第3章 ソ連に和平仲介を!

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(18)鈴木貫太郎内閣の誕生
(19)陸相は阿南惟幾を
(20)ポッダム宣言は黙殺する
(21)聖断を仰いで
(22)もう一度、ご聖断を
(23)玉音放送は録音で
(24)反乱
(25)8月15日・玉音放送は正午
(26)悔しかった敗戦
(27)ソ連軍の満州侵攻

 

 

 (18)鈴木貫太郎内閣の誕生
 
 高松宮は、昭和天皇の4歳年下の弟で、現役の海軍大佐である。日米開戦のとき、早々と開戦を決意した陸軍に対して避戦論に傾いていた海軍が、正面を切って言い出せず、和戦の決定を総理一任とした。近衛総理も陸軍の強硬論を押さえこめず、内閣総辞職の道を選び、東條内閣誕生の道を開いた。高松宮は、海軍内部の避戦ムードを兄天皇に伝えていた。戦況が日本に不利となると、早期和平論者の高松宮は、天皇に持論を主張して激論になることもあった。高松宮は、近衛総理の秘書だった細川護貞(細川家十七代の当主)を情報係に、吉田茂や米内光政などと意見を交換して和平工作を検討、天皇と意見が合わなかった。天皇は立憲君主制の天皇として、首相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長など、輔弼の任にあたるそれぞれの責任者の報告……上奏の言葉を唯一のものと信じた。食糧不足とマリアナ以来の敗戦の報に厭戦気分に陥っている国民意識の落ちこみも、たとえ皇族の報告であっても無資格者の提案として退ける天皇と、天皇を補佐する総長や大臣が誤った情報や自分たちの都合に合わせてねじまげた報告をしたら取り返しがつかないではないか、と主張する高松宮の意見は平行線を辿るだけだった。天皇は、皇太子のときに受けた帝王教育で、天皇には天皇として護るべき義務があると信じて疑わなかった。
 
 一か月に及んだ硫黄島の激戦も3月17日に栗林兵団の総攻撃で終息した。2万129名の日本軍が全滅したが、米軍はそれを上まわる2万8千名の死傷者をだした。このころから、小磯首相が辞意を洩らすようになった。サイパンの失陥後、東條の後を継いで重臣会議の推薦で首相に就任した小磯だが、陸軍の支持が得られず、特に統師情報は意図的に遮断されていた。東條のように陸軍大臣になって参謀総長を兼務しようと考えたが、陸軍は小磯の陸軍大臣就任を拒否した。さらに小磯は、汪兆銘傀儡政権の考試院副院長を仲介者として蒋介石の国民政府と和平交渉を行うことにして副院長を日本に呼び寄せた。日本の傀儡汪兆銘の重臣が蒋介石に通じているのも不可解だが、小磯自身が手配して計画を進めたとは思えない。小磯は、外交大権の侵害とする重光葵外相の猛烈な抵抗にあった上、昭和天皇も一国の宰相ともあろうものが、蒋介石の親書も持たぬ素性の知れぬ男に頼って謀略的な和平交渉を行うのは国際信義を失う、と真っ向から反対した。
 副院長は3月17日に来日、緒方竹虎情報局総裁と意見を交換しただけで、正式な会談を持てぬまま帰国した。さらに米軍の沖縄上陸である。小磯は内閣総辞職をした。
 
 次の総理を誰にするか。4月5日、緊急の重臣会議が皇居内で開かれた。近衛、若槻、岡田啓介(二・二六事件当時の総理)、平沼、広田、木戸内大臣、前総理の東條、それに枢密院議長の鈴木貫太郎海軍大将が呼ばれていた。侍従長をしていた鈴木貫太郎は、二・二六事件では『君側の奸』として反乱部隊の陸軍将校から襲撃され、重傷を負ったが、奇跡的に一命を取り止めていた。
 この日の重臣会議は、あらかじめ打ち合わせられていたらしく、口を揃えて「鈴木貫太郎」を推薦する声が上がった。和平推進派の近衛、岡田だけでなく、戦争継続派と見られた平沼騏一郎も鈴木貫太郎に賛成した。東條一人が、畑俊六元帥を推薦した。畑元帥は、米内内閣(昭和十五年)の陸軍大臣で、日独伊三国同盟の締結を目論む陸軍は、畑に陸軍大臣の辞表を提出させ、三国同盟反対の米内内閣を倒閣した。その経緯を知る重臣たちは東條の発言を無視し、木戸が「国内が戦場になろうとするとき、国民の信頼が得られる内閣を作らなければならない。東條閣下のご意見ももっともであるが、自分は鈴木閣下のご奮起をお願いしたい」と発言した。
 「国内が戦場になろうとする現在である。よほどご注意にならないと、陸軍がそっぽを向く恐れがある。陸軍がそっぽを向けば、内閣は崩壊する」
 東條は、脅すような発言をした。
 「陸軍がそっぽを向くというのは重大な発言である。何か動きがあるのか?」と木戸が質問した。
 「この重大な国難にあたって、しかも大命を拝した首相に対してそっぽを向くとは何事か。国土防衛は誰の責任か。陸海軍ではないのか」
 岡田も語気鋭く詰問した。
 「懸念があるから、ご注意ありたしといったまでだ」
 と東條は釈明した。
 なおも会議はつづいたが、鈴木は「自分は政治に疎いし、その任ではない」と固辞した。結論はでないまま会議はおわり、木戸は鈴木を待たせたまま、天皇に拝謁、重臣会議の模様を伝えて、鈴木貫太郎への大命降下を奏上した。
 天皇は、一も二もなく賛成し、満足げだった。鈴木は、木戸に促されて、天皇に拝謁した。天皇は、懐かしげに鈴木を見つめ、親しみをこめて声をかけた。
 「鈴木、達者か」
 「はい、耳は少々遠くなりましたが、元気であります」
 貫太郎は深々と頭を下げて応えた。
 「いくつになる」
 「数えで七十九でございます」
 「高齢のところ、ご苦労だが、もうひと働きしてくれぬか」
 「……」
 「卿に内閣の組閣を命ずる」
 畏まって拝聴していた鈴木は、ことばを喪っていた。
 「どうだ、やってくれるな」
 「陛下、私は生来の武弁で、政治の世界でお役に立つとも思われません。なにとぞ、この義ばかりは……」
 天皇に言葉を返すのも恐懼するのに、大命を謝絶するのは畏怖の限りである。
 「お前の気持ちは、よくわかっている。しかし、今この危急の時局に、もうほかに人はいないのだ。頼むから、どうか、まげて承知してもらいたい」
 大命謝絶を口ごもる鈴木に、『頼むからまげて承知してもらいたい』と陛下が懇願する。
 天皇の言葉に、鈴木はもうことわることはできなかった。
 天皇に懇願させたことにも自らを愧じた。そして鈴木は、天皇が戦争を終息させる最後の機会にしようとしていることに気がついた。
 
 鈴木貫太郎は、天皇家との関係が深い。
 1867(慶応3)年生まれの鈴木は、日露戦争に水雷艇戦隊の司令官として参加、1923(大正12)年海軍大将となり、連合艦隊司令長官に登りつめたが、45歳のときに妻を喪った。その後勧める人があり再婚した、その相手は足立タカ。東京女子師範学校を卒業して、明治38年から宮中で、皇太子(昭和天皇)と弟宮(秩父宮)の養育係を、10年間にわたって勤めている。その後貫太郎が侍従長に任じられ、二・二六事件で襲撃してきた青年将校が、倒れた貫太郎にとどめを刺そうとしたとき、武士の情けと説いてとどめを阻止したのが、この再婚相手の鈴木タカだった。しかもタカは、応急の止血手当てをして、宮内省に電話で事件の発生を報告、医師の手配を要請した。
 鈴木貫太郎は、二・二六事件に受けた天皇の恩顧、侍従長として仕えた年月、海軍に身を投じて以来の半世紀、全身に育んだ忠誠心、天皇の懇願を拒絶する意思は消えた。
 すすんで供奉して戦う気力が漲ってきた。
 
 新しい内閣を鈴木貫太郎に委ねる動きなのか、一月ごろ、岡田啓介が鈴木宅を訪れて訊ねている。さらに吉田茂が侍従長を訪ねて和平方法を進言している。今回の重臣会議も、誰かが筋書きを書いたかのように、結論がはじめから用意されていたとも思える。緊急とはいえ、突然の拝謁に続くいきなりの大命降下、しかも辞退に重ねての要請と異例づくめであったが、どんな演出がなされたのか。天皇の希望を木戸が忖度して重臣たちを動かしたのか、木戸の演出に天皇が乗ったのか、いずれにしろ考えられる最高の内閣が出現した。

 

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 (19)陸相は阿南惟幾を
 
 鈴木貫太郎の組閣は陸軍大臣に阿南惟幾大将を陸軍に所望することからはじまった。陸軍航空総監の阿南大将は、二・二六事件の昭和11年、鈴木侍従長の下で陸軍武官を勤めた仲間でもあった。陸軍の人事は三長官が決める慣わしがあり、杉山元陸軍大臣、梅津美治郎参謀総長、土肥原賢二教育総監の三人が協議した結果、条件つきで了承した。その条件とは、(1)戦争目的の完遂(2)陸海軍一体の軍政(3)本土決戦のため、陸軍の企画の実行、の3点である。鈴木は臆することなくあっさり受け入れ、海相米内光政、外相東郷茂徳などの閣僚を決定し、書記官長(官房長官)に岡田啓介の女婿迫水久常を任命して鈴木内閣を発足させた。陸軍との対立を避けた鈴木内閣は、和平要望派を失望させ、親米英のモードを漂わせる米内、東郷、鈴木の雰囲気は陸軍の反発を呼んでいた。しかも内閣発足の日に、日本唯一の残存戦艦となっていた「大和」が海上特攻で沖縄に向かい、奄美諸島の沖合で撃沈されてしまった。
 沖縄の地上戦でも、日本軍は米軍に圧倒され、県立中学や女子校の生徒たちも兵士として銃をとり、看護婦として傷病兵の看護にあたったが、戦況は好転せず、多くの民間人が犠牲となった。赤ん坊を抱いていた女性は、赤ん坊を泣かせると声が敵に知られると日本兵に壕を追い出された。年寄りや幼児、女性、多くの民間人を犠牲にしながら、沖縄は日一日と最後の日に向かっていた。内地でも、空爆は日を追って激しく、東京も4月13日、15日と空襲を受け、皇居の一部も焼失した。
 ヒットラーが自殺してドイツが降伏したのが4月30日である。
 5月24日未明、B29のべ1千機が来襲、焼け残っていた都心から西北部にかけて焼夷弾攻撃を受け、山の手一帯が被災した。皇居も宮殿が炎上、被害甚大であった。
 
 6月8日、御前会議が開かれ、「地の利人の和を以って国体を護持し、皇土を保衛し、征戦目的の達成を期す」と陸軍の主張通り、本土決戦の基本方針を改めて決定した。
 ドイツの降伏は、戦場から開放されたソ連兵の今後の動向が懸念され、参謀本部は焦燥感を抱いていた。ソ連は、既に日ソ中立条約の破棄を通告してきている。協定によれば、一方が期限内に破棄を通告しても、その後一年間を有効となっている。ソ連が協定を守れば問題はないが、現にソ連は、独ソ戦終了と同時に、ヨーロッパ戦線の兵力を満洲国境に接するシベリアへ、次々に投入しているようだ。もし、ソ連軍が越境して満州に攻めこんできたら、南方戦線に兵力は引き抜かれ、兵の質、量、装備に劣る関東軍では太刀打ちできない。対ソ問題を検討するため、最高戦争会議開催の要請がきた。全員がソ連の参戦を阻止したい一心だったが、いい知恵が浮かばなかった。時間だけが浪費する中、
 「ソ連に、連合国との講和仲介を頼みましょう」
 と、鈴木総理がいいだした。外相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長……全員がおどろいたが、ソ連の出方を探りながら、連合国の意向を探る絶好の手段であることもまちがいない。アメリカ大統領ルーズベルトが脳溢血で死亡(4月12日)し、トルーマンが後を継いでおり、ドイツが降伏した今、トルーマンの対日政策を探る絶好の機会かもしれない。世界の有力国はほとんどが対日戦に参加しており、仲介を頼むには、僅かに命脈を残すソ連に頼るのは最良の方法であるかもしれない、と全員が考えた。最良の策ではあるが、時期を見て慎重に検討することで、出席者だけの秘密として決定した。
 鈴木総理は、この決定を携えて先に御前会議で決めた「本土決戦」との整合性をどう取り扱うか、を木戸内大臣と相談した。今回のソ連仲介の和平案には、木戸も賛成で、天皇臨席の「最高戦争指導会議」を再度開催することにした。
 
 6月22日、天皇臨席の許に「最高戦争指導会議」が開かれたが、今回は、上奏を受ける玉座はなく、列席者と同列の懇談の席が天皇に設けられていた。さらに開会冒頭、天皇が意見を述べたのも異例のことだった。
 「従来の観念にとらわれることなく、戦争の終結について、速やかに具体的研究を遂げ、実現に努力するよう望む」
 と述べた後、天皇は出席者全員の意見を求めた。鈴木と木戸が考えた作戦である。
 首相、外相、海相と賛成意見を述べ、天皇の視線は梅津参謀総長に移った。
 「総長としても異存ございませんが、実施には慎重を要するものと考えます」
 と、考え考え答えた。
 「慎重を要するのは当然であるが、そのため時期を失することはないか」
 「はい、なるべく速やかに外交交渉をすべきであると考えます」
 これで日本は和平工作をソ連に託すことにして近衛の派遣を決定したが、ソ連は3か月前のヤルタ会談で、対ドイツ戦の終了とともに、対日戦への参加を米英に約束していたとは誰も考えなかったのが不可解である。
 
 米軍の空襲は益々激しくなり、東京、大阪、名古屋などの大都市以外の浜松、静岡、福岡、門司、岡山、鹿児島、佐世保などの地方都市が軒並み空爆され、このままいけば、日本全土が丸焼けになってしまう。これに対して、日本軍は沖縄近海の米艦隊に特攻攻撃をかけたが、使える飛行機が少なく、特攻基地からは旧型練習機にも爆弾を積んで発進させたが、故障のため引き返してくる特攻機が多かった。故障しなくても、速度が遅い練習機は米戦闘機に簡単に撃墜されてしまう。
 
 6月23日、沖縄の日本軍司令官牛島満中将が摩文仁の洞窟で自決して沖縄の戦闘は終った。日本軍の損害は、正規軍6万5千、動員された防衛隊員2万8千人、それに15万人の一般住民が犠牲となった。
 
 広田弘毅元首相は、マリク・ソ連大使とコンタクトをとり、日本の要望を伝えた。マリクは本国に取り次ぐというが、話は進展せず、要領を得なかった。東郷外相は、佐藤尚武駐ソ大使に、直接ソ連モロトフ外相と面会して交渉せよと訓令をだした。
 スイス駐在武官藤村義朗海軍中佐から、米国政府の諜報員アレン・ダレスと単独講和の話し合いをしたとの報告電が海軍省に届いた。6月25日のことである。日本を混乱させるための謀略とも考えられたが、米内は話をすすめて様子をみようと応じたが、陸軍の反対で立ち消えになった。
 
 7月16日、モスクワのロゾフスキー外相代理から佐藤尚武大使経由で「日本の申し入れは具体的提議を含んでいない。近衛特使の使命がいずれにあるか明らかでないから、何ら確固たる回答をなすことは不可能である」と応答してきた。
 鈴木総理は、「近衛特使は、天皇の御心を態し無条件降伏以外の講和条件を得んために、ソ連政府の斡旋を求める目的をもって派遣されるものであり、近衛公爵は右に対する具体的意図を開陳せんとするものである」と急いで訓電を打ち直させた。
 この訓電は異常に遅れ、佐藤大使がロゾフスキー外相代理に手交したのは、7月25日であった。
 佐藤駐ソ大使も、和平仲介を依頼する天皇の親電をモロトフ外相に手交しようとしたが、モロトフはポッダム会談への出発準備に忙しいと面会を断り、代わりにロゾフスキー次官が受け取って、取り次ぎを約束した。
 ソ連からの反応がないのに苛立ちながら、陸軍は師団増設を計画し、本土決戦用の義勇隊を編制した。既存師団は若干の戦闘力を有していたが、徴兵枠を45歳まで広げた新設師団は、銃や剣などの基本武装もゆき渡らず、沿岸地帯で壕を掘らされていた。日本陸軍は、全国で40個師団の増設を目論んだが、師団司令部も編成されず、一兵も徴兵できないままの師団もあった。九十九里浜の海岸には、大勢の兵士が集められて壕を掘っていたが、周辺の農家から、畑のイモが盗まれて困るとの苦情が殺到していると報告された。
 後年の作家司馬遼太郎は、満州の戦車隊の見習士官だったが、この時期関東地方に配備され、米軍の本土上陸に備えていた。米軍が三陸海岸や九十九里浜に上陸してくれば、戦車を駆って迎撃しなければならない。しかし、海岸の戦場へ通ずる道路は戦車専用ではない。敵の上陸攻撃に、家財道具を積んだリヤカーや大八車を引いた避難民が群をなして逃げてくるにちがいない。戦車は走れなくなるかもしれない。
 「そんな群衆はひき殺して前進すればいい」
 大本営派遣の参謀は、当然のことのようにいい放った。戦闘に邪魔な国民をひき殺して、何を護ろうというのか。
 首相官邸では本土決戦義勇隊用の武器が展示されていた。単発先込め銃、手榴弾、弓、対戦車用火炎ビン、竹ヤリ、江戸時代の捕り物に使われたサスマタ(の先にU字型の金具をつけた、相手を拘束する武器)、農具のクワやカマなどを侘しく展示するのを、いったい誰が考えたのか。こんな展示物で実戦を戦えるとは誰も思っていない。見るだけで戦意が萎える。  
 

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 (20)ポッダム宣言は黙殺する
 
 7月17日から、ベルリン郊外のポッダムに米、英、ソ3国の首脳が集まり、ドイツの戦後処理に合意、さらに7月26日午後九時半(現地時間)、米、英、中3国の連名で日本への降伏勧告ともいえる「ポッダム宣言」が発表された。
 日本では、7月27日早朝、サンフランシスコ放送の報ずる「ポッダム宣言」を外務省、日本放送協会(NHK)、陸軍、海軍の4者が同時にキャッチした。
 その内容は、軍国主義者の除去、新秩序建設まで連合国軍による占領、カイロ宣言の履行(第1次大戦後に日本占領の諸地区の返還、朝鮮の独立等)、日本の主権は本州、北海道、九州、四国および連合国決定の諸小島に局限、俘虜虐待等戦争犯罪人の処罰、再軍備のための産業禁止、日本軍隊の武装解除後は平和的生産的生活を行う機会を付与する。人権の尊重、言論、宗教、思想の自由を確立し、日本国民の奴隷化、国民としての破壊を意図せず、基本的経済支持かつ現物賠償を可能ならしむる産業の維持を容認する。民主主義の復活強化に対する障碍の除去、即時無条件降伏の要求など、13項目である。
 外務省から届けられた文書を読んだ鈴木総理は、陸軍の反発が強まるだけだと失望した。天皇について、身分保障はもとより、一切触れられていないのも不満だった。
 しかし、その日の閣議では、東郷外相が、最後に無条件降伏を要求しているものの、前段に様々な条件がついているし、連合国側が高言している単純な無条件降伏ではなく、条件のついた有条件降伏と解釈できる、承認してもいいと発言した。
 「今、ソ連に仲介を頼んでいるのだから、その返事がきてから態度を決めたらどうだ」
 と、阿南陸相は直ちに態度を表明せず、ソ連の出方を窺えと主張した。早期講和論者の米内海相はあえて発言せず、態度保留の黙殺に傾く閣議の空気に同調していた。
 さらに米軍は、ポッダム宣言の日本語訳を印刷したビラを飛行機で撒き、日本国民に直接知らせる戦法をとった。外地で宣言を傍受した部隊からの詰問調の問い合わせもあり、陸軍も戸惑っていた。国内の新聞社も取材に動きはじめた、
 こうなったら、正式に発表したほうがいいと判断、政府はポッダム宣言の内容だけを発表した。その結果、28日の朝刊(夕刊はない)に記事として掲載されたが、戦意低下を抑制するため「笑止」「聖戦完遂」「政府は黙殺」の見出しが躍っていた。
 さらに翌日、予定されていた内閣記者会(記者クラブ)との会見で、総理は、
 「三国共同宣言は、昭和18(1943)年のカイロ会談(チャーチル、ルーズベルト、蒋介石の三者会談で戦後日本の領土問題を話し合った)の焼き直しで、政府として、何ら重大な価値があるものとは思えない」と集まった記者たちに語った。
 30日の朝日新聞に「帝国政府としては、米、英、重慶三国の共同声明に関しては、何ら重大な価値あるものに非ずとしてこれを黙殺すると共に、断乎戦争完遂に邁進する決意を固めている」と首相会見の談話が報じられた。「態度をはっきりさせず、ソ連に要請した和平調停の結果を待つ」という黙殺のニュアンスは伝わらなかった。ソ連への調停依頼は、極秘事項だったので、明かすわけにはいかなかったのだ。しかし、「断乎戦争完遂に邁進する……」は、結論として不用意であった。
 この記事が、同盟通信(共同通信の前身)の電波で海外へ発信された。その結果、アメリカでは、「日本、ポッダム宣言を拒否」と報じられた。
 
 日本は、ソ連からの回答をひたすら待つしかなかったが、ソ連に和平調停を依頼したことは首相、外相、陸海軍大臣、参謀総長、軍令部総長の6人だけが知る秘密としていた。それぞれ極少数の腹心や組織の関係者、宮中に知らされていたが、一般庶民はもちろん、軍幹部にも知らされていなかった。和平派の米内、東郷も、本土決戦派の阿南や統師部も焦燥のうちに成り行きを見守っていた。
 7月30日、空母ワプス、シャングリラ、ヨークタウンなどから飛び立った艦載機が3日間にわたって関東地方を襲い、駆逐艦らしき小型艦艇が、清水市(静岡)沖に姿を現し、艦砲射撃をくわえていった。沖縄戦の司令官で自決した牛島満陸軍中将と大田実海軍少将がそれぞれ大将と中将へ昇任したと発表された。
 8月7日、「燦たり、海上特別攻撃隊 伊藤中将 大将に進級」 と新聞で発表された。  海上特別攻撃隊とは、鈴木内閣が発足した翌日の4月5日、超弩級戦艦「大和」を旗艦とする第2艦隊(司令官伊藤整一中将)が、連合艦隊司令部の命令で米軍の沖縄上陸地点に突入して強行座礁、地上要塞となり砲撃戦を実施、弾薬尽きれば全員が陸戦隊となり玉砕戦を戦う特攻作戦であった。この時期、連合艦隊に残っていた軍艦の全てが参加したのだが、戦艦「大和」に軽巡洋艦「矢矧」、それに8隻の駆逐艦が従っただけだ。

 司令官伊藤整一中将は、飛行機の掩護もなく、沖縄までの到達は無理、とこの特攻作戦には反対した。
 「戦果が重要なのではない。一億総特攻の先駆けになってもらいたい」と連合艦隊参謀長草加龍之介中将が水上機で飛来して説明、伊藤司令官も同意した。燃料は片道分しか積まなかったといわれるが、各小型艦のタンクの底に残っていた燃料をはじめ注油済み燃料を小分けして、合わせて1往復以上航行できる重油が積みこまれた。
 出撃した「大和」は、4月7日、鹿児島県坊の岬の170キロ沖で米艦載機400機の攻撃を2時間ほど受けて沈没した。米軍は、レイテ沖海戦で「武蔵」を攻撃したときの教訓を活かして、もっぱら左舷を狙って雷撃して、「大和」は左に傾き沈没した。
 伊藤司令官特攻戦死が報道された新聞報道には、『大和』の沈没には触れていなかった。

 8月6日、広島は快晴の朝を迎えた。7時9分、3機のB29が近づいていると警戒警報が発令されたが、単なる偵察飛行だったとして、31分に解除された。ラジオで警報解除を知らされた人々は、ほっとして学校や職場に向かった。
 広島は、日本陸軍創設のときの広島鎮台を基とする第5師団と軍官区司令部があり、第5師団は日清、日露の戦争にも出陣した。また陸軍幼年学校、広島陸軍被服廠、広島陸軍兵器支廠、船舶工兵隊司令部など陸軍の中枢組織が多く、軍都と呼ばれていた。
 戦争末期、陸軍は本土決戦に備えて日本列島を東西に二分して、関西以西を担当する第2総軍司令部も広島に置かれていた。また、大田川支流が市内にデルタを形成し、水の都とされた人口40万の都市でもある。
午前8時15分、突如大田川相生橋上空で巨大な閃光が破裂し、高熱の爆風が広島市街を吹き抜け、一瞬にしてすべての生命を奪い去り、全家屋を焼きつくした。残ったのは、いくつかの、焼け爛れたビルの残骸だけであった。
「広島市は今朝0815B29小数機の攻撃により甚大なる被害を生じ、瞬時にして家屋の8割倒壊、目下炎上中。死傷推定10万以上」
 広島被爆の第一報は、午前8時半頃、呉鎮守府から大本営海軍部へ電報で伝えられたといわれるが、被爆後わずか15分にしては、死傷者推定10万以上と、少し具体的すぎる気もしないではないが、読む人を驚愕させた。一方陸軍は、第2総軍司令部、管区司令部など軍組織のほとんど全部が壊滅的被害を受け、通信手段を喪失していた。幸いにして爆心地から4キロ離れた宇品港にあった陸軍船舶司令部(暁部隊)は被害が軽く、急遽救援活動に赴き、爆心地付近の被爆状況を、第2総軍を発信者として大本営陸軍部に報告した。午前十時ごろの報告とされている。通信手段と人員の大半を失った第2総軍だったが、司令官畑俊六元帥は広島駅付近にいて難を逃れ、市内に戒厳令を敷き、救援活動をはじめた。暁部隊は、消火艇を出動させ大田川沿岸で炎上中の病院を鎮火させ、救護所を開設させるなどの活躍をした。
 午後になって陸軍省から、迫水書記官長を通じて広島の被害が内閣に伝えられ、宮中にも報告された。
 朝の広島に閃いた一瞬の光芒でこれほど甚大な被害を受けるとは、想像できなかった。大本営では、どう対応するのか、混乱していた。原子爆弾は、日本でも研究されていたが、陸海軍が別々の研究機関に委嘱し、数年かけても完成不能と判断され、両方とも挫折していた。原子爆弾は、専門家は別にして、マッチ箱一個の核爆薬で東京規模の都市は壊滅できるという程度の知識は大本営の軍人たちは持っていた。これ以上の被害をださないために、早く国民に被害状況を知らせるべきだ。いや対処法がわからぬまま被害だけを知らせれば混乱がふかまるだけだ。議論は多かったが結論はでなかった。
 とにかく、広島へ調査団を派遣することにした。
 翌8月7日朝、アメリカのラジオ放送で「6日、広島に投下した爆弾は、戦争に革命的な変化を与える原子爆弾であり、日本が降伏に応じないかぎり、さらにほかの都市にも投下する」との大統領の声明を報じた。このラジオ情報が部内に伝えられると、米軍の宣伝、謀略と本土決戦派は主張し、国民への告知をどうするか、堂々巡りの議論が始まった。「昨8月6日広島市は敵B29小数機の攻撃により相当の被害を生じたり。敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり」 と大本営発表をラジオで放送したのは午後3時30分であった。
 そのころになると、日本の政官界では、大本営発表ではなく、海外放送でのトルーマン声明……特に「日本が降伏に応じないかぎり、さらにほかの都市にも投下する」のくだりが論じられた。地方では、住民の疎開を研究する都市もあらわれた。
 陸海軍別々の調査団が東京を出発したのは午後になってからだった。陸軍の調査団には、原子爆弾の研究を委嘱していた仁科芳雄博士も同行していたが、上空から広島の焦土を見て、即座に原子爆弾と判断した。
 海軍軍令部では、海軍省艦政本部火薬担当の安井保門大佐を団長に調査団を派遣することにして、参加希望者を募った。その結果、軍務局、軍需局などから希望者がでて、総勢12名となり、ダグラス輸送機で東京を発った。
上空から眺める広島市内は、目をそむけたくなる惨状で、街全体が焦土となり人間の生活の痕跡が喪失していた。日本の敗戦を全員が自覚した。
 夕方、ダグラス機は、航空隊基地である岩国飛行場に着陸した。陸海軍の現地情報をもとに、大本営も原子爆弾と判断したと知らされたが、広島に直行しても日が暮れて何も見えない、夜が明けてからいった方がいいと勧められ、基地に泊まることにした。
 8月8日早朝、海軍の調査団は車で広島にはいったが、爆心地(相生橋)に2キロに迫ると、焼けなかった家々が同じように西へ波打って倒れていた。その先は、ところどころにビルの残骸が残るだけで、一面の焼け野原だ。いや、黒焦げの焼死体がある。贓物を腹から露出させた牛馬の死体もある。走行中に被爆した市電の残骸には、運転手と乗客の黒焦げの骸が並び、夏の太陽に曝されて異臭を放っている。南郊宇品へ向かうと、路傍の防空壕の中に死んだ幼児や死に切れない子どもが大勢いて、水を求めていた。とりあえず呉鎮守府司令官安井正夫中将に報告したが、ニューギニア、ソロモンの戦場を経験した将兵も、こんな地獄絵を見たことがないと口々に訴えた。
 この日の午後、東郷外相は天皇に拝謁、広島に投下された爆弾は原子爆弾にまちがいないと上奏、「アメリカの放送や現地広島からの通報を説明、陸軍は原爆投下のラジオ放送はアメリカの謀略である、と国民への発表に反対していること」などをつぶさに報告した。
 天皇は、「このような武器が使われるようになっては、もうこれ以上戦争をつづけることはできない。不可能である。有利な条件をえようとして大切な時期を失してはならない。なるべく速やかに戦争を終結するよう努力せよ。このことを木戸内大臣、鈴木総理大臣に伝えよ」と命じた。
 天皇のことばを伝えられた鈴木総理は、その日のうちに最高戦争指導会議を開こうと手配したが、構成員全員が揃わず、明9日朝の開催を決定して、さらに閣議を開くことにして、迫水書記官長に準備を命じた。鈴木総理は「明日の閣議では、私ははっきり戦争を止めるべきだといいます。私の発言の草稿も書いておいてください」と依頼した。
 8月9日未明、首相官邸の電話のベルが鳴った。迫水書記官長が受話器をとると同盟通信外信部長からで、「サンフランシスコ放送が、ソ連が日本に宣戦布告したと伝えています」と告げられた。
 書記官長は、夜明けを待って、ソ連参戦のニュース、閣議での総理発言草稿などを持って総理の私邸を訪れた。官邸の総理居住区は空襲に焼け、以後総理は小石川丸山町の私邸に住んでいた。ソ連参戦の報に「いよいよ来るものが来ましたね」と冷静な態度で応じた。迫水とともに官邸にもどると、東郷外相も駆けつけてきた。東郷は、ソ連に講和の仲介を依頼した責任者である。
「総理、総辞職しますか?」
「いや、それは戦争を終らせてからです」
東郷の問いかけに、鈴木総理はきっぱりと答えた。
「この内閣で、戦争を終らせなければなりません。それが私たちの使命です」
気負いもなく、いつもの語り口で、鈴木はことばをつづけた。いままで、聖戦完遂を唱えるかと思えば、和平を希求する質問をはぐらかすなど、本心を明らかにしなかった総理が、やっと態度を闡明にした、と書記官長は思った。
 午前10時半、最高戦争指導会議が宮中で開かれた。
 「広島の原子爆弾、さらにソ連の参戦となり、これ以上の戦争継続は不可能と思われます。ポッダム宣言を受諾して、戦争を終結させるしかありません。ついては各位の意見をうけたまわりたい」
冒頭、鈴木総理が発言すると、戦争をつづけるかどうかの根本問題を論じる会議と思って出席していた阿南陸相や梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長は、意外な総理の発言に絶句していた。
沈黙を破ったのは米内海相だった。
「重大な問題だから、どしどし発言したらどうか? ポッダム宣言受諾は無条件か、条件をつけるのか?」
「条件は必要最小限です。国体護持、それだけです」
と東郷外相が応え、米内が賛成した。
「いや、ほかに条件がある。占領は小範囲、小兵力、短期間でなければならない。在外将兵は所在地から自発的に撤兵する。戦争犯罪人の処罰は日本側でおこなう。以上の3条件も欠かせない」
本来ならば、ポッダム宣言受諾の可否を論じて激論となるところだったが、鈴木の巧みなリードで、いきなり条件の討議になってしまい、意図的だったかもしれないが、阿南も条件の討議に参加する形になった。
「多くの条件をつければ連合国側は承諾しない。国体の護持を条件に受諾すると返事すればよい」と東郷が提案すると、米内も「敗北した側が、占領方法や撤兵方法に条件をつけるのはおかしい」とつけくわえた。
「なに? 敗北とはなんだ。まだ敗北と決定したわけではない。けしからん。訂正せよ」
 激昂した阿南が怒号を発した。
「私は敗北と認識している」
「戦いに負けたところもあるが、総体的な戦争の敗北が決定したわけではない」
果てしない議論がつづいているとき、長崎に二発目の原爆が投下されたと報告された。

 

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 (21)聖断を仰いで
 
 午後2時半、閣議が開かれた。午前中の最高戦争指導会議は、国体護持の1条件派(首相、外相、海相)と国体護持の上に自主撤兵、自主的な戦争裁判、占領制限の3条件を足した4条件派(陸相、参謀総長、軍令部総長)が対立したまま閣議のために休憩、首相は両総長に待機を要請していた。
 閣議でも、1条件受諾派と4条件派が対立して不毛の議論がつづいていた。業をにやした太田耕造文相が「対ソ交渉の失敗と閣内の意見不一致」を理由に、内閣総辞職を提案した。その瞬間、閣僚の視線は阿南陸相に集まった。陸相が同意すれば、文字通り閣内不統一で内閣総辞職となり、ポッダム宣言受諾も霧散するからである。
 阿南は動かなかった。口を結んだまま座っていた。
 「総辞職する意思はありません。この内閣で決着をつけるべく最重要課題を論議しているときに、総辞職なんか考えていません」
 鈴木総理は太田耕造文相をにらみつけていた。太田は、独ソ不可侵条約の締結で総辞職した平沼内閣の書記官長だった。
 鈴木総理の迫力の効果か、これを契機に閣議の大勢は1条件受諾に傾いた。
 休憩1時間を除いて延々7時間に及んだ閣議は、再び休憩にはいった。再度最高戦争指導会議で討議したあと、再開された閣議で、最高戦争指導会議を御前会議として決着をつける、と総理が説明した。
 御前会議を開くには、首相と参謀総長、軍令部総長の花押(図案化されたサイン)を必要とする。「急な場合に、いちいち両総長を追いかけまわして花押をいただくのも大変ですし、緊急の間にあわないことがあってもいけません。実際の御前会議には、事前に連絡します」と迫水書記官長が、午前中に梅津、豊田両総長の花押をもらっていた。鈴木総理は、深夜の御前会議をあらかじめ考えていたのかもしれない。もしかすると、米内か、迫水の献策かもしれぬが「政治をしらぬ一介の武弁」と、一旦は大命を拝辞した鈴木貫太郎の秘策でもあった。
 さらに御前会議は、閣議、最高戦争指導会議で決定された事項のみを上奏、裁可をいただくのが慣わしであった。御前会議と聞いて、大本営の参謀たちは、結論のでていない議題を、どう説明して裁可をいただくのか不審をいだいた。
 参謀次長川辺虎四郎中将らは、全国に戒厳令を布き、内閣を倒して軍事政権を樹立して本土決戦に持ち込む研究をしていたが、議題のはっきりしない御前会議が開催され、しかも総長の花押など手続きがおわっていると聞いておどろきき、警戒感を強めていた。
 
 午後11時50分、ポッダム宣言受諾をめぐる御前会議が、御文庫の会議室で開かれた。出席者は、最高戦争指導会議の構成員6名と枢密院議長平沼騏一郎、陸海両軍の軍務局長に内閣書記官長が陪席した。
 まず書記官長が宣言の全文を朗読し、ついで外務大臣が立って従来の経過を説明し、いまこそ戦争終結の絶好の機会であり、そのためには天皇のご地位すなわち国体に変化のないことを前提に、ポッダム宣言を無条件に受諾することが最善の方法であるとはっきりした口調で述べた。これに対して、陸軍大臣は「私は、外務大臣の意見には反対である」と前置きして、わが戦力の現状を語り、敵の本土襲来を待って、これに徹底的打撃を与えれば、その時こそ自ら平和への道も有利に開けると、あくまで抗戦すべきであると述べた。そして、もし前述の3条件を付しての受諾ならば賛成であると結んだ。これに対して海相は外務大臣の意見とまったくおなじであると述べ、平沼枢密院議長も種々実情を確認して、外相の意見に同意すると表明した。
 御前会議での首相の役目は、みんなの意見を纏めた議題を天皇に上奏し、天皇はその結論に不満があっても、全員の意見が纏まっていれば黙って裁可するのが御前会議の通例である。意見の異なる議題は御前会議に提案されることはなかったのだ。
 提案された議題は、担務者が説明し、首相は単に取り次ぐだけの世話役でしかない。陛下の御前で意見の異なる構成員が議論を戦わせるのも異例だし、世話役の総理がどちらかに加担して自分の意見を主張することもかってない。
 御前会議の会議室の広さは15坪(約50平米)、天皇をはじめ構成員、陪席者がそれぞれ座り、東郷、米内、平沼の1条件受諾案と、阿南、梅津、豊田の主張する4条件案が論議された。換気装置はあったが、議論の内容からしても息がつまる。さらに1人の異論でも裁可を仰げない御前会議は、いつ終るのか誰も予断できなかった。
 日付が変わり8月10日の午前2時を過ぎた。総理はどう決着をつけるのか。
 「議を尽くすことすでに数時間、なお論議はかくの如き有様でなお決せず、しかも事態は瞬刻も遷延し得ない状態となっております。かくなる上は誠にもって畏れ多い極みではありますが、これより私が御前に出て、思召をお伺いし、聖慮をもって本会議の決定と致したいと存じます」
 立ち上がった総理は、司会者としてこう述べ、天皇の前に進み聖慮を請うた。
 頷いた天皇は、自席にもどるよう鈴木を促し、
 「もう意見はでつくしたか」
 と、恐懼する一同を見渡した。
 「それならば私の意見をいおう。私は外務大臣の意見に同意である」
 全員が、それぞれの思いを胸に、感慨に浸った。
 「おのおのの意見はそれぞれもっとものことと思う。だが自分が外務大臣の意見に賛成する。理由は……」と現下の情勢と天皇自身の胸のうちをあかした。
 「大東亜戦争の予定と実際には、大きな相違がある。本土決戦といっても、九十九里の防備は、侍従武官の視察と参謀総長の話に非常な差があり、予定の10分の1も完成していない。装備はまったくといっていいほど揃っていない。こんな状況で本土決戦にはいれば、日本国民の多くは死に至り、国を後世に伝えられるのか。国民を思い、軍隊を思い、戦死者や遺族をしのべば心が痛むが、忍びがたきを忍び、万世のために平和の道を開きたい。自分一身のことや皇室のことなど心配しなくてよい」
 天皇の心の叫びに、全員が嗚咽した。天皇の目も潤んでいた。
 8月10日午前3時、天皇が直接聖断を下した御前会議は終了した。
 外に出ると、輝かしい月が中天にかかっていた。
 官邸に向かおうと車寄せまで来た鈴木総理に、陸軍軍務局長の吉積正雄中将が立ちふさがり「総理、約束が違うではないですか」と、噛み付くように詰め寄った。
 総理はにこにこ笑うだけで、なにも答えなかった。
 「吉積、もういい」
 阿南陸相が、総理をかばうように間に割ってはいり、軍務局長の肩を叩いた。吉積の憤懣は、事前に両総長の花押を抑えていた鈴木の策への怒りだったようだ。
 総理官邸で中断していた閣議を再開し、御前会議の決定を採択した。その時、阿南陸相は、「敵が天皇の大権をはっきり認めないときは、戦争を継続するのか」と正し、「もちろん」と総理は応じた。米内にも同じ質問をしたが、海相も戦争継続に同意した。
 電文を「七月二十六日付三国共同宣言ニアゲラレタル条件中ニハ天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スル要求ヲ包含シ居ラザルコトノ諒解ノ下ニ日本政府ハ共同宣言ヲ受諾ス」と決定し発信された。閣議終了は午前4時であった。
 79歳の鈴木貫太郎総理は、ソ連の宣戦を知らされた前日の午前5時から、23時間の会議を超人的な体力で乗り切った。会議には列席するだけでなく、次々に策をめぐらし、最後に聖断を仰ぐ計画までを見事に完遂した。
 8月10日午前7時、ポッダム宣言条件付受諾電は中立国スイスとスウェーデンの日本公使に送られ、両公使が分担して米、英、ソ、中の四か国に通告した。
 陸軍省に登庁した阿南陸相は参謀本部と陸軍省の幹部を集め、御前会議の決定を説明、「申し訳ないが聖断だから仕方ない。現段階では、先方からの返答があるまでは、和戦両様の構えでいくしかない。大切なのは陸軍が一致して行動することだ。勝手な行動をしようと思う者は、私を切ってからやれ」と、一致団結を訴えた。陸軍の徹底抗戦の空気に配慮してか、国体護持についての回答次第で、本土決戦を遂行することにも含みを残した。
 この訓示に陸軍省や参謀本部の大尉、少佐、中佐級の青年将校たちは不満だった。
 「大臣は進むも退くも阿南についてこいといわれた。それでは大臣は退くことも考えておられるのか」と1人の課員が質問した。徹底抗戦が陸軍の大方針だったはずだ。
 阿南の義弟(阿南夫人弟)で阿南の政治幕僚でもあった竹下正彦中佐(陸軍省軍務局内政班長)は、「天皇がそう申されても、明治天皇やその他皇祖皇宗の御考えと一致しているとは思われない。今上陛下の御意図に反することは避けたいが、たとえ一時そういう結果になっても皇祖皇宗のお志に沿って行動することが大きな意味で本当の忠節である」と意見を具申した。竹下と同期で大本営陸軍参謀の稲葉正夫中佐も同席していた。
 午後、首相官邸に重臣が招かれ、鈴木総理と東郷外相が御前会議の内容を説明した。首相経験者の岡田啓介、小磯国昭、東條英機、近衛文麿、平沼騏一郎、広田弘毅の六名と質疑応答がおこなわれた。岡田、近衛、平沼、広田は天皇制が確保されるならば異議はないと賛成したが、小磯と東條は、降伏に反対した。
 「本日の集まりは会議ではなく、決定通告である」と小磯が抗議したが、東郷外相が、「天皇の決断によるポッダム宣言受諾だ」と説明して、二人とも反対意見を撤回した。

 

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 (22)もう一度、ご聖断を 
 
 8月11日、「一億、困苦を克服、国体を護持せん 戦局は最悪の状態」との下村情報局総裁の談話と「死中活あるを信ず 陸相、全軍将兵に訓示」の記事が、各新聞に掲載された。総裁談は「新型爆弾の攻撃とソ連の侵攻、戦局は最悪の状態となったが、政府は国体を護持し民族の名誉を保持せんために最善の努力をなしつつあり、一億国民も国体護持のために困難を克服することを期待する」という内容で、最悪の状態の中で国体護持を最終目的とする含意は、ポッダム宣言受諾の前触れととれる。
 一方、陸相訓示は、「全軍将兵に告ぐ」にはじまり、「断乎神州護持の聖戦を戦い抜き、たとえ草をはみ土をかじり野に伏するとも断じて戦うところ死中自ら活あるを信ず。『我一人生きてありせば』の楠公救国の精神を共に全国将兵一人も余さず楠公精神を具現して驕敵撃滅に邁進すべし」というものだった。
 情報局総裁談話は、ポッダム宣言受諾確定を予期しての国民への覚悟を促すもので、情報局で素案を作り、陸軍、海軍の三者で慎重に協議したが、陸軍は国民には秘匿、海軍は周知を主張、不明瞭な結果になってしまった。ところが陸相訓示は、「断乎神州護持の聖戦を戦い抜け」と本土決戦を呼びかけるもので、掲載を命じられた新聞社からの問い合わせに情報局は初めて『陸相訓示』を知って調査に乗り出した、陸相、次官ら幹部は初耳といい、吉本軍務課長が検討中の文案は見せられたが、新聞掲載命令には関与していないという。迫水書記官長は陸相訓示の掲載を中止せよと要請したが、訓示を捏造された阿南陸相が、掲載を見逃してくれと態度を変えた。陸軍省内でも、天皇の御心に反する行為として、吉積軍務局長が各社に、掲載中止を求めたが間に合わなかった。陸軍内部は混乱を極めていた。陸相訓示も総裁談話も、同盟通信の判断で海外発信は見送られた。
 その間、竹下中佐と稲葉中佐は、陸軍省の地下防空壕で、終戦のご聖断に不満を持つ南清志中佐、竹下と同じ軍務課内政班の椎崎二郎中佐、畑中健二少佐らとともに自分たちの主張を通すためには何をしたらいいのかを話し合った。結論は、「和平派を斥け、天皇に御決心を翻して頂く為にクーデターを決行すべし」だった。
 
 8月12日の午前0時半を過ぎた頃、サンフランシスコ放送が日本への回答を報じ始めた。外務省では、日本にとっては満足できる内容と判断した。天皇制の保証はないが、「最終的な日本政府の形態は、日本国民の意思によって決定される……」となっているから、天皇の身分も保証されたも同然と判定したのである。
 陸軍もこの放送を傍受して、翻訳していた。その結果、午前8時すぎに、梅津参謀総長と豊田軍令総長が揃って参内、統師部は連合国の回答には絶対反対であると奏上した。回答文には「天皇および日本国政府の国家統治の権限は連合国最高司令官に隷属するものとす」とあり、これを受諾すれば国体の護持は不可能だ、と受諾に反対するというのだ。
 首相の意見が受諾であることを確認した外相が、参内したのは午前10時半であった。
 「回答文に満足している。鈴木総理にも自分の意思を伝え、すぐ所定の手続きをとるがいい」と、天皇も受諾に同意した。
 午後3時からの閣議で、回答文が討議された。
 東郷外相の即時受諾提案に、阿南陸相が真っ向から反対した。国体護持について再照会の声も上がった。さらに両総長が受諾反対の理由とした「天皇および日本国政府の国家統治の権限は連合国最高司令官に隷属する」の「隷属」は、「subject to」を翻訳したものだが、外務省の翻訳は「制限下に置かれる」と訳されていた。これも阿南陸相の血圧を高める原因の一つになっていた。しかも、議論の対象となっているのが正式の回答文ではなく、傍受したアメリカのラジオ放送を文章化したもので、議論をすすめるもどかしさがあった。外相は、正式回答がくるまでの休憩を提案して閣僚たちの同意を得た。
 8月13日朝、連合軍の正式回答がスイス政府を通じて届けられた。
 阿南陸相が拝謁して、受諾不可を上奏したが、天皇は手をあげて制止した。
 「アナン、もうよい。私のことを心配してくれるのは嬉しいが、もうよい。私には確信がある」
 諭すような口調だった。阿南は、侍従武官の頃、天皇からアナンと呼ばれていたことを、懐かしく思いだしていた。
 最高戦争指導会議がひらかれた。回答をのんで降伏するか。国体護持を再照会せよ。死中に活を求めて一戦を交えて少しでも有利な条件で講和を結ぶか。延々五時間におよんだが決着つかず、総理が会議の解散を告げた。
 午後3時、ふたたび閣議がひらかれた。阿南はふたたび強硬論を主張した。
 原子爆弾の再投下もありうる。ソ連軍の満州、樺太への侵攻は予想以上に早い。国体護持のためには、手遅れにならないうちに、戦争を終結させねばならぬ。総理は、説得するように諄諄と陸相を説いたが、阿南は頑なに拒否した。
 「本日の閣議の様子はありのままを申し上げ、明日にも重ねて聖断を仰ぐ所存です」
 総理は、こう述べて閣議の終了を告げた。午後六時半であった。
 阿南は、部屋にもどった総理を追いかけ
 「総理、御前会議をひらくのを、もう2日だけ待っていただくわけにはいきますまいか」
 懇願の口調で申しでた。
 「時期は今です。この機会をはずしてはなりません。どうぞあしからず」
 阿南は、なにかいいたげなそぶりを見せたが、諦めた風情で、丁寧に敬礼をして、無礼をわびながら部屋をでていった。
 「総理、待てるなら待ってあげたらどうですか」
 同席していた小林尭太元軍医大尉が総理に勧めた。
 「それはいかん。今日をはずしたら、ソ連が満州、朝鮮、樺太だけでなく、北海道にもきて、ドイツ同様分割されるかもしれぬ。アメリカが相手側の主導権をとっているうちに始末をつけねばならんのです」
 
 陸相官邸にもどった阿南は、兵力動員計画を見せられた。
 (1) 使用兵力——東部軍および近衛師団 
 (2) 使用方針——宮城と和平派要人を遮断す。その他、木戸、鈴木、東郷、米内の和平派要人は兵力を以て隔離する。次いで戒厳に移る。
 (3) 目的——国体護持に関する我が方条件に確証を取り付けるまでは降伏せず、交渉を継続する。
 (4) 方法——陸軍大臣の行う警備上の応急局地出兵権を以て発動す。
 (5) 大臣、総長、東部軍司令官、近衛師団長四者の意見一致を実施条件とする。
 このクーデター計画は陸相の命令で発動する、となっていたが、阿南は何度も読み直した。阿南は支持するとも、しないともいわなかったが、参謀総長と相談すると洩らした。
 
 新聞記者の問い合わせでわかったのだが、「皇軍は新たに勅命を拝し、米、英、ソ、支4か国連合国に対し新たなる作戦行動を開始したり」との新しい大本営発表があり、午後4時に放送し、号外を発行せよ、といわれたらしい。ポッダム宣言をいかにして受諾するかを腐心しているとき、こんな発表をされたら、血を吐く思いで積み上げてきた和平交渉が、一挙に瓦解する。陸軍大臣、参謀総長ともまったく知らず、迫水書記官長が公表指示の数分前に取り消すことができた。陸軍情報部の大佐が、勝手に新聞社に渡したものとわかったが、陸軍の中堅将校の動きから目が離せなくなった。さらに、外地にあった部隊からも「徹底抗戦」「本土決戦」を主張する詰問的な電報も届き、陸軍は断末魔の苦しみを味わっていた。翌日、急遽開催される御前会議の前に、阿南は梅津と意見を交換して陸軍のクーデターには反対との結論をだした。
 
 8月14日が明けると。昨夜から今朝にかけて、日本の降伏表明とそれに対する連合軍の回答を記述したビラを米軍機が撒いていった。国民の間にこの事実が知らされると、どんな混乱が引き起こされるかわからない。
 今日こそ決着をつけると決心した鈴木総理は天皇に拝謁、天皇が召集する御前会議の開催をお願いした。事前の陸海軍両総長の花押をふたたびもらうのは不可能だし、本来ならば事前に討議して結論を出して置かなければならない議題も、ここ数日来の意見の差が埋まらず、天皇のお召しによる御前会議にしたのだ。最高戦争指導会議の構成員全員、閣僚全員、それに平沼枢密院議長のほか池田純久総合計画局長官、吉積陸軍軍務局長、保科善四郎海軍軍務局長、23名に天皇の命令が伝えられた。急なことなので平服で差し支えなし、午前10時半に吹上御苑に集合せよと通知されていた。枢密院議長は、国際条約の締結について天皇の諮問に応える最高機関枢密院を代表して参加したのだが、ポッダム宣言受諾については国体護持の確認について、まだ強硬意見を主張していた。
 御前会議を開く前に天皇は、永野修身、杉山元、畑俊六の3元帥を召致して、意見を求めた。海軍の永野は、「軍の士気は旺盛で余力もあり、上陸する米軍を迎え撃ち、断固撃砕すべきである」と本土決戦を主張し、杉山第1総軍総司令官も同意した。広島から駆けつけた畑第2総軍総司令官は、「ポッダム宣言を受諾するにしても、10個師団を親衛隊に残すべきである」と答えた。戦闘部隊の最高位に序せられた陸海の3元帥が、自軍の戦力をどのように把握していたのか、改めて訊いてみたい心境である。そもそも元帥の称号は、最初は部隊指揮官の要職から退いた大将に与えられる尊称だったらしいが、方面軍を指揮する軍、総軍など組織が複層化されるに従い元帥の安売りとなったらしい。元帥だからといってより多くの情報が得られることもなく、より的確な判断力が生まれるものでもない。天皇は、戦争終結を決意し、軍の絶対服従を求めた。
 天皇の出御ではじめられた御前会議では、総理が昨日の最高戦争指導会議の経緯を説明し、意見が一致できず、反対意見を聴取の上、御聖断を下さるようお願いした。
 阿南陸相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長がそれぞれ、現在の回答では国体護持が明記されておらず、再確認を求めても満足な回答が得られるとは思われず、このまま戦争を継続して死中に活を求めたい、文字通り声涙下る存念を言上した。
 天皇は、ほかに意見をいう者はいないか、と全員を見渡して総理に視線を止めた。
 宮中地下壕の御文庫に静寂が流れた。
 「みなの者に意見がなければ自分の意見をいおう」
 ゆっくり立ち上がった天皇は、心の内を口にした。
 「私の意見は、先日申したのと変わりはない。先方の回答もあれで満足してよいと思う」
 会場にはすすり泣きが起り、天皇も目を曇らせ、これ以上戦争をつづけるのは無理だ、と説得するかのようだった。全員が涙を流し、号泣するものもいた。
 天皇の話が終ると、総理が立ち上がり、最敬礼をして自分たちの非力を詫び、祖国再建を誓い、天皇の指導に感謝のことばを述べた。天皇が退席しようとしたとき、阿南は思わず駆け寄り、腕にすがった。慟哭にことばがでなかった。
 「アナン、お前の気持はよくわかっている。国体は守れるよ。私には確信がある」
 そういって天皇は姿を消した。

 

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 (23)玉音放送は録音で
 
 閣僚たちは車に分乗して総理官邸にもどって鯨肉とパンの昼食をとった。鈴木首相は、食欲旺盛にパンをぱくついたが、意気消沈して食べようとしない閣僚が多かった。
 阿南陸相は訪ねてきた義弟の竹下少佐と会っていた。
 「辞職して終戦の詔書の副署を拒否したらどうですか。詔書は無効になり内閣もつぶれます。ポッダム宣言受諾もとりやめです」
 御前会議でポッダム宣言受諾が決定されたと聞かされた竹下がこういった。
 「陛下に申し訳ない。軍人たるもの聖断にしたがうしかない」
 阿南が答えると、竹下は舌打ちしながら帰っていった。
 畑中健二少佐は、近衛師団が宮城を占拠し東部軍兵力を都内要所に配置、クーデターを実行して天皇に翻意を迫る「兵力使用第2案」を竹下中佐とともに練っていた。この案は陸相、参謀総長、東部軍司令官、近衛師団長の意見一致を前提とするとしていたが、竹下は阿南の「聖断にしたがう」の一言で既に挫折していた。それでも畑中少佐は、後に連合軍司令部となる日比谷の第一生命会館にあった東部軍司令部に、司令官田中静壱中将を訪ねたが、軍司令官に話を聴いてもらえず、追い返されていた。
 迫水書記官長は、天皇が朗読する予定の詔勅案の作成をはじめた。詔勅案は、最初の聖断が下った10日から素案作成がはじめられ、すでに東洋思想研究家の安岡正篤、漢学者川田瑞穂も目をとおしており、さらに今日の御前会議での天皇の言葉をくわえるつもりだった。「為万世開」(未来に平和を開くため)とか「五内為裂」(五臓を裂く悲しみ)の文言はすでにはいっていた。
 情報局総裁の下村宏は、日本放送協会会長から緒方竹虎の後任として入閣しており、つい先日の8月8日、拝謁して情報局の現状を説明したばかりだった。メディア論や時局に対する民心の動向など、天皇は下村の話に興味を持って質問を重ね、1時間の拝謁予定が2時間に達し、「いろいろ参考になった」と喜ばれた。このとき、下村はラジオで直接国民に語りかける効用を説いたばかりだった。
 それを記憶していた天皇は、御前会議で、「自分が国民に呼びかけることがよければ、いつでもマイクの前に立つ」と発言したのだ。
 
 食事が終った閣僚たちは、一旦各省庁にもどり、御前会議の結果を報告することにした。
 阿南が陸軍省の大臣室にはいると、中、少佐クラスの将校20名ほどが集まってきた。
 「陛下は国体護持に自信があるから、無条件にポッダム宣言を受諾するご聖断を下された。我々軍人は、大御心にしたがうしかない」
 将校たちは不満そうだった。つい先日、陸軍の行動一致をよびかけ、さらに「断乎神州護持の聖戦を戦い抜き、たとえ草をはみ土をかじり野に伏するとも、断じて戦うところ死中自ら活あるを信ず」の陸相訓示が布告されているではないか。
 「しかし、大御心には背けない。不満に思うものは、まず阿南を切れ」
 と言い切る陸相に、将校たちは抗弁できず歯を食いしばって涙を流すだけだった。
 阿南が総理官邸にもどり「詔勅案」の審議が再開された。だが、安岡正篤の来訪を求め補正中との迫水の報告で、詔勅案の文章よりも公表の時期、方法が論じられた。何人かの閣僚が、天皇ご自身にマイクの前に立っていただくのは恐懼のいたり、と反対意見を述べたが、天皇自らの発意で玉音放送が決まっていたので、実施が決定されその実行は下村総裁に一任された。
 内閣情報局はただちに宮内省、日本放送協会(NHK)との打ち合わせにはいった。
 連絡を受けた放送協会の幹部たちが、情報局に出頭すると「戦争終結の玉音放送を検討しているが、直接陛下の放送とするか、事前の録音とするかは審議中である。至急準備を整えてくれ」と要請された。幹部たちは思わず息を呑んだ。おどろきのあまり声がでなかった。ポッダム宣言受諾は、ある程度予想していたが、陛下自らがマイクの前に立って放送されるとは、予測もできぬ衝撃だったのだ。
 その後、玉音放送は録音と決まり、放送協会は録音班を午後3時までに宮内省に派遣せよと要請された。宮内省も、筧素彦庶務課長を窓口にして、宮内省二階の天皇執務室を録音室に、ドアを半開にした次の間の謁見室に録音機器を設置してマイクのコードをつなぐことにして、準備作業を開始した。放送協会では、矢部健次郎国内局長を総監督に、録音責任者に近藤泰吉現業部副部長、長友俊一、春名静人、村上清吾、玉虫一雄の4技師をスタッフに選抜した。
 すでに宮中には録音開始は午後6時と連絡されていた。放送時間は、軍の一部に不穏な動きもあるとの情報があり、そんな動きを封殺するためには、明るくなった明朝にしたらいい。いや朝は出勤する人も多く、落ちついて聞ける時間ではない。論議の結果、正午がいいということで、8月15日正午の放送と決まった。そのための録音は、今夜中にしなければならない。新聞にはいつ発表するか。玉音放送の後とすれば、16日の朝刊になる。1日遅れの新聞では具合がわるい。それなら新聞の発行も、8月15日正午以降にすればいいじゃないか、と論じられていたが、喫緊の課題は詔勅文の検討であった。
 
 参謀本部軍事課長荒尾興功大佐は、昨日まで、阿南陸相を中心として一糸乱れぬ統一行動で本土決戦を全軍一体となって戦い、少しでも有利な条件を引きだそうと画策していたが、いまや聖断が下りその政略は放棄せざるを得ないと判断した。陸軍次官若松只一中将に聖断以後の陸軍の統一規範を作るべきだと進言した。陸軍の最後が内戦で終ってはいけないと思ったのだ。聖断に添う陸軍の行動を決めねばならぬ。それには陸軍長老の意見を聞いておくべきだと判断した。第1総軍司令官杉山元元帥、元帥会議のため上京してきた第2総軍畑俊六元帥、梅津美治郎参謀総長、教育総監土肥原賢二大将に阿南陸相が陸軍大臣応接室に集まった。ほかに参謀次長、次官、本部長、部局長、高級副官が集められ、
 「陸軍の方針 八月十四日十四時四十分  大臣応接室
                  皇軍は飽迄御聖断に従い行動す」
 「これは参謀次長川辺閣下の発議によって本職が作成したものであります。どうぞ御署名をお願いいたします」 若松次官が書類を3長官と2元帥が囲むテーブルの上においた。
 最初に阿南陸相が筆をとり、無言のまま署名した。梅津、土肥原、杉山、畑とつづいて署名すると「航空部隊の行動も規制することが必要だ」と梅津が発言、会議終了後、若松は航空総軍司令官川辺正三大将の署名をもらった。
 阿南陸相はさらに「聖断すでにくだる。このうえは承紹必謹、全軍一兵にいたるまで軽挙妄動を許さぬ」と告示を発し、陸軍省内の課員以上を集めて「3長官、元帥会合で、皇軍は大御心のままに動くことを決めた。今後皇国の苦難は加重するであろうが、諸官は聖断を護り、占領された後も皇国護持のため奮闘されたい」と大臣訓示をした。
 
 首相官邸には、陸軍から「天皇制反対の宣言受諾に不利を指摘する外国のニュースを文書にして送ってきたり、憲兵の将官が「降伏した場合は、軍の反乱は必至です」と総理に直接告げにきたりした。さらに迫水長官は、「皇軍は今や新たに勅命を拝し、米、英、ソ、支連合軍に対し全面的作戦を開始せり」と各新聞社に配布された大本営発表文をみせられた。阿南も顔色を変えた。戦争継続派の悪あがきである。迫水書記官長は各新聞社に偽の大本営発表であると掲載差し止めを連絡して事なきを得た。
 詔勅原稿が届かぬことに焦燥したのか、天皇は、陸海軍省に出向いて、徹底抗戦を叫ぶ将兵を直接説得してもいいと洩らした。天皇の意向は、そのまま陸海相に伝えられたが、両相とも、天皇の意を兵に伝え服従させるのは自分たちの使命であると拝辞した。
 午後4時、阿南陸相の復帰を待って閣議が再開された。いよいよ詔勅の検討である。ところが閣議では、異論が多かった。「戦局日に非にして」が「戦局好転せず」と変えられ、さらに「戦局必ずしも好転せず」に変更された。これは阿南陸相の提案によるもので、「まだ敗北していない」の持論が蒸し返され空虚な時間が流れていく。結局、削除23か所10字、加筆18か所58字、新しく書き込まれた4か所18字で閣議決定とした。
 可決された詔勅はカーボン複写され閣僚全員が署名した一部が宮内省に持ちこまれたが、議論の激しさを物語るように、加筆、訂正の文字があった。この玉音放送は、まだなにも知らない国民に戦争の終結を知らせるのだから、一刻も早い方がいい。
  
 「保証されていない国体護持に漫然と期待するより、逆賊として汚名をうけても、国民として最善の道を進みたいと思います。私は、まず宮城内に陣取って外部との連絡を断ち、時局収拾の最後の努力をこころみて天皇陛下をお助けすべきと思います。近衛師団との連絡もつき、必要な準備は整っています。少数の決起があれば、全軍が立ち上がります。中佐どの、ぜひこの計画に加わってください」
 と、畑中少佐は、同僚で一期先輩の井田正孝中佐にクーデター参加を呼びかけていた。
 井田中佐は、阿南陸相が聖断に従うと決断したとき、クーデター成功の可能性はなくなったと判断していたが、畑中少佐のクーデターへの執念と行動力には脱帽していた。
 畑中少佐は、近衛師団には連絡がついているといっていた。通常、宮城内の警備には、近衛師団の第1連隊と第2連隊が交互に1個大隊を派遣していたが、この日は第2連隊の担当で、既に第1大隊が警備についていた。ところが特命を受けた第2連隊長芳賀豊二郎大佐も第3大隊を率いて警護にあたるという。しかも軍旗を奉じて任務につくというのだ。空襲警報も発令されておらず、異常事態でもないのに連隊長の出動は異例のことである。
 
 午後8時半、天皇の允裁を受け、終戦の詔勅は完成した。(允は許すの意)
 天皇が読み易いように清書されたが、予定より大幅に遅れた焦りに脱落部分をだしてしまった。これ以上時間をかける訳にはいかず、小さな文字で9文字を加筆挿入した。
 閣議が再開され、天皇の允裁を受けた詔勅に閣僚の副署が終るのを待って、下村総裁は玉音放送録音の立ち合いに宮内省へ向かった。
 一方、閣僚の副署を終えた詔勅は印刷局に送付され官報号外が公布され、終戦の国内手続きは完結する。外務省では、スイス公使館とスウェーデン公使館を経由して四カ国へ最終受諾回答として送信される手はずが整っていた。スイスの加瀬俊一公使とスウェーデンの岡本季正公使が首を長くして公電を待っていた。

 午後9時、ラジオでは、明15日正午に重大放送がある、との告知放送が流れた。
 
 午後11時20分ごろ、仮スタジオとなった執務室に陸軍大元帥の制服を着た天皇が出御、マイクの前に立った。石渡荘太郎宮内大臣と藤田尚徳侍従長がデスクの前に並び、下山情報局総裁が天皇の斜め前に立ち、ふかぶかと頭をさげて手を差し出して天皇発声の合図を送った。天皇が読みはじめた。全文815字の短い文章である。全文読んでも10分はかからない。一度やって天皇の希望で再度録音した。一度に2枚ずつ録音したので2組で4枚の録音盤ができた。
 もう1度やってもいいと天皇はいったが、下村総裁は辞退した。天皇の疲労に配慮したからだという。天皇の疲労が甚だしく、顔色も限界に達すると判断されたらしい。
 天皇は、11時50分ごろ入御(天皇居住区へ退出)された。
 侍従たちも、情報局総裁も、初めて聞いた天皇の肉声に恐懼しながら、あらためて敗戦の現実を実感して涙した。業務を完遂した充実感はなく、悲哀の思いが残った。
 録音が終って、8月15日午前零時、東部軍管区に空襲警報が発令された。録音盤を試聴しながら、録音技師の意見を入れて最初の録音盤を使用することにした。問題は、放送予定の正午まで録音盤の保管をどうするかであった。

 

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 (24)反乱
 
 貴重な録音盤は、天皇の分身と考えられた。それを録音機材と一緒に運ぶのは畏れ多く、厳しい灯火管制の暗闇の中を減光した車で運ぶのも万一の事故が危惧された。さらに陸軍に不穏な動きがあるとも噂された。録音盤を局内に持ち帰った後、どこに保管すればいいのか。一番安全な場所は宮内省と判断して保管を依頼すると、徳川義寛侍従があっさり承知した。徳川侍従は、2つの袋にいれた録音盤を、1階の皇后官職事務官室の軽金庫に納め、鍵をかけて書類をその前に積んで人目につかぬようカモフラージュした。
 下村総裁は、総理官邸に電話したが総理は帰宅しており、迫水書記官長に録音作業の終了を報告した。重任をはたした下村総裁と放送局のスタッフは、空襲警報発令中に帰るのは危険と引き止められ、完全に遮光されて明るい電灯がともる室内で雑談をしていた。
 一時半、空襲警報は解除されていなかったが、敵機襲来の気配もなく、下村総裁は官邸にもどることにした。放送局のスタッフも立ちあがった。足元をぼんやり照らす懐中電灯をたよりに宮内省表玄関まで歩き、放送局と情報局の車に分乗して坂下門に向かった。坂下門には、数人の着剣した近衛兵がいて、停車を命じた。何のための停車命令かとたずねても、あちこちに連絡するだけで埒があかない。そのうちに「下村国務大臣はいるか」と訊ねられ、同乗していた川本信正秘書官が肯定すると、車のサイドステップに乗った兵隊が、運転手に逆もどりを命じた。暗闇の中、宮城内の地理を知らない一行は、どこへ連れていかれているのかわからない。不安のうちに二重橋近くの衛兵詰所の狭い部屋に連れこまれた。伍長が20人ほどの武装兵を指揮しており、将校はいなかった。まさに非常事態の到来である。後を追うように、放送協会会長大橋八郎以下放送局の幹部が拉致されてきた。長友録音技師らは、筧課長の案内で歩いて坂下門までくると、近衛兵に阻止された。怒った筧課長は、近衛兵を問い詰め、取り囲んだ近衛兵は銃剣を突きつけて威嚇した。おどろいた長友技師は、「私たちは急ぐ用事もないし、いけといわれた所にいきますから」と筧課長を宥め、兵隊に誘導されて歩きだした。それを見送った筧課長は、兵の制止を振り切って宮内省の庁舎へもどっていった。
 長友技師たちが連れていかれた小屋のドアを開けると、つい先ほどまで一緒にいた下村総裁、大橋会長らが顔を揃えていた。さらに筧課長の注進で、救援に駆けつけた宮内省の加藤進総務局長、中川省吾警務局長の2人も捕虜になってしまった、
 下村総裁以下、総勢18人が、10畳ほどの部屋に監禁されたのだ。室内には兵営で使われる長テーブルに長椅子2脚、硬いベッドが1つ、窓は暗幕で遮蔽され、蒸し暑くて息苦しい。椅子、ベッドすべてを使っても、全員は座れない。
 兵隊が紙とエンピツを持ってきて「位階勲等氏名を書け、私語は禁止する」と告げた。河本秘書官が情報局関係者の氏名を書き、放送局関係者、警護員などが名前を書いた。
 午前2時ごろ、放送協会矢部局長が、将校10人ほどが待機する別室に呼び出され、録音盤について訊ねられ、宮内省の侍従に預けたが名前は知らないと答えた。尋問した将校は、録音盤の捜索隊を案内せよと命じ、隊長以下40名ほどの小部隊と一緒に真っ暗な宮内省へ向かった。隊長は録音室周辺を探すというので、手さぐりで2階につれていき録音したときの状況を説明した。兵隊たちは周囲の部屋を捜索したが、手がかりはまったくなく、諦めて監禁場所にもどった。
 宮内省を捜索していた近衛兵は、録音盤は発見できなかったが、電話線をかたっぱしから切断し、開かぬドアを銃床で叩き破って室内を捜索した。侍従たちは、石渡荘太郎宮内大臣を地下の金庫室に避難させた。3階の女官物置の奥から階段で通じる不思議な金庫室だった。銃剣をふりまわして部屋から部屋を探しまわる反乱兵と連絡を取り合う職員たちが通路でぶつかっていた。兵隊の命令に従わなかった徳川侍従が撲られた。
 
 東部軍司令部に参謀長高島辰彦少将をたずねて、近衛師団参謀長水谷一生大佐と井田中佐が現れ、師団長を殺して行動を起こしたと告白、東部軍に近衛師団の追認命令を要請した。水谷大佐は極度の疲労に貧血をおこして倒れた。井田中佐は軍命令をだしてもらえば全陸軍が決起して本土決戦に持ちこめると哀願したが、逆に反乱軍の解散を説得され、肩を落としてもどっていった。反乱軍が師団長を殺害して偽師団命令で連隊を派遣、宮城を制圧したものと東部軍司令部は初めて認識した。
 午前3時過ぎ、東部軍司令部で説得された井田中佐が反乱軍本部に帰ってきた。
 反乱軍の首謀者畑中少佐は、井田中佐に東部軍の状況を説明され、解散せよと諭されたが、「天皇を擁しての篭城は、日本軍が相手であれば無敵である」
 闘志を掻き立てられたらしく、畑中少佐は、こういい放った。
 東部軍では近衛師団の命令受領者を集めて、師団長は殺害され、先刻の師団特命は偽命令であると取り消し、今後の指揮は東部軍司令官がとる、宮城護衛部隊は即刻封鎖を解け、と次々に命令を下した。近衛師団も、編成上は東部軍に属している。
 偽命令で出動した第2連隊長芳賀豊二郎大佐も、阿南陸相も参加し聖断を仰ぐ予定の師団命令を口達で伝えられたが、陸相は現れず、正式命令の文書も届かないのに不審を抱き始めていた。
 近衛第1、第2連隊以外の部隊も命令を傍受、東部軍所属の各部隊は近衛反乱部隊が宮中を占拠している事実を知り、鎮圧に乗り出す準備を開始していた。
 東部軍司令部では、参謀不破博中佐と板垣徹中佐を、師団長を暗殺してニセ命令をだしている敵地……、近衛師団司令部に派遣した。2人が乗った車は、竹橋を封鎖していた近衛第1連隊の哨兵の前を徐行しながら、「東部軍参謀、通る」の一声で突破し、灯火管制で暗闇の司令部にはいった。たどり着いた参謀室の中には黒く覆われた小さな電灯の弱い照明の下に若い参謀がひとり座っていた。その奥の師団長室に進むと、銃剣を持った歩哨に阻止された。座っていた参謀が「お通ししろ」と声をかけ、歩哨は道をあけた。
 師団長室は血の海で、森師団長は部屋着のまま肩を半分切り取られ、胸には拳銃弾を打ちこまれて倒れていた。もうひとり、軍服姿の第2総軍参謀白石通教中佐が、一刀のもとに首を打ち落とされて横たわっていた。目を背けたくなる惨状である。白石参謀は、第2総軍畑俊六元帥に随行して上京、早朝の飛行機で総司令官のお供をして広島に帰る予定で、旧知の森師団長の意見を聞きたくて面談中であった。
 参謀室にいたのは近衛師団参謀石原貞吉少佐で、師団長殺害後、偽師団命令を作成し、畑中少佐が師団長印を捺印して下達したのである。
 
 監禁場所に、ふたたび「放送局の人」と呼びにきたので、こんどは荒川局長がでていくと、内幸町の放送会館へ、20名ほどの小隊に同行せよ、と命じられた。もう夜が明け始めていた。放送会館に到着した反乱軍は、正面玄関と内玄関を銃剣で封鎖した。
 畑中少佐が第12スタジオに現われ、放送員(アナウンサー)館野守男に拳銃をむけ「5時の報道(ニュース)で、自分にしゃべらせてくれ」と顔をゆがめて要求した。館野放送員は、昨夜のうちに〝軍の放送局占拠を警戒せよ〟との情報を伝えられていたので、「現在警戒警報発令中なので東部軍司令部の許可が必要である」と断った。少佐は同じ要求を繰り返し、館野も東部軍の許可が必要と断りつづけた。
 
 近衛師団の叛乱部隊とは別に、降伏を絶対に受けいれることのできない一隊があった。
 東京警備軍横浜警備隊長佐々木武雄大尉は、兵士30名に学生など民間人7名を加えた小部隊を率いて『国民神風隊』を名乗り、トラック2台に軽機関銃2丁を積み、横浜から駆けつけ、首相を殺害し天皇の決心を変えようと首相官邸に向かった。
 午前4時20分、総理官邸前に機関銃を据え佐々木大尉の命令で一斉射撃をはじめた。総理は、官邸にはいなかった。中にいた迫水書記官長は、米軍が上陸して襲撃してきたと思って飛び起き、窓から見ると攻めてきたのは日本兵だったので裏から逃げだした。
 正門を警備していた巡査が、「私もあなた方の考えに同感です。君側の奸は除かねばなりません。首相は丸山町の私邸にいるからそちらにいかれた方がいいですよ」と佐々木大尉に告げた。国民神風隊は放火したものの、撒いた油が重油で簡単に点火できず時間を費やして丸山町の総理私邸に向かった。
 総理官邸の火は、兵隊たちが退去するやただちに消火された。
 丸山町の私邸は、官邸からの通報に総理一行は避難、お手伝いの女性ひとりが留守を護っていたが、国民神風隊は女性を追い出して放火、木造私邸を燃やしてしまった。
 この後、国民神風隊は、西大久保の平沼枢密院議長宅を襲い全焼させた。議長は避難して無事だった。
 
 8月15日、東京の日の出は午前5時半である。その直前の午前5時10分、田中東部軍司令官が、副官と不破博参謀を伴って、近衛師団司令部に車で乗りつけた。暗闇の中では将兵の掌握に不利と主張した参謀長の意見で、黎明を待ち焦がれていた軍司令官が反乱軍鎮圧に乗りだしたのである。営庭には完全軍装の歩兵第1連隊の将兵が、連隊長渡辺多浪大佐の指揮のもとに、宮城内へ出発しようとしていた。部隊はそのまま待機させ、連隊長室で、森師団長が殺害され、偽の命令がだされたのだと連隊長に告げた。連隊長はとなりの部屋にいた師団参謀石原貞吉少佐の偽命令で出動しようとしていたのだ。
 石原参謀は、田中軍司令官の罵倒を浴びて拘束された。田中軍司令官は、渡辺連隊長を通じて宮城を占拠していた芳賀第2連隊長に出迎えを命じて乾門から宮中にはいり、御文庫の天皇陛下のご無事を確認し、近衛兵のクーデターは完全に鎮圧された。
 田中軍司令官は、御文庫で藤田尚徳侍従長に上奏を申し出て
 「田中の出動が遅れたために、陛下にまでご迷惑をおかけして申し訳ない。侍従長からも深くお詫び申し上げてください」
 と、なんどもなんどもお詫びのことばを述べた。
 次いで軍司令官は、副官と三井侍従を連れて宮内省に軟禁状態に置かれていた蓮沼蕃侍従武官長を訪ね、侍従武官長にも詫びながら事件を報告した。蓮沼武官長は御文庫で天皇に拝謁、田中軍司令官のお詫びを報告し、事件の終息を上奏した。
 
 日本放送協会で、自分たちの主張を放送させろと要求していた畑中少佐は、東部軍との電話にでて、放送させてもらいたいと懇願したが拒否され、同行していた4、5名の将校とともに放送会館から姿を消した。兵隊たちも退散した。
 午前7時ごろ、朝日が燦々と輝いていた。
 さらに二重橋近くの衛兵指令所の下村総裁以下の17人は、突然、兵隊がきて「長い間お待たせしました。どうぞこちらへ」と戸外へ案内された。太陽がまぶしかった。
 

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 (25)8月15日・玉音放送は正午
 
 この日の放送は、午前5時半からの予定だったが、叛乱将校の占拠で放送開始は延期され、午前7時20分のニュース放送からはじまった。
 第1声は「謹んでお伝えします。畏くも天皇陛下におかせられましては、本日正午おんみずからご放送あそばされます。国民はひとりのこらず謹んで玉音を拝しますように。ありがたき放送は正午でございます」との告知放送だった。繰り返し繰り返し放送された。
 
 その頃、阿南陸相が三宅坂の陸相官邸で見事に切腹自害した、と立ち会った竹下中佐が陸軍省の若松次官に報告した。阿南陸相は、昨深夜、総理官邸で鈴木総理に、「今まで陸軍を代表して強硬意見を申し上げましたが、真意は国体を護持するためで、他意はございません」と詫び、持参した葉巻を差しだし、鈴木総理に別れを告げた。
 陸相官邸にもどった阿南は、竹下中佐と夜を徹して語らいながら酒を飲んだ上での割腹自決であった。遺書には「一死以て大罪を謝し奉る」とあり、陸相の最後のことばは「米内を切れ」だった。報告を受けた若松次官らは陸相のいう「大罪」とは近衛師団の叛乱と推察した。が、竹下は、師団決起を報告するため阿南を訪ねたとき、遺書は既に書かれており、満州事変以後の陸軍の大罪を代表して謝したのではないかと述べた。
 
 近衛歩兵第2連隊2個大隊の将兵は、連隊旗を掲げて、威風堂々と乾門から退去した。兵士たちは、叛乱軍の一員だったとは思っていなかった。時間がきたから、警備を交代しただけと思っていたのだ。
 皇后官職事務室の金庫の中の録音盤は無事だった。とりあえず玉音録音盤を総務課まで運ばねばならないが、まだ隠れている叛乱兵に奪取されぬとも限らない。幸い録音盤は2組あるので、1つは袱紗をかけて恭しく、別の1つは時間をおいて無雑作に雑のうにいれて庁舎の長い廊下を総務課へ運んだ。
 芝白金の鈴木孝雄陸軍大将(総理実弟)宅に避難していた総理は、息子の一秘書と話し合い、玉音放送の見通しもつき、内閣総辞職を決めていた。それを推測したかのように姿をみせた迫水書記官長が昨夜以来の報告をすると、「今日の閣議で全閣僚の辞表を取りまとめて総辞職したいのでそのつもりで準備にかかってもらいたい」と要望した。
 宮城周辺で、2人の将校がそれぞれ馬と側車(サイドカー)にのって、徹底抗戦のビラをまいているとの報告が憲兵隊に届いていた。
 その頃、米内海相が麻生秘書官を伴い陸相官邸に向かっていた。「惜しい人だったな」車中で米内はもらした。阿南陸相は奥の部屋に安置され布団をかけられていた。ふとんにかくれて血はみえず、阿南の顔には苦悶の跡が見えなかった。米内は、阿南の遺骸に歩み寄り、阿南の顔を凝視した。口を利かず、じっと阿南の顔を見つめていた。やがて米内は立ち上がり、官舎を辞した。もう一度、「ほんとうに惜しい人だった」とつぶやいた。
 阿南の最後のことばは「米内を斬れ」だったが、米内は聞かされていなかった。
 11時、宮中で開かれる予定の枢密院本会議の打ち合わせに、迫水書記官長が宮内省にいくと、玄関で肩から雑のうを下げた加籐総務局長と遇った。「これから放送局へいきます」と緊張して警視庁の車に乗りこんだ。雑のうの中には録音盤がはいっていて、10分後には、放送会館の会長室へ運びこまれた。
 筧課長が捧持した別の録音盤は、宮内省の車で運ばれ、待ち構えていた荒川局長の手で東部軍司令部のある第一生命会館地下の予備スタジオへ運びこまれ、正録音盤に不測の事故が起った場合に備えた。
 近衛師団副官川崎嘉信中尉は、殺された森赳中将と第二総軍の白石参謀の遺骸のための棺を求めて走りまわっていた。空襲で焼け野原になった東京中を探して入手した2つの棺に2人の遺骸をおさめ、棺の上に軍服と軍帽をのせ祭壇とした。参謀古賀秀正少佐はこの棺の前で割腹自殺した。
 11時20分、天皇が枢密院議場に出御、平沼議長が天皇のお沙汰書を朗読した。
 「朕は政府をして米英支ソのポッダム宣言を受諾することを通告せしめたり。これはあらかじめ枢密院に諮詢すべき事項なるも、急を要するをもって、枢密院議長をして議に参ぜしむるにとどめたり。これを了承せよ」と読み終わったお沙汰書を巻き、高くかかげた。それに合わせて列席の顧問官13人が深々と頭を下げた。指名されて、鈴木総理が内閣の終戦処理を説明して、日本降伏の国内手続きはすべて終了した。
 
 宮城前二重橋と坂下門の間の芝生の上で、2人の将校が自決した。ついさきほどまで、サイドカーと馬に乗ってビラを配っていた畑中少佐と椎崎中佐である。2人とも腹を切り、さらに拳銃で頭を射抜いての最後だった。ふたりが最後に配っていたビラには、
 「国体護持のため本十五日早暁を期して決起せる吾等将兵は、全軍将兵並びに国民各位に告ぐ。吾等は敵の謀略に対し、天皇陛下を奉じ国体を護持せんとす。成敗利鈍は吾等の関するところにあらず。唯々純忠の大義に生きんのみ。皇軍全将兵並びに国民各位願はくば吾等決起の本義を銘心せられ、君側の奸を除き謀略を破砕し最後の一人まで国体を守護せんことを」
 と書かれていた。
 
 放送会館では、放送に使う録音盤が第8スタジオに持ちこまれた。宮内省の加籐総務局長、筧庶務課長、情報局の下村総裁以下の幹部、放送協会の大橋会長らも立ち会うために集まってきた。警備スタッフの関心もスタジオに集まっていた。スタジオの外の廊下にいた東部軍参謀鈴木重豊中佐は、挙動のおかしな将校を発見した。天井の一角に目を据え、憑かれたように全身を硬直させた将校に異常を感じた鈴木中佐は、傍らに近づき「いまから陛下の放送がはじまるので、警備をいっそうきびしくするように」と声をかけた。そのとたん、将校は軍刀の柄に手をかけ、「終戦の放送をさせてたまるか。叩き切ってやる」と荒々しく叫びながらスタジオに乱入しようとした。鈴木中佐は、慌てて将校に飛びつき、羽交い絞めにして乱入を阻止して憲兵を呼んだ。スタジオは防音のため、外部とは遮断されており廊下の騒ぎは一切聞こえなかった。
 放送まで15分に迫ったとき、春名静人技術部員は録音盤のテストをしていないことが気になった。天皇の声を試聴するのは畏れ多いと考え、あえてテストを避けていたのだが、2枚にわけられた録音盤の1枚めの再生音がスムーズに2枚めにつながるか、テストはすべきであった。そう思った春名技師は、直前のテストに挑戦した。
 予定より早く流れた玉音に、スタジオ内は一瞬愕然としたが、テストとわかり安堵した。
 正午の時報。和田信賢放送員の声。
 「ただいまより重大なる放送があります。全国の聴取者のみなさまご起立願います」
 スタジオ内の立会いの幹部は、思わず頭を下げた。
 「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、畏くもおんみずから大詔を宣(のべ)らせ給うことになりました。これより謹みて玉音をお送りします」
 「君が代」演奏につづいて天皇の声。
 『朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑(かんが)み非常の措置を以て時局を収拾せんと欲し茲(ここ)に忠良なる爾(なんじ)臣民に告ぐ
 朕は帝国政府をして米英支蘇(ソ)四国に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり
 抑々(そもそも)帝国臣民の康寧(こうねい)を図り万邦共栄の楽(たのしみ)を偕(とも)にするは皇祖皇宗の遺範にして朕の拳々(けんけん)措(お)かざる所 嚢(さき)に米英二国に宣戦せる所以(ゆえん)も亦(また)実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾(しょき)するに出て他国の主権を排し領土を侵すが如きは固(もと)より朕が志にあらず
然(しか)るに交戰巳に四歳を閲(けみ)し 朕が陸海将兵の勇戰 朕が百僚有司の勵精(れいせい) 朕が一億衆庶の奉公 各々最善を盡せるに拘らず 戰局必ずしも好轉せず 世界の大勢亦我に利あらず 加之(しかのみならず)敵は新に残虐なる爆彈を使用して頻(しきり)に無辜(むこ)を殺傷し惨害の及ぶ所眞に測るべからずに至る 而(しか)も尚 交戰を繼續せんか終に我が民族の滅亡を招来するのみならず 延(のべ)て人類の文明をも破却すべし
 斯(かく)の如くんば朕何を以てか億兆の赤子を保し皇祖皇宗の神靈に謝せんや 是れ朕が帝國政府をして共同宣言に應ぜしむるに至れる所以(ゆえん)なり 朕は帝國と共に終始東亜の開放に協力せる諸盟邦に對し遺憾の意を表せざるを得ず 帝國臣民にして戰陣に死し 職域に殉じ 非命に斃れたる者及其ノ遺族に想を致せば五内為に裂く 且戰傷を負い災禍を蒙り家業を失いたる者の厚生に至りては 朕の深く軫)念(しんねん)する所なり
惟(おも)うに今後帝國の受くべき苦難は固より尋常にあらず 爾臣民の衷情(ちゅうじょう)も朕善く之を知る 然れども朕は時運の趨(おもむ)く所堪え難きを堪え 忍び難きを忍び 以て萬世の為に大平を開かんと欲す 朕は茲に國體を護持し得て忠良なる爾臣民の赤誠(せきせい)に信倚(しんい)し常に爾臣民と共に在り 若し夫れ 情の激する所 濫(みだり)に事端を滋(しげ)くし或は同胞排儕(はいさい)互に時局を亂(みだ)り為に大道を誤り信義を世界に失うが如きは朕最も之を戒む 宣しく擧國一家子孫相傳え 確(かた)く神州の不滅を信じ任重くして道遠きを念い 總力を将来の建設に傾け道義を篤くし志操を鞏(かた)くし 誓て國體の精華を発揚し世界の進運に後れざらんことを期すべし 爾臣民其れ克く朕が意を體せよ』
 偕=ともに。  百僚有司=多くの官吏役人。 軫念=天子が心を痛め、心配すること。衷情=うそいつわりのない心。誠意。 赤誠=偽りや飾りのない心。真心。信倚=信頼。鞏=かためる。志操=主義や考えなどを固く守る意志。 體(体)せよ=心に留めて行動しなさい
 戦争終結宣言の天皇の玉音放送(4分35秒)の電波は、日本中はもちろん、中国、満州をはじめ日本軍占領地の外国にも流れた。しかし、どれだけの国民に聞かれたのかわからない。焦土となった都市の被災者は電気もラジオもない生活を送っていたし、聴いたが雑音が多くて聞き取れなかった人も大勢いた。ソ連軍の不法な攻撃に逃げ惑う満州の日本人はラジオを聴く余裕もなかった。

 

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 (26)悔しかった敗戦
 
 この日、正午から重大放送があることは、筆者は2か月ほど前からの新職場、勤労動員先の筑後川河原の作業場(疎開工場建設予定地)にいくまで知らなかった。級友から知らされて、どうせ本土決戦の一億総特攻の命令だろうと話し合った記憶があるだけだ。
 7月初旬、30名ほどが選抜され、河原で穴掘りばかりやらされた。当初、自分達のための防空壕や、疎開してくる工員のための宿舎建設の基礎工事と聞かされていたが、穴に立てる柱や工場の床となるセメントなどの資材が届かず、8月にはいると休業状態だった。疎開してくる予定の工場が空襲を受け、疎開する前に灰になってしまったらしい。
 それでも爆音が聞こえると慌てて防空壕に避難した。ほとんどが米軍艦載機のグラマンだった。グラマンは、金属的な高音で2機、3機と群れて飛んでいた。日本軍機の爆音は低音で、切り込むような迫力がなかった。しかも、ほとんど姿を見せなくなっていた。
 ある時、超低空のグラマンが飛んできた。開いた風防にパイロットの顔もはっきり見えた。赤ら顔の男が身を乗り出して下界を眺めていた。低空で東から西へ飛んでいっただけだったが、こんなに低く、パイロットをはっきり視認できるのは珍しかった。中学生たちは壕の外に出て、グラマン機を熱心に見物した。中にはよく見える場所を求めて走りだした生徒もいた。とたんに怒声がとんで、数メートル走った生徒は伍長の壕に呼びこまれた。伍長とは陸軍の階級であるが、怒声を放った伍長は、疎開してくる工場から派遣された現場監督で、工員2名を従えて中学生を監督していた。届かぬ資材にいらついて、よく生徒を撲った。このときも、走った生徒を撲り「地面を見てみい。アリが歩いているとよく見える。アリが止まると見えなくなる。空襲警報中に動きまわるのは、敵機に教えるのと同じだ。警報下の移動は厳禁だ」と伍長は全員30名ほどを集めて偉そうに訓辞した。この伍長は、40前後の角ばった顔で、教師の前でも平気で生徒を撲った。気の弱い教師が、「代わりに私を撲ってください」と申し出て暴力をやめさせたりした。生徒たちは、伍長が教師を撲れば全員で伍長を袋叩きにしようと話し合ったが、実行する機会はなかった。筆者たちには仕事はなく、夏休みの小学校高学年の子どもたちが、油をとるため松の根を掘る勤労奉仕をしていた。無為にすごす私たちは、働く小学生たちに恥ずかしかった。
 8月8日か9日ごろ、「広島に特殊爆弾が投下され甚大な被害を受けた。特殊爆弾の攻撃は1、2機の少数機でおこなわれるので、少数機の襲来でも必ず防空壕に避難し、白いシャツを着れば安全である」と知らされた。白は熱線を遮断する性格があったからだ。
 
 8月15日の朝、河畔の作業現場には、工場から派遣されていた伍長と工員2名は姿をあらわさなかった。なぜか教師もこなかった。監督者のいない中学生の集まりは野放図で、取りとめなく雑談をつづけていた。戦争の行く末は不安だったが、いずれは本土決戦となり、その戦闘で死ぬと思っていた。突き詰めて考えた死ではなく、戦争のために死ぬのは当然のことと思っていた。実際に死と直面しての決心ではなく、周囲に転がっていた多くの死に接した結果の覚悟ともいえる。日常茶飯事として語られていた死であり、特攻隊のように出撃命令を突きつけられた死ではなかった。美談として死を覚悟したのだ。
 教師もいない、現場監督もいない雑談は心地よく、弁当を食べて、木陰で昼寝をして過ごした。時計を持った生徒は1人もいない。喋るのにも飽きてきた。監督者が来ないのは異常である。学校にいってみようということになり、立ち上がってぞろぞろと歩きだした。学校までは4、50分の距離である。途中で、まっすぐ家に帰る、と4、5名が別れていった。学校の方から、上級生と思しき生徒の群れが歩いてきた。
 「お前ら、なにぼやぼやしとったのか?」
 1人が難詰するように語りかけてきた。
 「工場の建設予定地で作業をしていました」我が方の代表が答えた。
 「バカもん、日本は戦争に負けたんぞ、お前らがぼやぼやしとるけんたい」
 日本の敗戦が、われわれのぼやぼやが原因のようにいわれたのは不本意であったが、とにかく真相を確認すべく学校にもどった。負けたと聞かされてから足どりが急に重くなった。天皇はどうなるのか。日本はどうなるのか。そして我々は……。どんな運命に曝されるのか。広島の特殊爆弾なんか、特攻隊が爆弾貯蔵庫に突っ込んで爆破すればいいじゃないか。数人が帰宅すると、群を離れていった。
 「すまん、すまん。校長の命令で、教師は全員玉音放送を聞いて、作業中の生徒たちに手分けして放送の内容と、9月1日の始業式までは夏休みとすることを知らせるつもりだったが、打ち合わせが長引き、連絡が遅れてすまなかった」と、謝った。
 だが実際には、玉音放送は雑音が多くて聴きとれず、聞き取れても言葉が難しく判らな
 かったという人が多かった。しかし、聞き取れなかった人には再度アナウンサーが勅書を朗読し、内閣告諭、聖断にいたる経過、ポッダム宣言の解説などが平易なことばで放送され、玉音放送を補足して周知徹底を諮った。さらに敗戦の悲報は、口から口へと国民の間へ伝わった。足取り重く家路についたが、不思議なことにこれ以後の記憶がない。完全に喪失している。歩いて帰ったはずなのに道路に人影があったかどうかも覚えていない。
 終戦の記憶は、夜になって蘇る。暗くなって電気を点けたときだ。灯火管制用の遮光用暗幕を外して、ハダカ電球に灯りをともした。当時の電球だからそれほど明るいはずがないのに、昼を欺く明るさの下で夕食を食べる感覚は久しぶりだった。なにを食べたか忘れたが、美味い晩飯であった。隣近所の家の明かりがもれ、笑い声が聞こえるのが無性に嬉しかった。遠くぽつんとともる灯りにも、風情があった。
 
 二重橋前の広場には、玉音放送で敗戦を知った人々が集まり、敗戦を自らの責任と詫びる国民の姿が多く、砂利に土下座して慟哭する者、「天皇陛下バンザイ」を唱え「海ゆかば」を歌ったりしたと新聞で報じられた。「海ゆかば」は、ラジオで玉砕など悲報を伝えるときの前奏曲として馴染みの曲である。勝利の前奏曲は「軍艦マーチ」であったが、久しく聴いていなかった。
 東京では鈴木貫太郎内閣が総辞職をして、次の内閣選びがはじまっていた。そのころ、田中東部司令官が拝謁をして、近衛師団叛乱の鎮圧に嘉尚のことばを受けていた。
 玉音放送のあと、大本営陸海軍部は隷下全部隊に停戦命令を発し、日本の陸海軍部隊は全面的に戦闘を停止するはずだったが、納得できない将兵の継戦の動きが蠢動していた。
 大分を基地とする第5航空艦隊司令長官宇垣纏中将は、玉音放送を聞く前から沖縄の米艦船への特攻攻撃を決心して『彗星』5機の出撃準備を命じていた。
 宇垣中将は、山本五十六連合艦隊司令長官の参謀長として長官の前線視察に随行、山本長官機とともに乗機をブーゲンビル島沖で撃墜され、重傷を負ったが一命を取りとめた。その後レイテ沖海戦には戦艦『大和』『武蔵』を擁する第1戦隊司令官として、栗田艦隊のレイテ湾突入作戦に参加した。レイテ湾突入を目前にナゾの反転をした栗田艦隊である。その後航空艦隊司令として2531名を海軍特攻機に乗せて沖縄海域へ出撃させた。陸軍の特攻隊員も1417名が散華した。
 玉音放送を聞いた後、大分基地では命令の5機より多い11機の艦上爆撃機『彗星』が出撃態勢をとっていた。司令官の出撃と聞いて参加志願者が名乗りでて、11機が用意されたという。『彗星』は2人乗りで、宇垣中将は階級章を剥ぎ取り、中津留達雄大尉の操縦する指揮官機の後部座席に通信兵と一緒に座って出撃した。
 その日の夕方、沖縄本島北端辺戸岬の北西40キロの伊平屋島海岸の米軍キャンプ近くに、『彗星』一機が墜落し、中から飛行服ではない階級章のない第三種軍装の壮年の死体が発見されたという。この遺体が宇垣という確証はないが、宇垣でないとの反証もない。連合艦隊司令長官小沢治三郎中将は、「自決するなら独りでやれ、若者を巻きこむな」と激怒したという。ちなみに特攻生みの親といわれた大西瀧治郎軍令部次長は、翌16日、特攻で散った将兵たちとその遺族への謝罪、生き残った若者へは軽挙妄動を慎み日本の復興、発展に尽くすように諭す遺書を残して割腹自殺した。多くの特攻隊指揮官が、「お前たちだけをころすのではない。俺たちもあとからいくからな」と大勢の部下を送りだしたが、実際に後を追ったのは大西一人だったといわれている。
 厚木海軍航空隊司令の小園安名大佐も敗戦に納得できない1人であった。玉音放送の後、隊員を集めて、厚木航空隊は米英軍には降伏せず、断固戦闘を継続すると訓示をしたうえ、全国の海軍基地に、無線で参加をよびかけた。
 
 本土決戦は陸軍だけでなく、海軍にも徹底抗戦を唱える連中が多く、ゼロ戦などの戦闘機が、帝国海軍は降伏せず、とビラを撒いていた。一方、右翼団体も「一旦緩急の場合に馳せ参ずる兵士」を募集していた。菊水同志会とか尽忠報国会と名付けた団体が、召集に応ずると署名すれば兵隊用の靴や軍服、毛布などを支給したとも聞いた。もらって見せびらかしていた中学生がいたが、募集現場は確認できなかった。

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 (27)ソ連軍の満州侵攻
 
 ソ連軍の攻撃にさらされていた満州の関東軍は、大本営の指示で、3か月前から朝鮮国境に近い山岳地帯の通化に陣を築き、ソ連軍侵攻の場合は、ここに司令部を置く予定にしていた。精鋭部隊はすでに南方戦線に転用、さらに本土決戦に参加させるために呼びもどされ、実戦部隊の戦力は3分の1以下になっていた。関東軍は、15歳以上45歳以下の男子20万に根こそぎ動員をかけた。頭数は揃ったが、20代は少なく、大半は40歳前後の老兵で、半数には銃剣もゆき渡らなかった。さらに国境周辺の開拓団には老人と女性、子供のみが放置されていた。開拓団の武装老農民が国境付近で抵抗している間に、朝鮮に近い満州領の3分の1を守るために、関東軍が布陣する作戦だった。
 
 8月9日午前零時、火砲2万6千、戦車、自走砲5千5百輌、飛行機3400機を有するソ連極東軍157万7千名が国境を越えて沿海州に接する綏芬河、虎頭、アムール河畔の黒河、満州里、と満州国境の東、北、西の三方から一せいに攻撃してきた。兵力だけでも倍以上だが、戦力を総合して比較すると数十倍の戦力差である。
 最初に攻撃された国境近くの開拓団には、小銃で戦うわずかな老兵だけでは、圧倒的なソ連軍を防ぐのは不可能である。子供や女性を連れて避難するのが精一杯だった。荷物を抱えて山道を逃げる難民を、中国人農民が襲ってくる。足手まといになった多くの幼児が放置され、生き延びた子どもたちが残留孤児となった。
 
 関東軍司令部は、ソ連侵攻に伴い予定通り通化に避難し、新京(長春)の在留居留民を列車で朝鮮に避難させることにした。民間人を優先させるとしていたが、結果は軍人家族、官僚の家族が優先された。民間人は避難を躊躇い、軍家族は命令に従順だったからだと輸送司令部は弁解したが、民間居留民は軍関係者への特別な優遇措置として立腹した。
 12日夜には、満州国皇帝溥儀の一行も通化への避難が決定され、満人官吏の同行希望者は少なく、日系官吏の多くが随行した。新京(長春)駅には、一般居留民が避難列車を求めておしかけ、せめて子どもだけでも皇帝列車に乗せてくれと護衛憲兵に哀願した。
 避難列車は、12日だけで貨車を主に18列車が編成され、朝鮮まで軍官家族を避難させていた。13日午前1時半、篠つく雨の中、群がる群衆を強引に整理して皇帝列車は発車したが、陪乗する日系官吏を射すくめる居留民の視線は憎悪にみちていた。
 通化には関東軍司令部が先行していたが、皇帝列車が通化に到着したのは14日未明だった。山田関東軍司令官が駅頭で出迎えたが、通化には皇帝一行を収容する場所がなく、目的地はさらに山奥の大栗子に変更され、列車はそのまま奥地へ向かった。
 通化は急場の工事で通信設備が未完成で新京との連絡もままならなかった。この日の午後、「明朝東京から重大な連絡があるから、新京にもどってほしい」と連絡を受け、山田乙三司令官は幕僚を連れて小型機で新京にもどった。
 新京にはソ連軍の侵攻に着のみ着のままで避難してきた婦女子が姿を現していた。護ってくれる関東軍はなく、ソ連軍の銃火を逃げ惑いながら、ようやく生き延びてきた避難民だ。息絶えた赤ん坊を背負ったまま放心状態の母親、着るものがなく莚をまとっただけの女性など、目を覆いたくなる光景が出現していた。
 司令部一行は午後六時ごろ新京に到着したが、大本営からの電話で「明日、正午から玉音放送がある」と連絡を受けた。さらに満州国通信社からの機密速報で、玉音放送の詔勅文案が通報されてきた。
 東京では、午後11時に、ポッダム宣言受諾の通知を外務省が米、英、ソ連、中国に通報し、敵、味方を問わず、多くの組織で傍受された。その結果かもしれぬが、15日未明から、満州国軍の満人兵士の反乱や逃亡が起こり、多くの日本人指導官が射殺された。
 ソ連軍参謀本部では、「日本天皇によっておこなわれた降伏通告は単なる一般宣言で、陸海軍に対する戦闘行動停止はまだ下達されていない。日本軍は抵抗をつづけており、日本軍はまだ降伏していない。天皇が戦闘行動の停止と武装解除を命令し、それが現実に実行されたときに日本軍の降伏は実現する。ソ連極東軍は、日本に対する攻撃を続行する」と声明した。日本軍が、白旗を掲げるまで攻撃する、という声明だったのだ。
 
 15日正午の玉音放送は、関東軍総司令部では、軍司令官室に幕僚が集まってラジオを聴いたが、前日の満州国通信社の連絡を確認する形で、大きな衝撃はなかった。が、この放送を機に市内の雰囲気が一転した。堂々と晴天白日旗(国府軍の旗)を掲げる中国人の家が増え、襲撃される日本人が急増し、満州国軍の離散が相次いだ。天皇の放送で、日本の敗戦を知らされたが、ソ連軍と実際に戦っている関東軍は、どう対処していいのか判断がつかなかった。とりあえず参謀副長の松村知勝少将を東京に派遣して情報収集にあたらせることにした。
 
 大本営からの停戦命令は、翌16日の午後6時に入電した。「即時戦闘行動を停止すべし。但し停戦交渉成立に至る間、敵の来攻にあたりては、止むを得ざる自衛のための戦闘行動は之をさまたけず」とあり、関東軍に対しては「戦闘行動停止の為『ソ』軍に対する局地停戦交渉及び武器の引渡し等を実施することを得」との別命があった。
 関東軍司令官山田乙三大将は、全幕僚会議を召集した。幕僚たちが着席すると作戦主任草地貞吾大佐が山田大将、参謀総長秦彦三郎中将を案内してきた。論議は①徹底抗戦②作戦を継続しながら有利な条件での停戦③即時停戦の三案に分かれた。
 関東軍は通化に兵力を集めて侵攻してくるソ連軍を迎え撃ち、長期持久戦に持ち込む計画で作戦をすすめてきた。勝利は期待できないかもしれないが、関東軍が最後の一兵まで戦うことが、日本民族の誇りであり、再起の精神的支柱になるのではないか。通化地区での持久戦といっても、本挌的な戦いは望むべくもなく、いわば山岳地帯での持久生活になるしかないではないか。議論百出でまとまりがつかなかった。
 秦参謀長が立ち上がり「私がいまから申し述べる意見が、真に不忠であり、民族将来のためにならないと思えば、私を刺殺してくれ」といって「私は大命にしたがう。そもそも関東軍は天皇の軍隊であって、山田乙三の私兵ではない。いま関東軍が大命に反して抗戦した場合、どんな結果をもたらすのか。諸子は盛んに国体護持をいうが、大命を奉ずることが国体を護持することではないのか。私人死闘をしては、軍紀も維持できず、民族の将来のためにもなるまい」と述べた。
 「私も参謀長の考えと同じ意見である……、残念ではあろうが、このさい大命にしたがっていただきたい」山田司令官が秦参謀長の意見を引きとって結論をだした。
 参謀たちは返すことばもなく頭を垂れて司令官の意見に従って、指揮下全部隊に「速やかに戦闘行動の停止」を命ずる指令を発した。午後10時を過ぎていた。
 そのころ、満州国皇帝溥儀の意向が伝えられた。日本に亡命したいというのだ。
 出先の一存では決められず、東京に問い合わせることにした。
 ソ連軍の侵攻前、日本と満州国はソ連と国交があり、ソ連の領事ゲオルギ・イワノヴッチ・パウルチェフがハルピンに駐在していた。ソ連軍の攻撃が始まると、関東軍は、パウルチェフの身柄を大連に護送していた。聖断が下ったいま、停戦交渉を斡旋させるため、再びハルピンに還送してソ連軍とのコンタクトを依頼した。
 明け方午前6時、溥儀の東京亡命希望に対して東京から返信がきた。
 「天皇陛下の思し召しでは、満州国皇帝陛下の御出を願うことは喜ばしいが、日本としては、もはや皇帝陛下の身柄の保証について責任を持てない状態である。強いて御出になる御希望の場合は、平壌経由で京都に御出になるようお願いしたい」とあった。
 日本に向かうにはMC型クラスの輸送機または旅客機が必要だが、通化飛行場は滑走路が短く、小型機しか離発着できない。通化から直接平壌に飛ぶよりも、通化から奉天(瀋陽)へ小型機で飛び、満州航空会社の旅客機に乗り換えて平壌経由で京都に向かえばいいとされ、8月17日午前8時、竹部六蔵満州国総務長官は新京飛行場から通化に向かった。
 同じ日の午前10時、関東軍秦参謀長が、参謀瀬島竜三中佐、野原博起中佐、大前正明中佐を伴い、ハルピンに向かった。ハルピンの特務機関長秋草俊少将からソ連総領事パウルチェフに関東軍として正式の停戦交渉を始めたいと通告させていた。
 だがハルピンのパウルチェフ総領事は、ソ連極東軍総司令官に連絡をしたがまだ返信はない、いずれ会見の通知が届くだろうと門前払いをした。
 「関東軍司令官は停戦を交渉したいといってきたが、降伏した関東軍の使命は、戦闘の停止と降伏であり、それをせずに話し合いを求める立場にはない」
 というのが、ソ連第一極東軍司令官K・メレツコフ元帥の感想である。
 新京にもどった秦参謀長を追いかけるように、メレツコフから電報が届いた。
 「関東軍司令部は、8月20日12時を期し、全戦線ですべての戦闘行為を中止し、武器を捨てての投降を要求する。ソ連軍は、日本軍が投降を開始すれば戦闘行為を中止する」
 さらにメレツコフは、ハルピンへ軍使の再派遣を要請してきた。
 
 日本への避難を決意した満州国皇帝溥儀は、大栗子の仮宮殿で慌しく退位式を挙行、3両編成の皇帝列車に分乗して深夜の大栗子を出発して19日午前6時に通化に到着、飛行場で離陸準備を終えていた3機の小型機に分乗して奉天に向かった。
 溥儀が乗った1番機が奉天飛行場に着陸したのは午前11時すぎで、日本に向かうMC機の姿もあった。溥儀は満州航空の重役室に案内され、後続機の到着を待っていた。
 急に廊下を走る足音と叫び声が交錯して、騒然とした雰囲気になった。
 窓から眺めると、見慣れぬ黒い輸送機10機以上が低空で旋回しており、その上空で戦闘機が警戒体制をとっていた。黒い輸送機が次々に着陸すると、中から武装兵が飛びだしてきた。ザバイカル方面軍政治部長プリトウレ少将が指揮する降下部隊の強襲であった。機外に飛びだした将兵は手際よく滑走路周辺の建物を制圧し、飛行場を占拠した。
 溥儀の弟溥傑や隋従者を乗せた2、3番機が着陸したのは、完全に制圧された後だった。
 満州国皇帝溥儀の一族は呆気なくソ連軍の手に落ち、午後4時過ぎにチタに護送された。
 
 皇帝溥儀がソ連機でチタに向かって奉天を出発したころ、ソ連領内25キロのジャリコーワの森の中の第1極東方面軍司令部で、関東軍の秦参謀長は、瀬島竜三中佐と通訳宮川祐夫総領事を同席させて、左右に元帥、大将を並べた極東方面軍総司令官ワシレフスキー元帥を相手に停戦交渉の会談を開始した。
 この日の朝、ハルピン特務機関を介して出頭命令を受けた秦参謀長は、瀬島、宮川のほかに大前正明中佐、野原博起中佐らを従え、ハルピンからソ連機に乗せられて1時間、ソ連領のジャリコーワの森の中の丸木小屋に連れこまれた。ジャリコーワは鄙びた山里で、丸木小屋は第1極東軍司令部で、停戦交渉のために呼ばれたのだが、話の食い違いが多く、午前10時には到着していたのに相手がそろわず延々と待たされた。さらに通訳の同席に難色を示され、その交渉に手間どった。自分たちは太平洋艦隊指令官まで同席させたのに、こちら側の大前中佐や野原中佐の同席は拒否された。事前交渉にいたずらに時間がかかり、正式交渉の開始は夕方4時になってしまった。最初のもたつきに較べれば、武装解除や軍需品の移動、降伏する日本軍の名誉を守るなどの取り決め交渉が進められ、秦も瀬島も安堵しながら暗くなった新京にもどってきた。
 
 ところが翌日からソ連軍の諸都市への進駐と関東軍の降伏、武装解除がおこなわれたが、進駐してきたソ連軍は、在留邦人に暴行、略奪、陵辱と暴虐の限りを尽した。工作機械や工業素材は根こそぎシベリアに運びだし、日本軍の名誉を守る協定は反古にされ、兵隊も民間人も戦々恐々と過ごすようになった。
 ソ連軍は、無統制に武装解除を実施し、交通通信を寸断し、日本軍の指揮系統を破壊したので、関東軍が意図した秩序ある停戦、武装解除が不可能となり、部隊の掌握さえも困難になった。ソ軍は日本軍による戦場地域の整理を頑強に拒否したため、死傷者の収容加療、行方不明者の捜索その他戦闘後の後始末は全く実施することができなかった。
 9月にはいると、日本軍兵士1000人ずつで一労働大隊を組織し、人数が足りなければ容赦なく民間居留民を参加させて員数を合わせた。これらの労働大隊はやがてシベリアに送られ、強制労働に従事させられることになるが、その総数は60万を越え、10万以上の死者をだすことになる。これらのソ連軍の対応は、ポッダム宣言第9条「日本国軍隊は、完全に武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し、平和的且生産的な生活を営む機会を得しめらるべし」に違反し、ハーグ陸戦法規でも容認されず、天人共に許されざる行為であったが、秦、瀬島がワシレフスキー元帥との密約をしたのではないかとも囁かれた。が、唯一の生き証人の瀬島竜三は、証言を拒否したまま2007年9月に死去した。
 ジャリコーワ会談のソ連側代表ワシレフスキー元帥の副官だったイワン・コワレンコは、「ジャリコーワでは交渉はおこなわれていない。降伏と武装解除を命令、その方法を説明しただけだ」と取材に訪れた共同通信の記者に説明したという。
 満州以外でも、ソ連軍は、8月28日まで樺太(サハリン)を攻撃した。以後千島列島を攻撃し、歯舞諸島の占領は9月5日のことだった。以来、日本領の北方四島の不法占有をつづけている。
 9月5日、山田司令官をはじめ関東軍幹部28人が新京で拘束されシベリアへ空輸された。瀬島らの11年に及ぶ抑留の始まりである。

 

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昭和の大戦争 南條岳彦 copyright by Takehiko Nanjo 2010