な開幕だった。
 しかも日本中の新聞には天皇の勅語が掲載されていた。
 「茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初国是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。曰ク  
 一、 広ク会議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ
 一、 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
 一、 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス
 一、 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
 一、 知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
 叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。須ラクコノ御趣旨ニ則リ、旧来ノ陋習(ろうしゅう)ヲ去リ、民意ヲ暢達(ちょうたつ)シ、官民挙ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豊カニ文化ニ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スヘシ。〜中略〜然レド朕ハ爾等国民ト共に在リ、常ニ利害ヲ同ジュウシ休威ヲ分タント欲ス。朕と爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇を現御神(あらひとがみ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。
 朕ノ政府ハ国民ノ試練ト苦難トヲ緩和センガ為、アラユル施策ト経営トニ万全ノ方途ヲ講ズベシ」後略〜
 後から、この勅語が天皇の「人間宣言」として、天皇の意思が表明されたものと知らされたが、天皇の存在は従来通りで変化はなく、新年の勅語は国民を激励する年賀状のようなものだと理解していた。第一、冒頭の明治天皇の「五か条の御誓文」は、これを護って今年も頑張れという天皇の励ましの言葉だと思っていた。勅語の真ん中あたりに「然レド朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、朕と爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇を現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」のくだりが人間宣言ともいえるが、実態はGHQの命令で、幣原首相が前田多門文部大臣に素案を作らせ、天皇の希望で「五箇条の御誓文」の部分を挿入、それを英訳してGHQの点検加筆を受け、それを日本語の勅語に再翻訳したもので、なんとも形容できない勅語となったらしい。GHQの初代民間情報教育局(CIE)局長ダイク代将は広告会社の仕事をしており、口出しも多く、「天皇の人間宣言」もダイク代将の作ともいわれたが、「天皇の人間宣言」として、日本の戦後史の一大エポックとなった。
 いきなり明治天皇の五個条の御誓文から始まったのは、天皇の意思によるもので、民主主義は明治天皇によって既に実施されていたと主張したかったらしい。
 元旦早々に読んだ勅語は納得できなかったが、「爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ」の部分には共感を抱いた。
 〝人間天皇〟に追い討ちをかけるように、日本を戦争に駆り立てた国家主義的人物をGHQは公職から追放し、政界を粛正せよとの指令を発した。具体的には、陸海軍の幹部、特高警察関係者、憲兵隊員、満鉄など占領地の国策会社の幹部に、軍国主義的な27団体に解散を命令した。この命令を実行すれば、閣僚五人が該当して幣原内閣は瓦解する。衆議院は、女性の国政参加を認める改正衆議院議員選挙法を公布して年末12月18日に解散していたが、GHQの指示で選挙日は延期されていた。多分、公職追放を実施してからの選挙を考えていたのだろう。
 1月22日、マッカーサーは、「極東国際軍事裁判所」条令を布告した。
 連合国は、ドイツの戦争犯罪を裁いた「ニュールンベルグ裁判」では、「平和に対する罪」「通例の戦争犯罪」「人道に対する罪」という3つの罪で起訴している。「極東国際軍事裁判」でも、「平和に対する罪 即ち侵略戦争の計画、準備、開始、又は遂行、もしくは諸行為の何れかを達成する為の共通の計画又は共同謀議への参加」を(A級)、「俘虜や住民の虐待」「大量虐殺兵器の使用」等が(B・C級)の犯罪とした。しかしニュールンベルグ法廷の場合、米英ソ仏各国の裁判官の互選で裁判長が選ばれ、被告も各国別々に訴追したが、極東国際軍事裁判はマッカーサーの方針で運営するため、裁判長、主席検察官の任命権をマッカーサーが掌中にし、各国を統括する〝統一裁判方式〟として、米、英、ソ、中国、オランダ、ニュージーランド、カナダ、オーストラリア、インド、フィリピンの各国に参加要請がなされ、判事、検事の派遣が求められた。基本的には、各国とも日本の戦争犯罪を裁くことには賛成で、それぞれに判事、検事を派遣した。しかし、戦犯に対する思想は異なり、それぞれの思いを抱えた同床異夢の集団となった。例えば天皇の戦争責任である。少なくとも、ソ連、中国、オーストラリアの三か国は、天皇訴追を強硬に主張していた。
 
 1月24日、マッカーサーを訪れた幣原首相は、その席上、
 「自分は天皇制を維持させたいと思うが、協力していただけないか」と要請した。
 「本国では、天皇制は廃止すべきだとの強力な意見もでているが、日本占領にあたり、一発の銃声もなく、一滴の血も流さず進駐できたのは、日本の天皇の力によることが大きいと深く感じて天皇を尊敬し、日本にとっても天皇は必要な方だと思う。天皇制を維持させることに協力する」
 とマッカーサーは、約束した。その翌日、
 「過去10年間に、天皇が日本帝国の政治上の諸決定に関与したことを示す正確な行動について明白確実な証拠は何も発見されていない。天皇を告発するならば、日本国民の間に必ずや大騒乱を惹き起こし、その影響はどれほど過大視してもしすぎることはないだろう。天皇は、日本国民統合の象徴であり、天皇を排除するならば、日本は瓦解するだろう。そうなれば、占領軍の大幅増強は不可欠となり、おそらく100万の軍隊が必要となり、無期限にこれを維持しなければならないだろう」
 とマッカーサーは、アメリカ陸軍参謀総長アイゼンハワーあてに極秘電報を打った。
 
 マッカーサーは、昨年9月、天皇と初めて会ったときの模様を、「天皇は、『私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面でおこなったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした』と述べたが、死をともなうほどの責任、それも私の知り尽くしている事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした。私はその瞬間、私の目の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じ取った」と語っている。
 マッカーサーは、天皇との最初の会談で天皇の態度に感銘を受けたという。その感銘が首相幣原の天皇制維持の思いに協力を約束したらしい。もっとも、1977(昭和52)年、宮内庁記者団との会見で、この会談内容を聞かれた昭和天皇は「マッカーサー司令官と当時、内容は外にもらさないと約束しました。男子の一言でもあり、世界に信頼を失うことにもなるので話せません」と断っている。もうひとつ付けくわえれば、その2年前の1975(昭和50)年、同じく記者団の「陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか」という質問に「そういう言葉のアヤついては、私は文学方面はあまり研究もしていないので、よくわかりませんから……お答えはできかねます」と答えている。
 
 1946(昭和21)年2月、天皇は再度民衆に接する旅にでた。伊勢、京都の巡幸で民衆に受けいれられた天皇は、さらに新しい都市を訪問して国民との紐帯を強めようと考えたのだ。最初に選ばれたのは、神奈川県の川崎、横浜であった。川崎は幾つもの軍需工場があり、激しい空爆にあって大勢の被災者がいた。職を求める多くの復員兵がいた。
 天皇は、日常会話をした経験がほとんどない。臣下が意味なくことばをかけることもない。臣下が声をかけるときは上奏、天皇が声をかけるのは下問のときだ。そんな天皇が、被災者や引揚者、復員兵士にどんな声をかければいいのか。天皇自身もよくわからなかったにちがいない。引揚者には「どこから」と訊ね、罹災者に「けがはなかったか」と問いかけ、返事を聞いて「あ、そう」と甲高い声で応じた。不器用な……応対が聞く人に笑みをもたらした。笑みではなく涙を浮かべる人もいた。
 川崎から横浜に向かった天皇は、ヤミ市も見学した。ヤミ市とは、日本各地の焼け跡に出現した戦後独特のフリーマーケットである。横浜市長の強い勧めで行幸先に加えられたが、警備陣の対応も大変であった。
 3月には群馬、埼玉、6月には千葉、静岡とつづき、天皇を迎えた各地の国民は熱烈に歓迎し、以後天皇の巡幸は定着した。翌1947(昭和22)年、原爆投下の広島に行幸し、「家が建ったね」と喜びの声を挙げた。

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 (33)GHQの新憲法改正案
 
 2月1日の毎日新聞に、政府の憲法問題調査委員会が作成した7章76条、天皇の統治権も認めた憲法試案が掲載された。毎日新聞のスクープ記事である。
 第一章 天皇
 第一条  日本国は君主国とす
 第二条  天皇は君主にしてこの憲法の条規により統治権を行う  
 第三条  皇位は皇室典範の定むる所に依り万世一系の皇男子孫之を継承す
 政府の憲法問題調査会は、GHQの憲法改正の提案を受けて、幣原総理が国務大臣松本蒸治に組織させ、憲法改正案を検討していた。
 しかも昨年12月、松本は衆議院予算委員会で憲法改正についての4原則として、第1に天皇が統治権を総攬する大原則に変更はない。第2に議会の議決を要する事項を拡充して大権事項を制限する。第3に国務大臣の責任を国務の全面にわたらしめ、国務大臣以外の者が国務に介入できないようにする。第4に人民の自由、権利の保護を強化すると言明していた。幣原も松本も貴族院議員で、大日本帝国のエリートだったため、天皇制を変更する気持はまったくなかった。
 帝国憲法では、
  第一条  大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す
  第二条  皇位は皇室典範の定むる所に依り皇男子孫之を継承す
  第三条  天皇は神聖にして侵すべからず
 第四条  天皇は国の元首にして統治権を総攬し此の憲法の条規に依り之を行う
 と天皇を規定しており、改正試案は帝国憲法の字句を変更するなど若干の訂正でお茶を濁そうとした改正案であった。
 社会党の水谷長三郎は、予算委員会で松本の4原則を聞いて「憲法の民主主義化を考えるならば、第1条から第4条の天皇の総攬の部分が一番の問題だ。この原則をそのままにして、憲法の民主主義化は出来ないと思う」と異論を述べたが、他に意見はでなかった。
 
 憲法改正はGHQが発した案件で、東久爾内閣の副総理挌だった近衛文麿に、直接マッカーサーが提案し、近衛自身も改正案の作成に積極的に取り組むことを決心、まず天皇に報告し、京都大学在学中の恩師佐々木惣一教授を招き改正案の起草に着手した。
 ところがGHQは、憲法改正の話は東久爾内閣の閣僚であった近衛との会話の中ででてきた話で、しかも通訳の誤訳で誤解を招いた部分がある、と腰の引けた態度になった。
 多分、近衛の戦犯容疑が固まったこともあったと思われる。間もなく近衛は、戦犯に指名されて自殺した。
 その後、GHQは幣原内閣にも憲法改正を検討するよう命じたが、これを機に、政党、民間研究機関でも改正憲法の研究が始まった。
 保守政党の自由党では  
  一、統治権の主体は日本国家なり
  一、天皇は統治権の総覧者なり
  一、天皇は万世一系なり
  一、天皇は法律上及び政治上の責任なし
  一見して帝国憲法と同じように天皇主権である。
 もう一つの保守政党進歩党も、2月になると「憲法改正要綱」を発表する予定だったが、天皇主権は変わらず、天皇は統治権を行使するとしている。
 
 革新側では社会党が「新憲法要綱」を発表した。憲法起草委員会には高野岩三郎、森戸辰男、片山哲、黒田寿男、松岡駒吉らが名を連ねていた。冒頭に、「新憲法を制定して民主主義政治の確立と社会主義経済の断行を明示す」とした上で、「主権は国家(天皇を含む国民協同体)に在り」としているが、主権を有する「天皇を含む国民協同体」とはっきりしないが、国民の権利については相当突っ込んだ記述をしている。「国民の生存権、国民の平等権……華族、位階、勲等の廃止、所有権の制限、男女平等」などが保障されているが、統治権は分割して主要部を議会に、1部を天皇に帰属させ、大部分を国会の統治としていた。これまた天皇の統治権を縮小したものの、主権在民の憲法ではない。共産党も、11月には「新憲法の骨子」を決めていたが、天皇制の廃止、私有財産の所有を制限するなどがベースとなっていた。
 
 GHQの憲法改正の提案以来、憲法を研究する民間グループも幾つか出現した。GHQもその成果に期待していたが、鈴木安蔵、室伏孝信、高野岩三郎の左翼グループの憲法研究会が作成した「憲法草案要綱」に関心を持った。民主的と判断されたらしい。
   一、日本国の統治権は日本国民より発す
   一、天皇は国政を親せられず国政の一切の最高責任者は内閣とす
   一、天皇は国民の委任により専ら国家的儀礼を司る
   一、天皇の即位は議会の承認を経るものとす
    一、摂政を置くは議会の議決による
 明確に統治権は日本国民にあり、天皇の親政を否定した「憲法草案要綱」は1945(昭和20)年12月27日に公表され、GHQは直ちに翻訳して、国務省に送付した。
 
 毎日新聞の特ダネ、政府の松本委員会作成の憲法改正試案をみたGHQは、明治憲法の字句を訂正しただけで、明治憲法の思想を引き継いだものだと判定して、早急にGHQが憲法改正案を作成すべきとの結論に達した。改正案の作成はマッカーサーの命令で、2月4日からホイットニー民生局長が委員会を組織して分担を決めて作業を開始した。20人余のメンバーの大半は民生局の軍人だが、法律の専門家でもあった。マッカーサーの命令は①天皇は国家の元首で、皇位は継承される。②天皇の職務および機能は、憲法に基づき行使され、憲法に示された国民の基本的意思に応える。国権の発動たる戦争は廃止する。③日本の封建制度は廃止される、の3条件であった。
 
 1945年12月27日、モスクワで極東委員会の設置が決定された。
 連合国の日本占領政策は連合国軍総司令官マッカーサー元帥の絶対的権力によって決定されていたが、それを不満とするソ連の要求で、モスクワに米、英、ソ三国の外相が集まり、今後極東委員会を設置して、委員会の決定がGHQを拘束するとしたのだ。
 極東委員会は、米、英、ソにくわえて、オーストラリア、オランダ、ニュージーランド、フランス、フィリピン、カナダ、インド、中国の11か国で構成され、各国のメンバーを決定して、2月26日に委員会を発足させる予定であった。
 日本政府が内定した松本委員会の憲法試案が、発足する極東委員会で正式議題として検討されれば、とても容認される内容ではない。
 極東委員会が発足する前に、日本政府が自発的に新憲法試案を作成すればいいと考えたマッカーサーは、日本政府に代わって憲法改正試案の作成をホイットニーに命じたのだ。
 
 2月13日、ホイットニー民生局長、局次長のケーディス大佐、ハッシー中佐らが、東京麻布の外務大臣公邸を訪問した。出迎えた吉田茂外相、松本蒸治憲法問題調査委員会会長、白洲次郎終戦連絡事務局参与らに、いきなり「松本試案は、最高司令官にとって自由と民主主義の文書としては受けいれがたい。最高司令官は、GHQ草案を作成して貴官らに手渡すように指示した」と、大急ぎで作成した英文のGHQ草案を手渡して、「天皇制を支持することが天皇を護る唯一の方法である」と言明した。さらに、「この案の提出を日本政府に委ね、最高司令官が強く支持する方法をとる用意がある」とも付けくわえた。このGHQ草案を元にGHQと激論を重ね、2月26日に閣議決定に持ちこんだ。
 前文で主権在民を謳いあげ、天皇を日本国民統合の象徴とし、天皇の国事行為は内閣の助言と承認を必要とする天皇条項、戦力及び交戦権の否認など、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」で始まる明治憲法に馴染んだ関係者には天皇への同情論が多かった。
 発足した極東委員会の容喙を避けたいGHQと幣原内閣は、あくまでも日本側の発意により明治憲法の改正案としてできるだけ早い時期に帝国議会で審議しようとした。衆議院は解散中であったが、枢密院の諮詢が必要だったため、3月20日、幣原首相が非公式に枢密院で説明会を開き、4月17日には枢密院に諮詢、6月8日可決した。
 象徴天皇は、アメリカ側の発意で、太平洋戦争中のころから、平和の象徴として天皇の利用価値を検討されていたという。また、新渡戸部稲造の1931年ごろの英文著作に「天皇は、国民の代表であり、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である」と書かれていたともいう。もうひとつ、戦争放棄の発案者は誰かということだが、これは幣原がマッカーサーを訪問した時に戦争放棄を訴えたという。

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 (34)戦後初の総選挙と東京裁判
 
 昨年12月18日に解散した衆議院の総選挙は、GHQの命令で延期を余儀なくされていたが、GHQは公職追放令、婦人参政権など公職選挙法の整備、改正憲法試案の準備も整い、投票日は4月10日と決定した。しかし、幣原内閣の閣僚5人が公職追放令に該当して立候補できなかった。逆に、逮捕されていた多くの党員が釈放された日本共産党は、再建党大会を開いて徳田球一を委員長に選び、宮本顕治、志賀義雄、袴田聡見らを中央委員にして、意気軒昂だった。戦時中の議員が集まった日本進歩党は、共産主義を排撃し国体護持をモットーとした。反東條の議員で結成された日本自由党、中道政党を標榜する日本協同党、左右両派の寄り合い所帯の社会党などが、象徴天皇と戦争放棄を謳う改正憲法を争点にしたが、選挙民には食糧問題のほうが切実であった。さらに重大な話題は、初の婦人参政権である。投票も立候補も可能となった女性たちの動向に関心が集まった。
 この年、1946(昭和21)年は、食糧事情は好転せず、焼け跡の復興には手つかず、物価は暴騰し、将来に希望が持てる世相ではなかった。
 さらに2月17日、銀行、郵便局の預貯金が封鎖された。幣原内閣は、金融緊急措置令を発した。銀行、郵便局に預貯金があっても、自由に金を引き出せず、手元にある金も3月2日までしか使えないというのだ。その後は、1人100円まで、新発行の新札と交換できるとした。生活費は、世帯主は300円、家族1人につき100円を引き出して使えるとした。5人家族であれば月700円で暮らせ、というのだ。主食の配給は満足におこなわれず、どこの世帯でもヤミ取引の米を買ったので、1世帯1000円はかかった。家族全員が食っていくのは大変なことだった。さらに新札の印刷が間に合わず、旧札に郵便切手のような証紙を貼って通用させた。復員兵は次々に帰ってくるが仕事は少なく、家を失った罹災者は浮浪者となり、両親をなくした子どもたちは駅や地下道で暮らしていた。それでも、極寒の冬を乗り越えた安堵感に一息ついていた。
 
 2月4日、アメリカの最高栽は、山下弁護団の請願を却下した。事件は軍事裁判の対象で、最高裁判所の管轄外というのだ。判決には2人の裁判官の少数意見がつけられていた。
 山下将軍は米国の訴追を受けたのに「米国憲法と法律が命ずる公平な裁判を拒否された」と断じ、もうひとりの判事は「この起訴は、訴追人の義務およびその不履行に関する偏見に基づいて、軍事裁判官はどんな罪でもでっちあげることができる、ということである。これは、近年、あまり尊敬されていないある種の国々(ナチス・ドイツや共産独裁国)でおこなわれている常習を思わせるものがある。……もし敗戦の敵将を処置するために、正式な合法的な手続きの仮面復讐と報復の精神をのさばらせるならば、それは同じ精神を発生させ、すべての残虐行為よりも永久的な害毒を流すものである」と意見を述べた。
 米国最高裁判所の却下決定を知らされると、マッカーサーはただちに「軍職の一員であることを示す制服、勲章、付属物を剥奪して」山下大将の刑を執行すべきことをスタイヤー中将に命令するとともに、
 「この将校は彼の部隊、彼の祖国、彼の敵、そして人類に対する彼の義務を怠った。其の犯罪は……文明に対する汚濁であり……その経歴は軍職を奉ずる者の汚辱である」との声明を発表した。
 
 4月10日、戦後初の総選挙が実施された。選挙権・被選挙権の年齢は5年引き下げられ、大選挙区・連記投票制でおこなわれた。その結果、日本自由党が141名で第一党になり、日本進歩党は94名、日本社会党も94名、日本協同党が14名、日本共産党5名、残りは諸派、無所属で定員446名を埋めた。女性議員は、39名の当選者をだした。第1党となった自由党総裁鳩山一郎は社会党と結んで組閣しようとした途端、公職追放令の該当者と追放されてしまった。結局、吉田茂が自由党総裁に就任、組閣の大命は吉田に下った。まだ帝国憲法下の内閣だったため、議席のない吉田茂の総理就任には問題はなかったが、幣原内閣の外相としてGHQとの折衝に当り、鳩山の追放を含めて自己に有利な交渉をしたと囁かれた。第1次吉田内閣はこのようにして発足した。
 
 一方、GHQの憲法改正試案をめぐって日米の論議が交わされていた2月15日、マッカーサーは、東京裁判にオーストラリアから派遣されたウエップ判事を裁判長に選んだ。参加国もそれぞれ検事を派遣したが、アメリカはいち早く来日させたキーナン検事に実務を処理させ、法廷も市ヶ谷の旧陸軍士官学校の大講堂と決め、改修工事がはじめられた。
 海外では、天皇に戦犯指名の可能性ありとの声もあったが、すでに天皇制存続を決めていたマッカーサーは、キーナン主席検事にもその旨を伝えて了解をとっていた。ウエップ判事を派遣したオーストラリア政府では天皇訴追論が強く、各国の裁判官を束ねる裁判長に任命するのに懸念がもたれたが、反日感情の強いウエップ判事を裁判長にして公判をコントロールさせれば、各国の裁判官も納得するのではないか、とのホイットニー准将らの意見で裁判長に任命された。好人物のウエップは名誉ある地位だと喜んだ。
 
 4月13日、A級戦犯容疑の梨本宮と元三菱重工社長の郷古潔が釈放された。
 2人は、国際法廷の被告ではない、とキーナン検事がコメントした。
 この日の夕方、ソ連判事と検事を乗せたソ連巡洋艦が東京港に到着した。
 4月29日(天長節=天皇誕生日)、A級戦犯容疑者28名が起訴された。A級戦犯とは、捕虜虐待などの「通例の戦争犯罪」以外に侵略戦争の計画や実行を裁く「平和に対する罪」や一般住民の虐待や虐殺に対する「人道に対する罪」など3つの罪に問われ、市ヶ谷の「東京国際裁判所」に起訴された者をいう。BC級戦犯は、「通例戦争犯罪」と「人道に対する罪」に問われ、横浜の軍事法廷や海外の連合国軍事法廷で裁かれる容疑者をいうが、最初は区別されていたB級とC級の区別はなくなっていた。
 日本の降伏文書の署名9か国から派遣された判事、検事にくわえて、インド、フィリピンの判事、検事も参加することになり、合計11か国連合の国際裁判となったが、遅れてやってきたソ連検事は、張鼓峰事件とノモンハン事件を侵略戦争として外交官重光葵と梅津美次郎陸軍大将の訴追を主張し、マッカーサーは了承した。至急手続きがとられ、起訴当日の4月29日朝、二人は逮捕され、巣鴨の拘置所に収監され、まだ外地にいた板垣征四郎、木村平太郎を除いた全員と一緒に起訴状を渡された。起訴されたのは、荒木貞夫、土肥原賢二、橋本欣五郎、畑俊六、平沼騏一郎、広田弘毅、星野直樹、板垣征四郎、賀屋興宣、木戸幸一、木村兵太郎、小磯国昭、松井石根、松岡洋右、南次郎、武藤章、永野修身、岡敬純、大川周明、大島浩、佐藤賢了、重光葵、嶋田繁太郎、白鳥敏夫、鈴木貞一、東郷茂徳、東條英機、梅津美治郎の28人で、5月3日に公判は始まるとされていた。
 起訴状によれば、日本人は他の民族より優れていると教育で教えこまれ、日本の議会制度はヒトラーのナチス党、ムソリーニのファシスト党の組織を導入し、被告28人は共謀して他の国を「支配と搾取」し、「平和に対する罪、戦争犯罪、人道に対する罪」を侵し、米、英、仏、ソ、中国、カナダ、オランダ、オーストラリア、フィリピン、インド、ニュージーランドその他の平和国家に対する侵略戦争を開始した、と被告たちを弾劾し、さらに、戦争法規や慣例の侵犯がなされ、捕虜の虐待、被占領国民に対しての「大量虐殺、陵辱、略奪、劫略その他野蛮行為」をくわえ、国内的には「日本政府の官吏や行政機関に対する陸海軍の威令及び制圧を強め」翼賛会を組織して、世論を国家主義的膨張主義にリードし、被占領国にも「傀儡」政権を樹立して日本の武力進出を促進した、と被告たちを告発していた。
 訴因が一番多かったのは54項目の木戸幸一で、満洲事変を除いて、あとは全訴因が適用された。次いで枢密院議長の平沼騏一郎の52、東條英機は50項目で3番目だった。少ないのは駐伊大使の白鳥戸敏夫の25、民間人の大川周明が26となっていた。
 
 検事側はGHQの掩護を受けてスタッフも大勢いて、日本語通訳も充分に用意できたし、資料の取り寄せには総司令部国際検察の名前で提出を求めると簡単に手にはいった。
 これに反して弁護側は、28被告に対して24人、穂積重威弁護士が木戸幸一と東郷茂徳の2人を、鵜沢聡明弁護士が松井石根と白鳥俊夫、塩崎直義弁護士が土肥原賢二と大島浩を、清瀬一郎弁護士が東條英機と佐藤賢了と各2名を担当した、
 アメリカ人弁護士も派遣されると聞いていたが、まだアメリカを出発していなかった。とりあえず軍人の中から海軍大佐E・コールマン、 海兵中尉A・ラザラス、 陸軍大尉S・クライマン、 陸軍少佐F・ウォーレン、 陸軍大尉A・ブルックス、 陸軍少佐B・ブレイクニーの6人がいただけだ。
 ほかに米国勢の先発として来日していた二世弁護士ジョージ山岡、フィリピンで本間雅晴陸軍中将の弁護に当たった陸軍大尉G・ファーネスが開廷に間に合うよう来日することになっていた。
 日本人弁護士は、被告それぞれが縁故、知人を頼って弁護を依頼する形で選任されていたが、弁護費も個人負担もあれば、自らボランティアとして志願した弁護士もいた。したがって各弁護士の弁護の基本方針の確認もできておらず、起訴状をもらってから開廷まで3日しかなく、弁護士たちは被告にも面会しなければならず、血眼で走りまわった。
 戦後初のメーデーの5月1日、国民の生活は日ごとに窮乏し、皇居前広場には50万人の参加者がつめかけたが、弁護士たちは打ち合わせに追われ、メーデーどころでなかった。
 そんな中、嶋田元海相担当の高橋義次弁護士が、天皇陛下に御迷惑をかけないよう一致協力し、天皇が被告となられることを極力防止し、個人の利益になる場合でも、天皇に証人として御出廷いただくことは絶対にやらぬ。国家弁護を優先して個人弁護を二の次とすること。個人の身のあかしは立っても、それによって日本が侵略国と銘うたれるようなことはやらない、の2項目を弁護人一同の基本方針として提案したが、全員の賛成は得られなかった。天皇を被告には絶対にしないことは、素直に受け入れられた。が、2番目は個人の基本的人権を侵害する恐れがあるとの意見がでて全員の共感は得られなかった。
 開廷すれば、各自の起訴状が朗読され、欧米の裁判様式にならって全員に罪状認否が質問われ、有罪を認めれば、その後の法廷は刑の量定のみの審理となる。有罪を認めれば死刑の宣告が下る可能性がある。被告全員に、無罪と答えてもらわなければならない。
 広田弘毅元首相担当の花井忠弁護士が、広田被告に罪状認否の「無罪」主張を要請したが、「私には責任がある」と同意しなかった。花井は、執拗に懇願したが面会時間が終了、「とにかく、無罪といってください。お願いします」と気迫をこめて言い放ち辞去した。
 広田弘毅は、1936(昭和11)年の二・二六事件で総辞職した岡田啓介内閣の後を受けて総理大臣となり、吉田茂を外務大臣に登用しようとしたが、陸軍の猛反対を受けて自らが外相を兼務して組閣したが、日独伊三国同盟の元となった日独防共協定や軍部大臣現役制を容認するなど、陸軍の暴走を許した。
 もう一人、大川周明被告担当の大原信一弁護士も困っていた。大川の神経が異常をきたしていたからだ。大川周明は、日本国家主義運動の指導者で、1931(昭和6)年、一部青年将校が計画した三月事件や満洲事変、1932(昭和7)年の五・一五事件に連座した容疑であった。

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昭和の大戦争 南條岳彦 copyright by Takehiko Nanjo 2010