第2章 後につづけと兄の声

戻る 次へ

 

 
 (9)必勝の信念と学徒動員
 (10)トラック島とインパール作戦
 (11)勤労動員とサイパンの玉砕
 (12)天王山はレイテ
 (13)レイテ沖海戦
 (14)つらねる銀翼 最早なく
 (15)敗戦は最早必至なりと存じ候
 (16)日常化した本土空襲
 (17)さすらいの勤労動員

 

(9)必勝の信念と学徒動員
 
 9月、日本内地では、政府が国内体制強化の新方針を決定、首相東條英機が内容を全国民に周知徹底させるため、直接ラジオで放送した。必勝の信念の高揚、生産増強、食糧の自給自足と国内防衛体制の強化を説いた。具体的には男子就業禁止の職業17種を決定、女子を動員して男子禁止職種に転用した。一般事務の補助、小使い、給仕、受付、行商、電話交換、出改札係、電車バスの車掌、踏切手、料理人、下足番から理髪師などを女子か、40歳以上の男子の仕事とした。また航空機の製造工場、官庁などへの女子の動員も強化し、14歳以上25歳未満の女性による女子挺身隊結成を決め、婦人会単位で動員した。
 同時に、理工医農系以外の法文系学生の徴兵免除が廃止され、10月21日、明治神宮外苑競技場に関東地方の入隊学徒を中心に7万人を集め『出陣学徒壮行会』が開催され、全国各地でも同様の会が開かれた。理工系の学生を除く全学生が12月1日に入隊した。相次ぐ激戦に戦死した下級将校補充の苦肉の策で、彼らは3か月の基本訓練を受け、さらに将校教育を施され、半年後には見習い士官として実戦部隊に配属、否応なく戦場で戦うことになった。勇躍戦いに臨んだ学徒もいたが、黙然と受け入れ戦場に赴いた学生もいる。
 「花もツボミの若桜 五尺の生命(いのち)引っさげて 国の大事に殉ずるは われら学徒の本分ぞ あヽ紅の血は燃ゆる」
 学徒出陣の歌が作られ、出陣する学徒も、見送る生徒も、陶酔して歌った。
 
 11月5日、首相東條英機は、南方占領地の首脳を一堂に集めて「大東亜会議」を東京で開いた。出席したのは、満州国の総理張景恵、傀儡国民政府代表汪精衛、タイの王族ワンワイ・タヤコン殿下、5月に日本が独立を認めたビルマ(ミャンマー)のバーモ首相とフィリッピンのホセ・ラウレル大統領、それにインド独立運動のリーダーチャンドラボースなど、日本の占領地の代表や日本の傀儡満州国や日本の求めに応じて寝返った偽国民政府代表などの親日メンバーを集め、東條が議長席に座って議事の一切を取り仕切った。
 東條は、『英米のいう世界平和とは、アジアでの植民地搾取を永続化する利己的秩序の維持が目的で、日本はその解放者であり、独立を援助する救世主である』と演説をして喝采を浴びたと翌日の新聞に報じられたが、戦局は不利に傾き、さらに連合軍の攻勢は日に日に強まる現実は、東條自身はもちろん、列席首脳も十二分に知っていた。日本敗北の予感を胸に、「大東亜各国は協同して大東亜の安定を確保し道義に基づく共存共栄の秩序を建設す」ではじまる大東亜会議共同宣言を採択した。
 内心はともかく、東條内閣には、日米開戦初期の戦勝祝賀会以来の盛宴となったが、大日本帝国の終焉を告げる虚構の宴でもあった。
 この会議で、日本軍の未占領地インドのチャンドラ・ボースは、日本軍の占領地であるインドの流刑地だったアンダマン諸島へ、自らの自由インド臨時政府の進出を要請し、東條はそれを容れた。
 
 8月のことだが、ビルマ方面軍の第15軍司令官司令官牟田口廉也中将から、イギリス軍の根拠地インド北東部アッサム地方のインパールに進攻して、英米の中国援助ルートを遮断して蒋介石の国民党を屈服させ対中国戦を終らせる作戦が提案された。インパールはインド領だが、ビルマとの国境に接して、米国が主導する対中国援助物資を輸送する中国・昆明へのレド公路の基点である。中国が対日戦をつづけるには、この援蒋ルートの貢献が大きいと大本営では推測していた。しかし、インパールに進攻するには、大河イラワジ河(上流はチンドゥイン川)を渡り、国境のアラカン山系を越えなければならず、無理な作戦と反対が多かった。牟田口15軍の属するビルマ方面軍の司令官河辺正三中将は、日中戦争が勃発した盧溝橋事件当事、河辺旅団長の配下に牟田口連隊長と上司と部下の関係で、川辺中将も牟田口のインパール作戦実現を熱心に主張、ついに杉山参謀総長をして、「南方総軍寺内元帥からも要請がきている。総軍もいっているから、やらせてやろう」と人情論で反対参謀を押さえこんだ。東條も、補給が心配ないならば、と賛成にまわった。
 食糧、弾薬の補給ができず、戦闘に負けてないのに、餓死者を出して無念の撤退をした南海支隊のモレスビー作戦は、参謀辻政信個人の偽命令によってはじまり、ソロモン、ニューギニアの惨敗を呼び込んだ。今回のインパール作戦は、歴戦の勇者牟田口廉也個人の行動力と人脈で反対を押し切り統師部を押さえこんだ。この対応は天皇の統師大権の乱用であり、参謀本部の思い上がった判断でもある。インパール作戦に同意した首相東條は、作戦の許可を求めた参謀部に、補給は大丈夫かと尋ねて、大丈夫と聞いて同意したという。東條は、陸軍大臣、軍需大臣を兼務していたので、第一戦部隊の補給要求に応える立場でもあった。自らの役目を果たさず、安易にインパール作戦に同意したのは、チャンドラ・ボースとの盟約があったからだともいわれている。
 連合軍の攻勢はつづいていた。ギルバート諸島(現キリバス共和国)のマキン、タラワに米軍が上陸、両島守備隊5400名は頑強に抵抗したが、玉砕した。

 

先頭に戻る

 

 
 (10)トラック島とインパール作戦

 

 昭和19年2月17日、米軍機動部隊が、連合艦隊が司令部をおくカロリン諸島トラック島を空爆し、地上の航空機270機を大破、艦艇11隻を撃沈された。日本海軍は、ミッドウエイに次ぐ惨敗である。陸海軍ともに続く連敗に、大本営でも敗北を予感せざるを得ない状況に追いこまれた。トラック島は、大小200を超える環礁が集う島嶼群で、艦船の中継基地でもあったが、国際連盟の委任統治領として永久的な要塞の建設を制限されていたので、防禦施設は完ぺきではなかった。数回の米機動部隊の襲撃で壊滅した。
 敗北の連続に、首相兼陸相の東條が、参謀総長を兼務するといいだした。参謀総長は、陸軍の作戦立案とその実施を司る統師機関の長で、天皇の統師大権の行使をたすける義務を負う。その職務行使には、誰も容喙できない。総理大臣といえども、その例外ではない。明治憲法で分離されていた軍政と軍令を、戦況の悪化を立て直すために陸軍大臣が参謀総長を兼務すると主張したのだ。東條を首相に推薦した内大臣木戸幸一も賛成しなかったが、東條は直接天皇に上奏して同意を得た。首相の上奏には立会者はなく、天皇がどんな意見を述べたかは不明である。東條の意見には、杉山参謀総長も反対したが、教育総監山田乙三を加えて三長官会議を開いて東條の参謀総長兼務を認めさせた。また東條は、嶋田繁太郎海軍大臣を口説いて永野修身軍令部総長を説得させ、嶋田も軍令部総長を兼務させた。
 東條は、議会等で戦況の悪化を問われると「敗北を口にした方が戦争に負ける」「無敵皇軍には必勝の信念がある」などと抽象的精神論ではぐらかし、批判的言動には憲兵を使って恫喝、威圧をくわえて封殺した。東方会の代議士中野正剛が「戦時宰相論」を朝日新聞に発表して暗に東條を批判すると、特攻警察を使って逮捕させようとしたが、特攻警察が罪状不明として逮捕を見送ると、憲兵隊に拘引して取調べさせ、中野を割腹自殺に追いこんだ。また2月23日の毎日新聞に、海軍省担当の新名丈夫記者が、「竹槍では間にあわぬ 飛行機だ 海洋航空機だ」との記事を書いた。これは読んだ東條は激怒した。必要なのは海洋航空機だ、と書いてあるがそれは統師部が決めることだ。新聞がこんなことを書くのは統帥権干犯だ、というのだ。処分しろと怒号する東條に、情報局も掲載新聞の販売、頒布禁止処分にした。怒り狂う東條は、38歳で強度の近眼だった新名を二等兵として召集した。新名記者は、現地部隊長の勇断で召集を解除され、海軍の協力で報道班員としてフィリピンに避難した、町内会では女性を集めて、米軍上陸に備えて竹槍の訓練を強制し、空爆の類焼を防ぐために、住宅密集地は強制疎開の名のもとに建物を倒壊させていた。4月からの学童疎開も決まり、小学校四年以上の児童の集団疎開実施がきまっていた。筆者は小学校(国民学校)を卒業し、疎開を兼ねて福岡の中学(旧制)へ入学した。
 インパール作戦は、昭和19(1944)年3月に発動された。牟田口の作戦は、隷下の第33師団通称「弓」兵団(宇都宮・柳田元三中将)、第15師団通称「祭」兵団(名古屋・山内正文中将)、タイで編成された第31師団通称「烈」(佐藤幸徳中将)の3個師団で、一挙にインド領インパールを包囲して攻略する計画だった。食糧はインパール攻略までの2週間分を牛に運ばせ、食糧が尽きれば牛を殺して食糧にするジンギスカンの戦法を採用したと自画自賛した。南からインパールを目指す第33師団「弓」兵団は、3月8日にアラカン山系を縦走する形でビルマ中西部から北上していった。さらに後を追って第15師団「祭」兵団がインパール北のコヒマへ進み、烈兵団が東から直接インパールを攻撃することになっていた。烈兵団にはガダルカナルで救出されブーゲンビルの野戦病院やフィリッピンのバギオ陸軍病院で療養を終えた川口支隊第124連隊の兵士たちも参加していた。両兵団とも弓兵団よりも前進距離は短いが、チンドウィン河を渡河して険しい山地を踏破しなければならなかった。全部隊とも、牛に食糧、弾薬を運ばせていたが、河を渡るときに牛は水を嫌い、峻険な山道から谷底に転落したり、ほとんど役にたたなかった。しかも牛の歩みは遅く、部隊の進軍について行けず、手放した兵が多かった。
 4月初旬、烈兵団はコヒマを占領し、祭兵団はインパールの北に迫りコヒマに向かう街道を遮断したと報告された。祭の山内師団長は、さらにインパールに近接したカメンまで進攻したが、敵の反撃に撃退されてしまった。脱出してきた下士官の報告では、敵は圧倒的な火力で至近距離から、待ち構えたように撃ってきたという。
 英印軍は、日本軍の作戦情報を事前に入手、意図的にインパール平原に誘い込み殲滅する作戦だったのだ。いち早くコヒマを占領した烈兵団は、宮崎支隊(烈師団歩兵団)が力攻を重ねたが成功しなかった。インパールに迫っていた祭兵団も、それ以上前進できず、戦力を消耗していった。最初に南から進撃した弓兵団は会敵が早く、四月上旬に兵力を半減させながらインパールを望見できるビシェンプールに迫っていた。
 一気にビシェンブールを攻略して、18キロ先のインパールに突入を企図したが、敵はビシェンプールに外郭陣地を構築して弓兵団の進出を待ち構えていた。
 英印軍は、地雷と鉄条網に囲まれた堅固な防御陣地に立てこもり、飛行機による空中補給に頼っていた。さらに戦闘機が飛びまわり、日本兵を発見すると銃爆撃をくわえ、防御陣地からは正確な砲撃を浴びせてきた。空地一体の攻撃に日本軍は手も足も出なかった。しかも補給がまったくない日本兵は飢餓と栄養障害、マラリア、下痢に苦しみ、昼間はジャングルの中に潜み、夜しか移動できなかった。「必勝の信念」と銃剣を最大の武器とする日本軍が、一夜の襲撃で鉄条網を切り開き、掩蓋壕を一つ一つ奪取していくと、敵はあっさり退却し、隣接の敵陣から、空中から、山の形が変わるほどの砲爆撃を受け、死傷者が続出した。負傷者には薬がなく、巻き脚絆(ゲートル)で縛って止血するだけだ。重傷者は死亡し、軽症の負傷者でも2、3日放置すれば傷口にウジがわく。
 この辺の気候は、雨季と乾季しかない。5月から10月まで南西の貿易風に乗って、インド洋の湿った空気が流れこみ、インド・ビルマ地方を世界有数の多雨地域にしている。牟田口が、天長節(4月29日)までにインパールを占領せよと命じたのも、雨季前に決着をつけるためだったが、烈、祭、弓3兵団ともインパール直前で攻めあぐね、その可能性は少なくなった。食糧も尽き果てている。やがて……、問題の雨季がやってきた。日本の梅雨と違ってシトシトふる雨はほとんどない。篠つく雨が突然豪雨になる。豪雨は風を呼び山に隠れる兵隊たちに降り注ぐ。弓兵団の前方のインパール盆地には、雨季にだけ出現するロクダ湖が見える。左手にインパールも見える。ビシェンプールを抜けば一気にインパールになだれこめるのだが、そのビシェンプールに英印軍が立ちふさがる。
 牟田口は、戦局の打開を図って、攻撃の主勢を弓兵団に移すことにした。そのために戦車隊と砲兵隊を弓兵団から牟田口司令部の直轄として自ら指揮し、柳田師団長を解任し、タイにいた独立混成29旅団長の田中信男少将を弓兵団の師団長心得に任命した。師団長は天皇からの命令で就任する親補職で中将でなければならず、とりあえず師団長心得にして柳田中将から引継ぎをさせた。作戦中の師団長の移動は前例がなく、周囲をおどろかせたが、川辺ビルマ方面軍司令官はこの人事を認可した。柳田前師団長は、インパール作戦には最初から反対で、作戦中も中止意見を具申して、勇猛果敢な牟田口は理論派の柳田を疎んじたのだ。柳田は、死臭漂う泥濘の戦場を去った。
 後任の田中師団長心得は、牟田口の抜擢に応えて肩を怒らせながら着任した。柳田には不可能であっても、オレならばできると自負して指揮をとったが、すべての将兵が飢え、傷病兵も銃をとる現状に、数日で柳田の意見が正しかったと思い知らされた。
 インパール北方のコヒマで激戦を戦っていた烈兵団が撤退を決意した。佐藤幸徳師団長は、補給が途絶して餓死者、病兵が多数発生し戦闘力を亡くし、補給可能な場所まで撤退すると牟田口司令部に打電した。これに対して牟田口司令部の久野村軍参謀長は「貴師団が補給困難を理由に撤退するとは諒解に苦しむ。なお10日間現態勢を確保されたし。然らば軍はインパールを攻略し、軍主力をもって貴兵団を増援し、今日までの貴師団の戦功に報いる所存なり。断じて行えば鬼神もこれを避く。以上依命」と返電した。
 佐藤師団長は「実現性に乏しく、電文非礼、威嚇により翻意を迫るもの」と憤慨して、撤退命令を発した。  ある連隊長が少量の米飯を食べているところに、前線から報告にきた若手将校が「兵隊が食うものがなくて動けなくなっているのに、よくもそんな飯が食えるな」と怒鳴りつけた。連隊長も、師団からの総攻撃命令を受けても、「こんな命令を部下に命じられない。君たちから伝えてくれ」と若手将校に頼んだ。最早軍隊といえない組織になっていた。
 牟田口が作戦を発起したとき、忠勇な皇軍兵士たちの精神力が頼りだったが、敵弾を受けて負傷し、さらに飢えと疾病は兵士たちから精神力を奪い去っていた。
 烈の佐藤師団長は、補給基地とされていたフミネまで部下を連れて撤退したが、補給される食糧は皆無だった。師団長は、久野村参謀長の勧告を無視して、師団全員の食糧を求めて撤退をつづけた。戦場での抗命は死刑と定められていたが、師団長は陸軍法廷での裁きの中で、牟田口の無法な命令を明らかにしようとしたのである。牟田口は、師団長を罷免して軍法会議にかけようとしたが、ビルマ方面軍、南方軍など上部機関も作戦失敗を追求され、さらに任命権者の天皇に責任が波及することを口実に陸軍は師団長を軟禁、心身喪失の精神病者として不起訴処分とした。陸軍が創設されて以来の抗命事件である。
 インパール作戦は、7月4日に中止命令がでたが、抗命覚悟の烈兵団長、罷免された弓兵団長、病気で離脱した山内正文師団長の祭兵団と3個師団が師団長を失い、英印軍の追撃を受けて降りしきる雨をついて泥濘の中を撤退していた。
 攻撃するときは飢えや病を乗り越える戦意があったが、撤退は飢えと病、さらに追尾する敵の攻撃にさらされる恐怖があった。生きる意欲も喪失する。足どり重くあえぎながら歩けば、撤収した兵の屍体が放置されている。白骨化したものも多い。農民の住居用小屋の中には、雨を避けたらしい兵隊の死体がならんでいる。インパール作戦は、前進攻撃の犠牲者より、インパールからビルマへ下がる途中の犠牲が多く、行き倒れた死者で埋まる白骨街道になった。イラワジ川の渡河点では、工兵隊のイカダ作成を手伝う元気な兵隊もいたが、大半はジャングルの中に潜んで渡河の順番を待つうちに、食糧を入手できずに死亡していった。自分で歩けない傷病兵は自決用手榴弾を渡されて放置された。この作戦に参加した日本軍将兵は8万4千人、死傷者は7万人に及んだ。作戦中止後、牟田口は予備役に編入されたが、その直後陸軍予科士官学校長に任命されて終戦を迎えた。
 インパール作戦敗北の予兆は、作戦開始前に顕われていた。昭和19(1944)年1月、ビルマ南西部のインド国境に近いベンガル湾沿いのアキャブ(現シトゥイ)付近に、英印軍が国境を越えて進攻してきた。インパール作戦出陣の生贄とばかりに55師団(善通寺・花田正中将)を派遣した。55師団は、ポートモレスビー攻略で大損害を受けた南海支隊に歩兵第144連隊を派出しており、兵力4千でシンズウェヤ盆地に布陣していた英印軍を包囲した。敵を包囲して殲滅するのは日本軍得意のお家芸である。花田師団長は、これで勝利まちがいなしと信じて、肉薄攻撃を命令した。英印軍は、日本軍に包囲されると、戦車と火砲で強固な円形陣地を築き、日本軍の攻撃を跳ね返した。制空権を持つ英印軍は、弾薬食糧を空から補給し、円形陣地に立てこもって出撃してこない。日本軍は2週間にわたって攻撃を繰り返したが、攻撃するたびに死傷者をだし、弾薬、食糧が欠乏し、止むを得ず攻撃を中止した。  インパールでも、円形陣地に日本軍を引きつけ飛行機で補給をうけて撃退した。その一方、日本軍がインパール攻撃を開始するや、ビルマ中部のミッチイナ(ミイトキナ)付近に空挺部隊を降下させ円形陣地を築き、飛行場まで作り、日本軍をかく乱した。
 このころ、「ジャワの天国 地獄のビルマ 死んでも帰れぬニューギニア」と兵隊たちが自嘲的に口ずさんでいた。フィンシュハーフェンが連合軍に占領され、ラバウルからの補給をニューギニアに受け入れる場所がなくなった。日本軍は、すでに16万の兵力を投入していたが、空襲や艦砲射撃での戦死、マラリアなどの病死、餓死などで5万4千名に減っていた。兵士はみな骨と皮の栄養失調者で、軍服は擦り切れ軍靴は破れ、ほぼ全員がマラリアや赤痢の罹病者であった。制海権と制空権は連合軍が完全に掌握し、日本軍には補給が全くなかった。大本営は、第18軍を南方軍直属とし、「東部ニューギニア要域における持久」を命じた。もう敵を攻撃しなくて良いから現地で自活せよという趣旨である。だが安達軍司令官は、なんの準備もなくいきなり自活するのは不可能として、最後の決戦を決意したが、玉砕は不可と拒否された。となれば、補給が無く戦力は喪失し、食糧を求めてジャングルを彷徨して餓死者を増やす存在でしかなかった。
 ニューギニアには、沈没した船から救助された乗組員などを含めて20万人が投入されたが、戦争が終って日本に生還できたのは2万人しかいなかった。
 飛行機がなくなったラバウルに日本軍を封じこめ、ニューギニアへの補給を断って日本軍の無力化に成功した連合軍は、インドから中国・昆明への援助道路も開通させ、次の戦場をどこにするのか、完全に戦争の主導権を手中にしていた。
 

先頭に戻る

 
 (11)勤労動員とサイパンの玉砕
 
 昭和19年の4月、半ズボンの小学生から長ズボンの中学生となった筆者は、一学期の授業は半分だけ、あとは勤労奉仕で飛行場の土木作業をさせられた。今の福岡空港である。飛行場建設は、まだ滑走路建設をはじめたばかりで、掘りだされた泥塊をモッコで運ばされた。折からの梅雨に濡れた泥は重たく、辛い作業だった。
 月数回の登校日には、国語、英語、数学、物理などの授業を断続して受けた。上級生は勤労動員で全然登校せず、我々は登校日に軍事教練も受け、軍人勅諭を暗誦させられた。
 どういうわけか、学校には村田銃があって、それを使って突撃や匍匐前進、分列行進の訓練を受けた。村田銃というと火縄銃のたぐいと思う人が多いが、19世紀末の日清戦争で、初めて菊の御紋章が刻印され日本陸軍の正式銃として使用された由緒ある小銃なのである。村田銃がなぜ学校にあったかわからないが、2、3年前までの教練には正式の三八式歩兵銃が使われていたらしい。戦争が激しくなって銃が足りなくなり、福岡の124連隊が返してくれと持っていったという。
 124連隊は、福岡城址に駐屯する郷土の連隊で、124代目の天皇陛下にあやかる名誉ある連隊と教えられた。124連隊の営舎は、翌年6月の福岡大空襲で焼失したが、その跡が戦後平和台球場となって西鉄ライオンズのホームグランドとなった。
 日米開戦2年目にミッドウエイやガダルカナルで日本軍が敗北しているとは夢にも思わず、数次のソロモン海戦に勝ちつづけていると信じていたのに、大都会の小学校4年生以上が、空襲を避けて集団疎開させられると聞いた。昭和19年4月からだったので自分たちには関係ないと思っていた。開戦当初の華々しい戦果は姿を消したが、新聞にはインパールの総攻撃迫ると報じられていた。勤労奉仕の合間に、月に2回は映画をみていた。戦意高揚映画の『加藤隼戦闘隊』や『あの旗を撃て』、黒澤明監督の処女作『姿三四郎』などが記憶に残る。
 我が家では、父が軍属としてマニラに派遣された。軍命令で新聞を発行するためだ。
 負けるという予感はまだなく、のんきに過ごしていたところに、突如突きつけられたのがサイパン島の玉砕と閣の退陣であった。後任総理には、朝鮮総督の小磯国昭に大命が降下した。

 

先頭に戻る

 

 (12)天王山はレイテ
 
 大本営では、米軍の次のターゲットはフィリピンと考え、関東軍(満州)第1方面軍司令官山下奉文大将を第14方面軍の司令官に任命した。山下大将は、司令官として緒戦のシンガポール攻略を成功させた功労者である。陸軍は、関東軍を南北に分断し山下を北部担当の第1方面軍の司令官としたが、この人事は防諜上の理由から公表されなかった。就任を秘匿するため、内地経由でなく北満牡丹江に直接赴任させた。山下の国民的人気を嫉んだ東條の仕業とか、昭和11年に二・二六事件を起こした青年将校に対する山下の対応に不満を抱いた天皇が不快感をもちつづけたためなどといわれていた。しかし山下は、今回のフィリピン出発に際して、宮中に伺候して司令官新補式が行われ、「ご苦労である。帝国の安危は一に比島軍の肩にかかっている……」との激励の言葉に感動して出発した。
 昭和19年10月6日、山下はマニラに到着し、南方軍司令官寺内寿一元帥に着任申告をして、自身はマニラ郊外の桜兵営にこもって近々に上陸してくる米軍を迎え撃つ準備をはじめた。米軍がルソン島以外の島に上陸してくれば、海軍と航空隊で決戦を行い、米軍がルソン島に来攻した場合のみ陸軍が対決する、との基本方針を大本営と打ち合わせて決定し、南方軍も承知していた。陸軍には航空戦力がなく、フィリピンの離島を防衛するのは不可能だからだ。第14方面軍の兵力は9個師団と3個旅団、約21万人であるが、このうち4個師団と2個旅団の10万人はセブ島に司令部を置く第35軍(鈴木宗作中将)に属し、第16師団(京都)がレイテ島に、独立守備隊を集めて作った第102師団がバナイ、ネグロスなどのピザヤ諸島に分散配置され、さらにミンダナオ島に第30師団(平壌)、と薄く広くばら撒かれていた。ルソン島でもマニラ南方に第26師団(名古屋)、現地で編制された第105師団がルソン島南東部のビコール半島、北部アパリ地区には現地で編制された103師団、リンガエン湾沿岸に独立第58旅団と分散されていた。ほかに富永恭次中将を司令官とする第4航空軍6万人と船舶輸送部隊1万人、輸送船で移動中に船が沈没して救助された補充用の兵隊1万名がマニラにいたが、この兵力は南方総軍の指揮下にあり、第14軍には命令する権限がない。  
 10月17日、レイテ湾沖のスルアン島に米軍が上陸し、レイテ島に猛烈な砲爆撃をくわえてきた。大本営は、即座に『捷一号作戦』を発動した。米軍の次ぎの来攻地を予測して、大本営が考えていた幾つかの対応策の中で、フィリピン方面で仰撃する場合の作戦を『捷一号作戦』と名づけて、連合艦隊の残存兵力すべてを動員して米機動部隊と直接対決を企図していたのだ。日本には正規空母はなくなっていたが、超弩戦艦『大和』と『武蔵』の戦艦群(栗田健男中将)をスマトラ島のルンガ泊地に温存しており、内地には戦艦2隻、空母4隻、巡洋艦3隻の機動部隊(小沢治三郎中将)がなけなしの航空機の訓練に励んでいた。栗田艦隊は集合予定地のボルネオ・ブルネイに向かった。
 小沢機動部隊も出動準備をはじめた。
 フィリッピンの第一航空艦隊長官に着任した大西滝治郎中将は、統率することになった航空艦隊(基地航空隊)に、可動機が30機しかないと告げられておどろいた。海軍航空戦力の消耗に慄然として、かねて考えていた「爆弾を積んだゼロ戦で敵艦に体当たり攻撃」(特別攻撃隊)を実施するしかないと決心した。
 10月20日、米軍のレイテ島上陸がはじまり「現戦況に鑑み艦上戦闘機26機を以って体当たり攻撃隊を編成す。本攻撃隊は4隊とし神風攻撃隊と呼称す。201空司令は現有兵力を以って体当たり攻撃隊を編制し、なるべく10月25日までに比島東方海面の敵機動部隊を殲滅すべし。編制 隊長海軍大尉 関 行男、各隊の名称は、敷島隊、大和隊、朝日隊とす」と発令された。
 特別攻撃隊は、特攻機3機、直接掩護機2機で組織されて連日出動したが、レイテ島とルソン島の間に低気圧が横たわり、250キロ爆弾を抱えたゼロ戦は低気圧突破が困難(積載限度は60キロ)で、建前は志願なのに強制的な指名に戸惑いもあった。唐突に決死の覚悟を強制されて心が揺れるのは当然である。関大尉には、母親と娶ったばかりの妻がいた。
 第2航空艦隊の196機がクラーク・フィールドへ進出してきた。ゼロ戦10、彗星(艦爆)10、天山(艦攻)10機、99式艦爆25機、銀河(陸爆)20機である。しかし長官福留繁は、特別攻撃を拒否した。従来の編隊攻撃が可能な戦力と判断したのだ。
 陸軍の第4航空軍も、台湾の12飛行団、内地の新鋭戦闘機「疾風」主力の30飛行集団、豪北の第7飛行師団を呼び寄せる予定だったが、24日までに間に合ったのは台湾の12飛行団だけであった。
 
 10月19日、日本本土にいた小沢機動部隊の空母4隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻、駆逐艦8隻の17隻が、空母搭載機108機とともに瀬戸内海を出発、レイテ島を目指した。
 小沢艦隊は、6月のマリアナ沖海戦で壊滅した艦載機の搭乗員の復活養成に奔走していた。母艦パイロットには、通常の飛行機操縦だけでなく、航行中の母艦からの離着艦の技術、視認できる目標がない洋上航法などを会得しなければならず、猛訓練中だった。が、台湾沖航空戦の勝利の誤報に、連合艦隊は小沢機動部隊の艦載機にも出動を命令した。
 台湾沖航空戦は、ハルゼー提督が指揮する第3艦隊(空母17隻、航空機約1千機、その他艦船95隻)がレイテ上陸戦の陽動掩護作戦として、台湾、沖縄、マニラ周辺の日本軍を牽制する空爆戦で、日本軍は初の陸海軍協同の迎撃戦として最大限の飛行機を動員して対応した。そのため艦船攻撃初体験の陸軍パイロットや訓練未了の海軍搭乗員たちが、敵艦直近で撃墜されて炎上する味方機を敵艦炎上と誤認したり、舷側を逸れた爆弾の水煙を沈没と見誤ったり、信じられない幻の戦果発表となった。さらに、わが方の損害は未帰還312機、と再起不能の航空戦力の喪失を大本営発表として内外に知らせた。
 小沢機動部隊は、訓練を積んだ搭乗員の大半を、闘わずして喪っていたのだ。
 
 大本営は、米軍フィリピン進攻の場合はルソン島決戦と決めていたが、台湾沖航空戦の大勝利(後に誤報と判明)に方針を変更、南方軍にレイテ決戦を命じた。南方軍寺内寿一総司令官は、第14方面軍山下司令官に、「驕敵撃滅の神機到来」とレイテ島に上陸した米軍を攻撃せよ、と命令した。小磯首相も「レイテ決戦は天王山」と声明したが、陸軍出身なのに朝鮮総督として予備役が長く、排他的な参謀本部に排斥され情報の詳細を知らされていなかった。陸軍大将の山下は、レイテに兵を送っても消耗するだけで、ルソン決戦のため戦力の消失を避けたいと説明したが、容れられなかった。日本の軍人が日常の行動規範として拳々服膺した軍人勅諭には「上官の命を承ることは朕か命を承る義なりと心得よ」と明記されており、「陛下の命令に従えないのか」と古参兵に威嚇される新兵のように、南方軍総司令官寺内元帥の怒声の命令に、山下大将は従うしかなかった。
 
 10月22日、戦艦『大和』『武蔵』など32隻の栗田艦隊が、予定より一日遅れてブルネイを出港、パラワン島西側沿いに北上してレイテ島に向かった。
 栗田艦隊は、パラワン島西側を通ってミンドロ島南岸をかわして太平洋からレイテ湾に突入湾内の敵艦隊を攻撃、速度の遅い老朽艦の西村艦隊が、パラワン島東側を通ってスル海経由でレイテ湾に突入する予定だった。その時小沢機動部隊は、囮となってレイテ東海上の敵機動部隊を引きつけ、栗田・西村両艦隊の湾内突入を容易にする作戦だった。
 10月23日、西村艦隊(西村祥治中将)が戦艦『最上』『山城』『扶桑』など7隻の老朽艦を率いて栗田艦隊を追ってブルネイを出発した。
 その日の夜明け前、栗田艦隊は2列縦隊でフィリピン西南端にぶら下がるパラワン島の西側を北上中、日の出直前に米潜水艦の魚雷攻撃を受け、旗艦の重巡『愛宕』が20分で沈没した。栗田長官と小柳参謀長が水中に放り出され、駆逐艦『岸波』に救助された。さらに『愛宕』の艦底をくぐり抜けた魚雷2本が2番艦『高雄』に命中し、駆逐艦2隻に護衛されてブルネイにもどり、戦列を離れた。さらに東側3番艦重巡『摩耶』も別の潜水艦の魚雷攻撃を受け、4分間で沈んでしまった。海面には、沈没艦の大勢の乗員が漂っていた。漂流する乗組員の救助は駆逐艦に任せ、艦隊は潜水艦攻撃を警戒しながら、乱れた隊列を建て直して前進した。南国の太陽が中空に上がり暗かった海面をコバルトブルーに染め、いつしか輝く海に変貌していた。栗田艦隊は、警戒のジグザグ航海で前進をつづけた。
 午後2時半、漂流者を救助していた駆逐艦『秋霜』が、重油まみれの将兵を甲板に載せて追いついてきた。乗組員220名の駆逐艦に、漂流していた769名の『愛宕』『摩耶』の遭難者を救助したという。
 厳戒態勢で危険な狭水路を抜けた午後四時半、栗田長官は戦艦『大和』に移乗して、『大和』を旗艦とした。『大和』は第1戦隊の旗艦で、第1戦隊司令官宇垣纏中将が戦隊の指揮をとっていた。2人の司令官とスタッフが同じ艦橋に同居する結果となった。
 
 10月24日。台湾からマニラに向かっていた第5艦隊(志摩清英中将)は重巡『那智』を旗艦として軽巡『足柄』『阿武隈』駆逐艦4隻が、途中ルソン島南東300キロのブスアンガ島コロン湾で給油を受け、栗田艦隊に合わせてスリガオ海峡からレイテ湾に突入せよとの命令を受けた。給油を受けた志摩艦隊は、スリガオ海峡に向かう途中、各艦の艦長が乗組員を集め、栗田艦隊とともにレイテ湾内の艦船に撲りこみ攻撃をかけると作戦を説明し、基地航空隊も爆弾を抱いて。一機一艦必殺の体当たり攻撃で参加すると発表した。
 その頃、栗田艦隊は暗闇にそびえ立つ絶壁の影を左舷に、シブヤン海にはいろうとしていた。左舷の絶壁は、ミンドロ島の南岸である。やがて夜があけ視界がひろがるとピザヤの島影が浮かびあがる。艦隊は針路を北東に変えてシブヤン海にはいった。西方からレイテ湾に突入するには、シブヤン海からサン・ベルナルディノ海峡を抜けて、太平洋のサマール島沖を南下して直接レイテ湾に突入するか、スル海、ミンダナオ海経由でスリガオ海峡から突っこむしかない。栗田艦隊のレイテ湾突入予定は明日である。
 
 米軍第7艦隊(ウイリアム・ハルゼー)は3機動部隊を太平洋側に配置していた。北からルソン島東部に空母4隻のシャーマン隊、レイテ島北方のサン・ベルナルディノ海峡に空母5隻のボーガン隊、レイテ湾付近に空母4隻のデヴィソン隊がいて、7、8百機の艦載機を保有していた。
 日本側は、囮の小沢艦隊に4隻の空母があったが、108機の艦載機と半数以上が訓練未了の搭乗員だった。小沢艦隊の使命は、栗田艦隊のレイテ湾突入前に米軍に発見されて機動部隊の北上攻撃を誘い、栗田艦隊の攻撃を容易にすることだったがまだ発見されておらず、ルソン島東北端のエンガノ岬東北300浬に達していた。
 
 8時10分、栗田艦隊は、遠くにこちらを窺っている敵哨戒機を発見したが、間もなく姿を消した。発見された以上、攻撃は必至だ。栗田艦隊は、戦闘隊形をとり24ノットの速度で前進した。
 10時40分、ビザヤ諸島西端のタブラス島北方海域に差しかかったとき、40機余の敵機が襲いかかってきた。この戦闘で重巡『妙高』に魚雷が命中、落伍した。このとき戦艦『武蔵』も右舷に魚雷を受けた。が、『武蔵』からは「発揮速力差し支えなし」と連絡してきた。栗田艦隊には、掩護する飛行機はなく、火砲で弾幕を作り敵機を近づけないようにしたが、勇敢な米軍パイロットが次々に弾幕をくぐって執拗に雷爆撃をかけてきた。
 12時すぎ、第2波の24機が来襲した。
 『武蔵』が左舷に魚雷3発を浴び、速度が22ノットに落ちた。『武蔵』は、日本海軍が建造した最大(72000㌧)の戦艦で、同型の『大和』の二番艦として、昭和17年8月に就航したが、ミッドウエイ海戦の敗北で航空戦力が激減したため活躍の場がなく、重油不足もあり、連合艦隊の旗艦としてトラック島にいたが、山本五十六司令長官の遺体を内地に運び、マリアナ海戦に参加しただけ、実質的な対空戦闘は初めてだった。
 13時半、第3波攻撃の29機が『武蔵』に殺到し、3本の魚雷が艦首付近と右舷に命中し、急速に速度が落ちた。栗田艦隊は、そのままサン・ベルナルディノ海峡めざして東進をつづけた。第4波、第5波と敵機の襲来は止まず、『大和』も相当の損傷をうけていた。15時30分、栗田長官は全艦反転を命じた。目的地レイテ湾とは反対の方角に各艦いっせいに変針して西に向かった。16時、連合艦隊宛に「第1遊撃隊主力は航空作戦に呼応して、日没の約1時間後に、「サン・ベルナルディノ」海峡の突破を意図せり」と攻撃延期の電報を発した。その後に「朝8時半から15時半までの間に敵350機の攻撃を受け、その攻撃の激烈なることは一波毎に増大す。これに反して今までの航空索敵の成果も期し得ず、遂次被害累増するのみにて無理に突入するも徒に好餌となり、成果期し難し。一時敵機の空襲圏外に避退、友隊の戦果に策応進撃するを可と認む」と基地航空隊の攻撃戦果を待ってから再進撃する、と泣き言ともとれる一言をつけ加え、友隊の戦果(基地航空隊の活躍)があれば便乗したいとしていた。
 間もなく気息奄々と漂う『武蔵』の横をすり抜けた。5時14分、艦橋の栗田中将は、「もういい、引き返そう」といって、隊列を東にもどした。再び『武蔵』の横を通りサン・ベルナルディノ海峡にむかったのだ。ハルゼー提督は、栗田艦隊が西進を始めたと聞き、空爆に耐え切れなくなり、遁走を開始したと考えた。追撃しても、暗くなってからの艦載機の帰投は避けたかった。仮に栗田艦隊が再度サン・ベルナルディノ海峡にきても、もう、彼らには戦闘意欲も能力も残っていないのではないか。魚雷艇と駆逐艦で充分に対応できると考えた。さらに、北方に派遣していた索敵機が、日本の機動部隊を発見した。
 ルソン島北端の東方約130浬を、進路280度、速度16ノットで進む空母4隻の機動部隊を発見したという。ハルゼーは、空母のいない栗田艦隊の攻撃を中止、空母4隻を持つ小沢艦隊を攻撃すべく、全機帰投を命じて北上した。
 
 栗田長官は、「今までの航空索敵の成果も期し得ず」と暗に基地航空隊の協力が得られない不満を述べていたが、福留中将の第二航空艦隊はルソン島東方海上に米機動部隊がいるのを発見、6時30分に180機の戦闘機と攻撃機を出撃させ8時30分にシャーマン機動部隊の上空に達したが、迎撃戦闘機ヘルキャットの攻撃に67機を失った。攻撃隊は寄せ集めの第二航空艦隊で編制され、チームワークがなく、技量の差も大きかった。
 敵の空母「プリンストン」が戦闘は終ったと判断、戦闘機を次々に着艦させていた。その時、突如、高度300メートルで彗星一機が現れ、250キロ爆弾を飛行甲板に投下した。爆弾は飛行甲板を貫き、さらに格納甲板も貫通、下の第二甲板で炸裂した。雷撃機6機が炎上し、魚雷とガソリンタンクを誘爆し、15時13分に大爆発を起こし、接舷して消火作業中の軽巡「バーミンガム」の上部構造を吹き飛ばし、多数の死傷者を出した。
 ハルゼーが機動部隊に北上を命じたとき、「プリンストン」は自軍に激沈された。
 
 連合艦隊司令部は、栗田艦隊反転の報を受けておどろいた。栗田艦隊にサン・ペルナルディノ海峡突破を中止されると、捷一号作戦が成立しなくなるからだ。当時の日本軍の通信事情は最悪で、発信してから受信するまで、時間がかかることが多かった。18時59分、栗田艦隊は、「天佑を確信し、全軍突撃せよ」との連合艦隊からの電報を受信したが、1時間前に再び「サン・ベルナルディノ」海峡を目指して再出撃をしていた。これらのやり取りを傍受していたのが、ブルネイを遅れて出発した西村艦隊である。速度の遅い西村艦隊は、パラワン島の東のスル海を通り、レイテ島南のスリガオ海峡から栗田艦隊に合わせてレイテ湾に突入する予定だったが、栗田艦隊のサン・ベルナルディノ海峡前の反転で、栗田艦隊を待たず午前4時にレイテ湾に突入することにした。
 栗田艦隊はふたたびサン・ペルナルディノ海峡を目指し、『武蔵』の沈没を知らされ、一方では西村艦隊への対応に困惑していた。当初の予定より6時間遅れていたからだ。
 スリガオ海峡入り口の午後11時、レーダーで西村艦隊を捕捉していた米軍の哨戒魚雷艇3隻が突撃してきた。いち早く攻撃を察知した駆逐艦が砲撃、後続の戦艦も砲門を開き、一瞬のうちに撃退した。だが魚雷艇の報告で、魚雷艇群、駆逐艦群が出撃してきた。さらに巡洋艦と戦艦がレイテ湾口に待機した。日付が25日に変わっても、魚雷艇の攻撃は執拗に繰り返されたが、西村艦隊はその都度撃退していた。午前2時13分、魚雷艇による攻撃は終了したかに見えた。西村中将は、永年の艦隊勤務の経験から、寡兵で大軍にあたるのは夜戦に限ると信じていた。さらに連合艦隊からの「天佑を確信し、全軍突撃せよ」の命令を忠実に実行したいとも思った。
 そのころ栗田艦隊は、サン・ペルナルディノ海峡を無傷で通過して東方海上の太平洋にでた。そこで海峡通過のため単縦列をとっていた艦隊を、夜間索敵配備の陣容に組み替えた。
 『武蔵』沈没現場では、漂流の乗組員の救助活動が、2隻の駆逐艦でおこなわれていた。轟沈して救助され『武蔵』に移乗した『摩耶』の乗組員も含めて、千人以上が収容され、コロン湾に運ばれた。全員が重油の海を数時間にわたって漂流し、油まみれであった。
 
 午前3時のスリガオ海峡では西村艦隊が、東前方に接近してくる敵艦3隻を発見して砲撃を開始した。敵駆逐艦3隻は、砲撃する西村艦隊の砲火を目標に、いっせいに魚雷を発射して西方に旋回した。3隻の一連射で発射された魚雷は、二十本以上だった。10分後、今度は新たに2隻が現れ魚雷を発射して東に反転した。その直後、右前衛の駆逐艦『山雲』に火柱があがり内部で爆発が起った。次の瞬間、『山雲』の艦影は海中に没した。轟沈である。同時に駆逐艦『満潮』にも魚雷が命中して航行不能となった。戦艦『扶桑』、駆逐艦『朝雲』も被弾し、数分後に旗艦『山城』も、次の駆逐艦隊の攻撃で火を噴いた。
 「われ魚雷攻撃を受く。各艦われを顧みず前進し、敵を攻撃すべし」と司令官西村中将は命令を発した直後、魚雷を火薬庫に受け沈没した。午前3時40分のことである。『最上』も被弾したが、まだレイテ湾に向かっていた。最大速力8ノットで北上したが、艦橋に直撃砲弾を受けて戦闘能力を喪失して避退した。
 志摩艦隊は、重巡『那智』『足柄』軽巡『阿武隈』と駆逐艦四隻からなる小艦隊だが、西村艦隊の後を追ってスリガオ海峡に進入してきた。前方から砲声が響き、西村艦隊の奮戦が伝わってきたが、先頭を行く『那智』の艦橋からは交戦中の一艦が爆発して紅蓮の炎が舞い上がるのが見えた。なおも前進すると、『最上』が炎上している戦場に到達し、レーダーで発見した米戦艦群に魚雷を発射して回頭した。そこに炎上中の『最上』がいて衝突した。炎上して停止していると判断した『最上』が、燃えながらも8ノットの速度で動いていたのだ。志摩艦隊は、海峡入り口で『阿武隈』を失っており、『那智』も衝突事故で損傷、速度は18ノットに落ちていたので、レイテ湾突入を諦めて退いた。

先頭に戻る

 

 
 (13)レイテ沖海戦
 
 日の出前の午前5時、栗田艦隊はサマール島東方の太平洋上を南下していた。志摩中将から「西村艦隊全滅、『最上』大破炎上、当隊攻撃終了、一応戦場を離脱し後途を策す」の報告が到着した。これで、栗田艦隊がレイテ湾に突入しても、ともに戦う友軍艦隊がいないのを知らされた。日の出は6時27分、1時間前には黎明空襲に備えて、輪形陣を組まなければならない。輪形陣を組むための作業中、『大和』の櫓上の見張りが、東南方水平線の左40度にマストを発見した。続いて空母2、巡洋艦4、駆逐艦2隻が見えてきた。空母は、艦上機を発進させている。『大和』艦橋は色めきたった。水上部隊が空母群と視認距離で接触したケースは聞いたことがない。風は東北東、敵空母は艦首を東に向けて、飛行機を発進させている。栗田長官は、ただちに30度一斉転進を命じ、展開方向を110度(東南東)、未整の隊形のまま、全軍突撃を命じた。ミッドウエイの敗戦を思い起こすまでもなく、搭載機を離発着させる時の空母は無防備状態である。が、離陸した飛行機が舞い上がれば、直ちに攻撃してきて、攻守処を変える。搭載機の離陸が終了する前に撃沈しなければならない。走る『大和』の主砲が火を噴き、3万2千メートル離れた空母に至近弾を見舞った。『長門』『金剛』の戦艦も砲門を開いた。この日の天候は曇りで太陽は見えず、ところどころに雨雲が海面まで垂れていた。砲撃を受けた空母は、飛行機を発進させ煙幕で姿をくらまそうとしていた。栗田艦隊はまだ気がついていなかったが、煙幕の中に逃げこもうとしている空母は、正規の高速空母ではなく、レイテ島に上陸した米軍を掩護する護衛空母だった。護衛空母は、商船、貨物船を改造した即席空母で、速度は最高18ノットと遅く、30機ほどの搭載機の任務も、地上軍の護衛だった。したがって戦闘力は少ない。爆弾にしても陸上爆撃用で、軍艦の鋼鉄には跳ね返されるだけで、栗田艦隊と正面から戦う意思はなく、煙幕と雨雲の中へ逃げこんでいた。魚雷攻撃のために向かってくる駆逐艦や、陸上用爆弾で攻撃してくる敵機もいたが、逃げ惑う米艦を追いかける栗田艦隊の乗組員は、自軍優勢な状況と判断していた。
 午前9時20分、栗田長官は進路北、速度20ノットと反転を指令した。
 栗田艦隊からは目視できなかったが、『大和』が砲弾を次々に発射しているころ、はるか南方にいた別の空母群が、栗田艦隊の攻撃を受けていた空母群を救うために発艦させた攻撃機を収容していた空母『サンティ』に爆弾を抱えたゼロ戦が突入し、甲板を突きぬけ格納庫で爆発、甲板前部を火の海にした。続いて2機めが空母『スワニー』に突入して炎上させた。日本海軍が戦術として採用した特別攻撃隊である。大本営では、特攻第1号は敷島隊隊長関行男大尉と発表したが、海軍の政策上特攻第1号は海軍兵学校出身の将校でなければならず、関行男大尉が選ばれた。関行男大尉は、レイテ島東部で特設護衛空母『セントロー』に体当たり攻撃に成功して沈没させたとされたが、『サンティ』も『スワニー』も損傷したが沈没は免れている。
 特攻隊出撃の報を聴いた天皇は「そのようにまでせねばならなかったか。しかし、よくやった」と上奏の及川軍令部総長に洩らした。
 
 午前8時、快晴のルソン島エンガノ岬沖には、昨夜から小沢艦隊を探し求めていたハルゼー隷下の機動部隊が、空母4、戦艦2、軽巡3、駆逐艦8の小沢艦隊が2群に分かれて北上しているのに接触、180機の攻撃機も二手に分かれて襲撃してきた。小沢司令官は、この日の早朝、米軍の索敵機に接触されるや艦隊の針路を北に変更し、ゼロ戦19機を残して全機を陸上基地へ向かわせた。陸上基地の戦力を増強し、搭乗員たちに死花を咲かさようとの親心でもあった。
 襲いかかった米軍機から逃げるように小沢艦隊は、24ノットの速度で北上したが、米軍機は、急降下爆撃、雷撃と次々に襲いかかり、各艦それぞれがジグザグの退避行動をとり、バラバラになってしまった。掩護に飛び上がったゼロ戦は姿を消したが、米軍は次々に新手を繰り出してきた。旗艦『瑞鶴』は魚雷1発で通信機能を喪失し、小沢中将は巡洋艦『大淀』に移乗して指揮をとった。12時、小沢艦隊は、海上に散らばった破損艦の群れになってしまったが、『瑞鶴』『瑞鵬』を先頭に北上をつづけ、小沢艦隊の囮作戦は完全に成功したかに見えた。
 
 栗田艦隊との予想外の戦闘に、第七艦隊司令官キンケイド中将は、「敵戦艦、巡洋艦隊、わが護衛空母を攻撃中、高速戦艦を即刻サマール島沖に必要とす」とハルゼーへ電報で要求した。しかしハルゼーの3機動部隊は小沢艦隊を攻撃中で、南方サマール島に兵力をまわす余裕はなかった。仮にあったとしても、300カイリ離れたサマール島沖まで、どんな高速戦艦でも10時間はかかる。ハルゼーは、34任務部隊を送ることにしたが、艦隊がサマール島沖に到着するのは翌朝の午前0時であった。
 猛将ハルゼー大将は、小沢艦隊発見の報に、「余は三機動軍を率いて北上し、明払暁、敵空母艦隊(小沢艦隊)を攻撃せんとす」とキンケイド中将に通告し、栗田艦隊のサン・ベルナルディノ海峡突破を阻止していた第3艦隊38機動部隊をはじめ、フィリピン群島太平洋側を警戒中の全部隊を引き連れて北上し、小沢艦隊を完全に捕捉した。
 自らを囮部隊と認識していた小沢中将は、喜んで捕捉され、ハルゼーの猛攻に耐え、栗田艦隊のレイテ湾突入を期待しつつ戦っていた。
 
 レイテ湾沖の栗田艦隊の集合は遅々として進まなかった。戦場があまりにも拡散しており、損傷を受けた艦が多く、しかも南に向かっていた艦隊を、北に向けて反転集合させるのは容易な作業ではなかった。
 11時20分、北進しながら集合した栗田艦隊は、再び反転してレイテ湾を目指した。小沢艦隊が囮役としてハルゼーの第3艦隊機動部隊の誘引に成功し、レイテ湾突入のお膳立ては整っていた。捷一号作戦の完結は目前だった。しかし……、13時13分、レイテ湾口を目前に栗田艦隊は反転して北上した。栗田艦隊はサン・ベルナルディノ海峡を通ってブルネイにもどり、捷一号作戦は完全に消滅した。栗田艦隊〝ナゾの反転〟として論じられたが、もし栗田艦隊がレイテ湾突入に成功し、すでに上陸しているマッカーサーの部隊を砲撃で壊滅できたとしても、特攻攻撃以外の航空戦を実施するだけの飛行機がない日本軍の勝利はありえなかった。レイテ沖海戦を総括すれば、栗田艦隊は戦艦『武蔵』と重巡洋艦3隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦3隻が沈没、ブルネイにもどってきたのは、戦艦『大和』『榛名』『金剛』『長門』に重巡洋艦7隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦10隻であった。
 一方、囮部隊の小沢艦隊は、空母『瑞鶴』『瑞鳳』『千歳』『千代田』の4隻と軽巡洋艦1隻と駆逐艦2隻が沈没、戦艦『伊勢』『日向』に軽巡洋艦2隻、駆逐艦6隻が生還した。別働隊の西村艦隊は戦艦『扶桑』『山城』重巡『最上』に駆逐艦3隻が沈没、生還したのは駆逐艦1隻だけの全滅状態だった。後から駆けつけた志摩艦隊は、軽巡1隻と駆逐艦2隻が沈没させられたが、主力の重巡『那智』と『足柄』が沈没を免れた。いずれにせよ、連合艦隊の保有艦は、以上ですべてとなった。
 大本営は、依然レイテ決戦の方針を買えず、第1師団、第26師団、第68旅団の地上兵力を投入、海軍特攻隊に加えて陸軍特攻隊まで投入したが、圧倒的な空軍力に補給を遮られ、日本軍は追いつめられ、12月19日、大本営はレイテ戦の終結を決めた。
 南方軍総司令部は、既に11月17日、寺内総司令官以下全員がサイゴンに移っていた。

先頭に戻る

 

 
 (14)つらねる銀翼 最早なく
 
 昭和19年秋、「レイテ決戦は天王山」と小磯首相の怒号がラジオから響き、久しぶりに軍艦マーチを聞かされ、これで戦局が好転すると筆者たちも喜んだ。
 しかも秋が深まるともに、福岡近郊の農家に泊りがけで稲刈り作業に駆りだされた。稲刈りは、飛行場の作業に較べると肉体的には楽ではなかったが、4、5人のグループに分かれて人手の足りない農家に分宿するのは、仲間同士の合宿気分で楽しかった。農家も歓迎してくれて居心地がよかった。なによりも食べ物が豊富だった。私たちは、仏壇の上には天皇、皇后両陛下のご真影が掲げられた部屋で、4人が枕を並べて寝た。空襲に備えた灯火管制が厳しく、暗い夜の会話を楽しんだ。食事は充分に出されたし、間食の柿や栗、秋の味覚は今でも覚えている。
 
 年末、ふたたび飛行場にもどったが、完成に近づいた飛行場は滑走路舗装の段階で、山の砕石場で小石をトラックに積み込んだり、飛行場でトラックから降ろしたり、滑走路に敷き詰めた砂利をローラーで均す作業があった。ローラーは4人で引っ張れば、それほど力は要らず、一番楽だった。採石場へはトラックで運ばれ、片道30分、往復1時間実働が少なくなったが、荷台で吹きすさぶ寒風に曝されるのは辛かった。いずれにしても屋外の肉体労働で、日が沈んで暗くなれば終わりだ。これらの作業は、中学生だけでするのではなく主体は兵隊で、中学生は手伝いに過ぎない。この頃から、兵隊の質が低下してきたような気がする。中学生だから、そんなに多くの兵隊を知っているわけではないが、飛行場建設部隊の兵士たちは、毅然とした雰囲気がなかった。腹が減ったと食べ物を中学生にもねだるのだ。中学生の中にはモチを焼いて持ってきたり、配給の大豆を炒ってくるのが流行りだした。設営隊員とは言いながら、一応は大日本帝国陸軍の兵隊である。食物を第三者にねだるほど給養が悪いとは暗澹たる思いにならざるを得なかった。
 昭和20年の正月は、3日間(大晦日と元旦、二日)の休みがあったが、後は毎朝暗いうちに家を出て、寒風吹きすさぶ飛行場作業に向かった。強制された重労働ではあったが、勝つためには我々が頑張らなければならないと自分に言い聞かせながらモッコを担ぎ、シャベルで砂利をすくっていた。
 ある日、7分通り完成していた滑走路に、ゼロ戦3機が突然着陸してきた。初めて見る実物のゼロ戦だった。滑走路近くの中学生が群がったが、駆けつけた銃剣の陸軍兵に追い散らされてしまった。降りてきた搭乗員3人は、兵隊に案内されて事務所の小屋に向かった。興奮した中学生たちは、航続距離や旋回能力が戦闘機としては世界一などと自らの知識を口々に誇りあった。そのころ、「銀翼つらねて 南の前線……」で始まる「ラバウル航空隊」の歌が流行しており、ラバウルには2千機のゼロ戦がいて、難攻不落の大要塞となり、損害を恐れた米軍はラバウルを避けてサイパンやフィリピンを攻撃してきたのだ、と独自の説を唱える中学生もいた。陸軍の戦闘機「はやぶさ」は「加藤隼戦闘隊」と映画になっていたから、ゼロ戦に較べると知名度は高かった。そのせいか、はやぶさの次に現れた「しょうき(鐘軌)」「ひえん(飛燕)」「はやて(疾風)」など陸軍の戦闘機はいろいろ知っていたが、海軍の「ゼロ戦」はソロモン海戦で活躍していると紹介されてからで、遅れて登場したような気がする。初めてゼロ戦を目の当たりにしたころ、ラバウル航空隊の歌を熱唱していたが、実際のラバウルは食糧を自給(ほとんどがイモ類)できる地下要塞となり、ゼロ戦はおろか修理しながら飛べる飛行機が数機しかなかった。
 
 昭和20(1945)年1月9日、マッカーサーはフィリピン・ルソン島のリンガエン湾に、正式空母12隻を含む艦船805隻、20万の大軍を上陸させた。小磯首相のレイテ決戦の願いも空しく、山下大将の第14方面軍は北部ルソンで持久戦にはいると決定し、米軍は一路マニラに迫った。マニラには、2千5百名の陸軍兵と2万名の乗艦と武器を失った海軍部隊がマニラ防衛隊を結成していたが、米軍接近の場合はマニラ東方山地に立てこもる友軍に合流することになっていた。
 米軍の進撃は早く、2月3日にはマニラに突入し、大半が市街戦に巻き込まれた。
 
 1月30日夜、「コチラハゲンキダ ソチラハドウダ シンイチ」との電報が届いた。発信局は「マニラシンブン」となっている。父が市街地のマニラ新聞から安全な場所に避難したのだろうと解釈していた。父は、マニラへ到着した前年6月5日以来ほとんど毎日、便箋に日記を書きつづけ、便を求めて留守宅に送ってきていた。到着して以来、12月14日までの日記が家に届いていた。人目に触れることに注意したのか、戦況は故意に避けていた雰囲気であった。

先頭に戻る

 

 
 (15)敗戦は最早必至なりと存じ候
 
 東京、名古屋、横浜など、B29の都市爆撃が本格化した。年末から、「本土決戦」や「一億特攻」の言葉が聞こえてくるようになった。本土決戦や一億特攻の意味するのは日本の敗戦なのだが、それは絶対に口にしてはならない禁句だと中学生も知っていた。
 2月4日、ソ連領クリミヤ半島ヤルタに、ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相、ソ連スターリン首相が集まり、戦後の国際秩序を話し合い、ソ連の対日参戦を決めている。
 日本の敗色は濃厚となり、政官界でも前途を悲観する声が漏れ、戦いの行く末に不安を抱く庶民も増えてきた。大元帥の昭和天皇は、いつごろから敗北必至と考えたのか。説は多いが、1991(平成3)年発刊の「昭和天皇独白録」では、天皇自らの言葉として「『ニューギニアのスタンレー山脈』を突破されてから勝利の見こみを失った。一度何処かで敵を叩いて速やかに講和の機会を得たいとおもったが、ドイツとの(三国同盟)単独不講和の確約があるので国際信義上ドイツより先の講和はできなかった」とした上で、「その当時木戸(内大臣)と相談して、重臣を1人ひとり秘密裏に呼んで、前途の見通しについて意見を求めたが、確たる意見を持っている者は1人もいない」という。秘密裏にしたのは、聖戦を完遂して「本土決戦」を怒号する陸軍に知られたくなかったからだ、としている。
 天皇がいう「オーエンスタンレー山脈を突破された」のは、昭和17(1942)年9月末のことで、天皇が重臣をひとりずつ招いて話を聞いたのは、昭和20年2月のことである。従来次期首相を推薦していた元老西園寺公望の死去により、以後首相経験者を重臣として次期総理を推薦させていた。
 
 重臣たちの意見聴取は、2月7日の平沼騏一郎(枢密院議長)を皮切りに、広田弘毅、岡田啓介、近衛文麿、若槻礼次郎、牧野伸顕(元内大臣で首相経験はない)、26日の東條英機まで7人に行われた。重臣たちの多くは情報が足りず、さらに敗北、降伏という言葉を禁句とする精神構造が災いして、惨敗をつづける戦局への対応策など上奏できなかった。諮問した天皇にしても、勝利の希望を失った今、次の一手を考えあぐねて求めた重臣たちの意見だったが、空しかった。日米開戦直前まで総理だった近衛は上奏文を読み上げた。その骨子は「戦局の見通しは最悪で、敗戦は必至であるが、英米の世論は国体の変更までは考えていない。しかし、敗戦となれば共産革命の可能性があり、すでに軍内部にはその兆しがある」としている。軍内部に共産革命の兆候は、二・二六事件を起こした陸軍皇道派の国家社会主義をさしたのかもしれないが、よく理解できない。具体的方針と問われて、「粛軍人事」と答え、近衛はどう考えているかと反問され「それは陛下のお考え……」と奉答し、天皇は「もう一度戦果を上げてからでないと難しい」と結論したが、「そういう時期がございましょうか。半年、一年先では役に立たぬでございましょう」と捨て台詞のような言葉で近衛の上奏は終った。二・二六事件後の総理広田弘毅は、昭和16年に締結された「日ソ中立条約」の廃棄通告期限4月25日があと2か月に迫っていることから対ソ外交の重要性を説き、昭和2年金融恐慌時の総理若槻礼次郎は、和平の機会をつかまえるためには、敵に戦争継続の不利を悟らせるべしと主張した。開戦の責任者である東條は「敵は開戦前、4週間で日本を屈服させると豪語したが、4年後の今日漸く硫黄島にたどり着いた(2月19日上陸開始)に過ぎない。配給の物資の量が少ないとの議論もあるが、陛下の赤子なお一人の餓死者ありたるをきかず」と放言した。官吏の国民に対する態度が悪いとか、和平の時期は一度戦果を挙げてからとか、一歩引いた提案や単なる自己主張でしかない意見が多く、天皇の意に添わなかった。
 年あけ早々のことだったが、藤田尚徳侍従長の官舎に、元外務官僚の吉田茂が尋ねてきた。後に、平和を回復した日本の宰相となる吉田は、「すでに敗戦の勢いは必至で、挽回するには不可能な事態にきている。そこでソ連を仲介にして和平をはかろうとする動きがあるが、これはさけるべきだと思う。何故このように迂遠にして、実りの見通せぬ方法をえらぼうとしているのが私には解せぬ。むしろ戦争をおさめようとするなら、日本が戦争をしかけた相手に、素直に談判したらよいではないか。私としては米英に知人、友人も多いので、この方向で運動を進めるつもりだ」と意見を述べた。
 吉田茂は、二・二六事件のあとに組閣された広田弘毅内閣の外務大臣として入閣交渉を受けたが、陸軍に猛反対され、英国大使としてロンドンに赴任、昭和13年暮れに帰国、翌14年4月に外務省を退任した。シナ事変が長期化の様相を呈し、陸軍はドイツとの反共同盟を締結していた。この年の8月、満州国国境で、日本陸軍がソ連モンゴル連合軍と紛争を起こして損害をだしていた最中、ドイツが突如として独ソ不可侵条約を締結した。駐独大使大島浩がドイツに抗議したが、ドイツはポーランド侵攻を開始して第2次世界大戦がはじまった。1月に発足したばかりの平沼騏一郎内閣が「欧州の情勢は複雑怪奇」と総辞職、あとを陸軍大将安部信行内閣が継いだが、これまた4か月後に総辞職する混沌とした時代だが、親米英派の吉田は浪人のまま駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーやクレーギー・イギリス大使との交際を深め、岳父牧野伸顕の指導を受けていた。吉田の親米英反独反陸軍の態度は開戦後も貫き、陸軍憲兵隊の監視下に置かれていた。
 近衛上奏文は吉田茂との合作とされているが、感情的な陸軍攻撃は「職業軍人の大部分は中以下の家庭出身者で、その多くは共産主義的主張を受け入れ易い境遇にあった」と共産革命を惹起すると述べた真意はどこにあったのか。
 近衛家は、平安末期からあった五摂家筆頭の家柄で、天皇家最古の宰相である。吉田茂も、岳父牧野伸顕が第一次西園寺内閣の文相を振り出しに閣僚を勤め上げ、宮内大臣に転じて伯爵に叙せられた宮内一家である。皇室の縁戚に連なる近衛と吉田が、和平より国体の護持を優先した。つい先日、「戦争をおさめようとするなら、日本が戦争をしかけた相手に、素直に談判したらよいではないか」と藤田侍従長に語った吉田語録はどこに消えたのか。もし、近衛上奏文に、吉田語録が入ったとしたら、「もう一度戦果を上げてからでないと難しい」との天皇の結論は変わったかもしれない。

先頭に戻る

 

 
 (16)日常化した本土空襲

 日本本土への空襲は、昭和17(1942)年4月18日のドゥリットル中佐のノースアメリカンB25爆撃機16機の奇襲が最初で、1機あたり600キロの爆弾を投下して、中国、ソ連領に逃げこんだ。B25は、中型の陸軍爆撃機で、離陸距離が短く航空母艦から発進できることから、太平洋上の空母から発進して日本本土を爆撃して中国領に避難する作戦が立てられた。しかし、発艦予定海域に達する前に日本の哨戒艇に発見され急遽発進させたB25は、日本各地を爆撃したあと、燃料不足で予定していた中国奥地には行けず、ソ連のウラジオストックや日本軍占領下の中国に不時着した機もあった。米軍は、戦死1名、行方不明2名、捕虜8名の損害をだしたと発表し、日本は民間人など50名が死亡、家屋260戸が焼失、学童1名が機銃掃射で死亡した。大本営は、本土初空襲の米軍機9機撃墜、わが方の損害軽微と発表したが、空襲を許した海軍は、報復の意味をこめてミッドウエイ攻略戦を発動して惨敗を喫した。
 二回目の本土空襲は昭和19(1944)年6月16日夜、中国四川省成都を発進したB29、20機が北九州の工業地帯を爆撃したが、偵察が不十分で被害は少なかった。
 11月24日に武蔵野市中島飛行機工場が爆撃されて以来、B29はサイパン、テニアン島からの出撃となった。両飛行場からは、日本全土がB29の爆撃圏となっていた。
 年があけると、航空母艦からの艦載機も参加、名古屋、大阪と爆撃地も拡大していた。
   東京の南1080キロの小笠原諸島硫黄島の日本軍守備隊から、日本に向かうB29群の飛行状況が報告され、迎撃戦闘機は離陸しててB29の来襲を待ち構えていた。さらに硫黄島を中継基地としてサイパンなどの米軍基地を特攻機などで攻撃した。米軍は、日本爆撃のあと被弾、故障などで海上に着水した搭乗員を救助するためにも硫黄島は目障りな存在だった。
 年が明けた昭和20(1945)年2月16日、艦載機や艦艇の砲爆撃などで援護された米海兵隊の強襲がはじまった。
 対する日本軍は第109師団(栗林忠道陸軍中将)を中心に混成第2旅団、南方諸島海軍航空隊などの将兵21000人が守っていた。栗若中将は、米軍に上陸を許し、洞穴陣地から攻撃させる作戦をとった。そのために数か月前から、地下10mに全長18キロのトンネルを掘り、30m置きに地上からの出入り口をつくり、しかもトンネル内の直線は出入り口で曲げられていた。つまり網の目のような地下通路をつくり、重火器などの地上の施設を全部地下に潜らせた。従来の水際防禦を放棄したのだ。
 2月米海兵隊は上陸が容易にできたのに驚きながら、元山飛行場の攻撃隊と擂鉢山隊に分かれ進撃準備を開始したが、地下壕や洞窟内内にかくれていた日本軍が銃砲弾を浴びせた。海兵隊は逃げまどい、数百人と揚陸したばかりの物資を失った。慌てた海兵隊は戦車56両を投入したが、隠されていた速射砲で28両が撃破された。初日に上陸した海兵隊の総数は3万、戦闘初日に死傷者2300人の損害を受けた。さらに夜ともなれば日本軍特意の夜襲のバンザイ突撃はなく、手榴弾が投擲(とうてき)され、洞窟の中からの砲撃に損害を増やした。夜があけると米軍も勇敢で、時速10メートルで擂鉢山に迫り、火炎放射器で日本軍の地下洞窟を焼きつくし日本軍を南北に分断、南方の飛行場を占領した。
 日本軍は、千葉県香取基地から海軍機「彗星」「ゼロ戦」など32機で硫黄島沖の米艦隊に特攻攻撃をかけ、空母「ビスマーク」を撃沈、空母「サラトガ」を大破炎上させるなど戦果をあげた。
 一方米国軍は、損害が多かった米国第4海兵師団が、予備の第3海兵師団と交代した。交代する予備兵力を持たない日本軍は次第に追いつめられていった。そして3月15日、米軍は硫黄島の完全占領を発表し、その翌日に栗林中将は大本営への決別電報を発信し、日本軍の組織的戦闘は終結した。
 米軍の死傷者は28686名と日本の守備隊の総員を大幅に上まわった。
 生き残った日本軍兵士たちは山にこもり、ゲリラ戦をつづけた。
 その前の3月9日、22時30分首都圏一帯に警戒警報が発令されたが、間もなく解除された。日付が10日となった午前0時7分、江東区深川に突如爆弾が投下され、爆発が起ると小爆弾が四散して数え切れない子爆弾が四散して爆発炎上した。後を追うように、浅草、墨東地区にも爆発がつづき家並みが火を噴き始めたころ、空襲警報のサイレンが鳴り響いた。午前0時15分のことである。炎を逃れて戸外に逃げた被災者たちは、空を覆うB29の大群に目を見張った。この日は春の嵐が吹き荒れ、燃え立つ焔に照らしだされたB29の巨大な翼は、まさに怪鳥だった。新しく米軍の日本爆撃の司令官に任命されたカーチス・E・ルメイ少将は、木造家屋の密集地区に焼夷弾攻撃で庶民の抗戦意欲を奪うため、B29により多くの焼夷弾を積ませ、しかも命中精度をあげるため、2千メートルの低空爆撃を命じた。
 火炎から逃げ惑う被災者たちは、人波に押されるように墨田川を目指したが、橋は焼け落ち、群衆はなだれを打って水面に落下した。その上を後続のB29が爆撃しながら通過した。鉄筋コンクリートの不燃を信じて校舎に避難した大勢の人が高熱に焼死、炎に酸素を奪われての窒息死も多かった。
 この日、飛来したB29は344機、投下された焼夷弾38万発(1783トン)、初弾投下から2時間半、東京の三分の一の41平方キロを焼失させ、午前2時37分、最後の米機が東京を去った。警視庁では、死亡8万3千7百93名、負傷者4万918名、被災者100万8千5名、被災家屋26万8千356戸と発表したが、戦後の民間調査では、行方不明者数万がカウントされておらず、死者と行方不明者の数は10万を超えると主張された。さらに死者の中には、銃撃による者も多く、非戦闘員の大量虐殺事件として、今も語り継がれる「東京大空襲」である。この空襲の体験を活かして、ルメイ少将は、軍需工場を直接攻撃するよりは、従業員の住居を炎上させた方が効果があると放言、住宅地への焼夷弾攻撃を、東京以外の各都市へも拡大した。
 昭和天皇はこの空襲中、皇居内でまんじりともせずにすごした。空襲警報が解除されても、墨田川以東の火災は燃えつづけ、夜があけても数えきれない黒煙が立ちのぼっていた。天皇のもとには、次々に被害の報告が寄せられた。最初は死者2万と報告されたが、時間を追って3万、4万と増え、天皇もいたたまれず、現場を視察したいといいだした。だが、墨田川には水面が見えないほどの屍体が浮かび、見渡す限りの焦土には、数えきれない死体が転がっていた。劫火に焼かれ炭化した屍である。年齢も、性別も判然としない黒こげ遺体が山づみされていた。そんな現場へ、聖上をご案内するわけにはいかない。
 3月12日、皇族賀陽宮が拝謁し、「時局はなかなか重大で、国民も食糧に困りかけていますから、適当な時に思い切った御決意を遊ばすことが必要かと思います」と上奏した。天皇は、黙って頷くだけで、確たる答えはなかった。皇族の和平提案運動は、高松宮を中心に、岡田啓介、吉田茂らが中心となって研究していたが、肝心の天皇が今一撃をした上での和平交渉を方針としたため、皇族も重臣も、動くに動けなかった。
 3月18日、北風強く寒い日、天皇の空襲被災地視察がおこなわれた。突然の巡幸で、事前の焼け跡整理も満足にできていなかった。焼失面積の広さと焼死者の多さに整理ができなかったのだ。焼け爛れた電線がぶら下がり、死臭漂う瓦礫の中を、藤田侍従長、松平宮相、木戸内府、蓮沼侍従武官、大金宮内省総務局長、加藤行幸主務官、小倉侍従が供奉して天皇の車列が走った。事前に知らされていなかった都民は、焼け跡の家財道具を掘り出し、今後の生活のために防空壕の整理をしたり、天皇の通過に気付かなかった民もいた。深川富岡八幡宮の鳥居しか残らぬ境内で、大達内相が「扇橋署管内の死者は6千742名、行方不明者が3千406名でございまして、全焼したる家屋は1万2千棟でございます」と報告すると、天皇は「あっ、そう」とか「それは大変だったな」などと口数少なく相槌を打った。説明が終ると、天皇は焦土をじっと見わたし「こんなに焼けたか……」と呟いた。陸軍軍装の陛下に気がついたもんぺ姿の婦人や防空頭巾の主婦たちが会釈した。庶民は、ぎこちなく頭を下げるだけだった。この日の行程は、汐見橋、東陽公園、錦糸町、駒形橋、上野、湯島切り通し坂と一巡したが、「大正12年の関東大震災のときにも、馬で市内を巡ったが、今回の方がはるかに無惨だ。あの頃は焼け跡といっても、大きな建物が少なかったせいだろうが、それほどむごたらしく感じなかった。今回はビルの焼け跡などが多くて一段と胸が痛む。侍従長、これで東京も焦土になったね」と藤田尚徳侍従長に呟いた。戦争の惨状を、つぶさにご覧になって、国民の不安と苦しみが御心をうち、自然をそのままに感じとられる陛下は、それだけに直感力にすぐれ、理解の正確さは驚くほどだったが、この日も戦争終結の必要を感じとられたのであったろう、沈痛な面もちで宮城に帰還された、と藤田侍従長は書き残している。  だが現実には、その方向には進まなかった。

 天皇の「焦土の視察」は、3月19日、朝日、毎日新聞などに、富岡八幡宮の焼けた境内を悄然と歩く天皇の姿も写っている。どう見ても敗軍の将である。
 朝日新聞の記事の前文にはこう書かれていた。
 「焦土に立たせ給ひ 御仁慈の大御心 一億滅敵の誓ひ新た
 九重の奥深く醜翼羽ばたき伝わり、高射砲の轟音響きわたる皇国の危局、朝に夕に一億国民ひとしく忠誠の心いまだ足らざるを歎き悲しむ、今はただ伏しては不忠を詫び奉り、立っては醜の御盾となり、皇国三千年の歴史を太しく護り抜かんことを誓ふのみである あヽしかも、この不忠の民を不忠とも思召されず、民草憐れと思召し、垂れさせ給ふ大御心の畏さよ、十八日 天皇陛下には帝都の空襲戦災地の御巡幸を仰出されたのである。騒虐の翼いつ襲ひかからんやもはかりがたきとき、民草や如何にと宸襟を悩ませ給ひ、聖駕を焦土に進められたのである。かの関東大震災のみぎり、摂政殿下に在しました陛下には、御乗馬で自然の暴虐の跡を御巡視遊ばされた御ことがあった。いま未曾有の国難下、一天萬乗の大君として神にしある御身を、敵暴虐の跡に進めさせ給ふのである、民一億、この大御心に何を以て応え奉るべき、われら畏みていふ言葉を知らず……」(「」内は原文のまま)
 この記事を筆者が見たのは、東京オリンピック後の昭和40年代のことで、戦後も20年経ってからである。戦いの最中に見たのなら、また別の感慨もあったと思うが、焼け跡を往く写真の天皇には、悼しさを感じるだけであった。もっとも、記事の部分……皇国の危局、朝に夕に一億国民ひとしく忠誠の心いまだ足らざるを嘆き悲しむ。今はただ伏しては不忠を詫び奉り……は心外であった。不忠を詫び奉るのは、統師を司る参謀であり、防空を担当する戦闘部隊ではなかったのか。同時に、この新聞を見て日本の敗北を確信し、これ以上の戦闘継続を断念すべきと考えた人も多かったにちがいない。

先頭に戻る

 

 
 (17)さすらいの勤労動員

 その頃筆者は、飛行場建設に目鼻がついて、新しく博多港を基地とする暁部隊の防空壕掘りに動員された。暁部隊は司令部を宇品に置く船舶工兵で、陸軍の兵隊や物資の輸送のためのダイハツなどの小型船舶を持つ実戦部隊だった。飛行場建設作業では食べ物をたかる兵士が多かったが、暁部隊の兵士たちは落ち着いていたし、大人として中学生を保護する姿勢があった。壕掘り作業は朝8時から始まり、兵隊たちが掘り出した土塊をモッコで中学生が表に運び出すのだが、中学生には昼休み以外に午前と午後に10分ずつの休憩が与えられ、兵隊の号令で中学生だけが休憩をとった。土塊をシャベルでモッコに積み込む兵隊も積み過ぎに注意しているのがわかり、気分よく働けた。  博多港の埠頭に廣島陸軍糧秣廠博多支署の貨物集積所があり、各部隊に発送される糧秣が山積されていた。暁部隊の後、筆者たちはこの埠頭に派遣された。誰がどのように判断して派遣が決められるのかわからないが、我々は勤労動員の予備隊として緊急と称して、手軽に、目まぐるしくあちこちに派遣される便利な存在であったらしい。糧秣集積所には、積み出しのために多くの兵隊が狩り出されていたが、ここの兵隊は悪質だった。兵隊たちは、運ばなければならない糧秣を盗んで食った。しかも盗むときの心得を中学生たちにも教えた。盗むのはすぐ食べられるものにして、できるだけその場で食ってしまえ、というのだ。毎日、2、3回、憲兵の巡視(パトロール)があり、服装検査をされて、盗んだものを発見されると軍法会議にかけられると脅された。その場で食べられるモノなら飛行機搭乗員用の航空食がいいと推薦された。飛行兵の待遇はよく、航空食料には、甘味品や眠気ざましのチョコレートがはいっていてうまいそうだ。航空食がない時は乾パンなどがいいという。眠気覚ましのチョコレートをもらったことがあったが、中々うまかった。
 突然、数名の兵士が顔色を変えて物陰に駆け込み、大急ぎでポケットの中から何かを掻きだして姿を消した。とたんに「集合」の号令がかかり、憲兵の身体検査が始まった。二人の憲兵が、まちがってポケットにいれている者はいないか執拗に聞くと、1人、2人とポケットからドロップのようなアメや乾パンをさしだした。中学生は離れた場所に集められ、憲兵ではなく教師が検査したが、なにも出てこなかった。
 検査を終えた憲兵は、兵隊と中学生を集めて、「ここの食料は、出撃直前の特攻隊に食べてもらおうと女子挺身隊員が一生懸命作ったものだ。我々も、畏れ多くも天皇陛下の思し召しにしたがって、特攻隊員の手元に届けなければならぬ大事な食料である。私物化など絶対に許されず、侵す者は軍法会議にかけられる。きもに銘じて作業をせよ。解散」と。
 乾パン一枚で軍法会議かよ、と私たちは嘲笑っていた。
 さらに東の香椎浜の岸壁にも派遣された。香椎浜の岸壁には、朝鮮経由で満州の大豆を積んだ小型貨物船が接岸し、運ばれた大豆が野積されていた。日本と満州は、関釜連絡船で結ばれていたが、米潜水艦がこの海域に出没、定期連絡船はもとより通りかかる小型船までも撃沈して朝鮮海峡、対馬海峡を封鎖して日本と大陸の交通を遮断しようとしていた。食料が逼迫していた日本は、小さな漁船まで動員して大豆を香椎浜岸壁へ運んだ。陸揚げされた大豆は、数キロはなれた丘陵地帯の壕へ牛車で運ばれた。牛が引く車の大きさは知れたもので、今の感覚でいうと、二トントラックより積載量は少なかったと思う。大豆を積んだ牛車には、中学生が2人ずつ乗りこんだ。何のために中学生が乗りこむのか。大豆が盗まれないよう監視するためだ。2、3日前、乾パンを盗んでいながら、今度は盗みを監視する作業とは……、複雑な心境である。教師からは、「御者が気を許した隙に、大豆を盗む通行人がいるからそれを監視する作業」と説明されたが、「近所の人や親戚が通りかかりに大豆を持っていこうとすれば、知らん顔するのは当たり前だろ。わしらは信用がないから、仕事が終ったら徹底的に身体検査されるけど、あんたら学生は大丈夫と思う、少し持って帰ったらどうかね」と老御者は笑って窃盗を示唆した。たらい回しの勤労動員にも納得がいかなかったし、必勝の信念も削がれる周囲の環境だった。
 東京、大阪など大都会への空爆はつづいていたが、損害は軽微と報じられていた。いずれ我々も爆撃されると思っていたが、深刻には受け止めていなかった。
   筑後川中流に太刀洗という町がある。鎌倉時代、南朝に属する菊池武光という武将が、筑後川の戦いで血のりのついた太刀を洗った故事から命名された町で、陸軍の飛行場があり、その横に太刀洗製作所という飛行機製造工場があった。桜が咲き誇る頃、太刀洗町に隣接する甘木町に米の買出しに連れていかれた。買出しというより運搬のために母のお供をしていたのだ。甘木でバスを降りて目指す農家に向かってのんびり歩きだした。山を見上げると桜が満開、戦時下とは思えぬのどかな風景である。ぼんやり歩いていると、空襲警報のサイレンが鳴りだした。近くには久留米の工場もあるし……敵はどこを狙っているのか、のんきに足を運んでいた。ところが、すぐ近くにドカーンと天までと届く爆発音が響いた。つづいて1、2発。さらに5、6発の轟音が後を追う。人通りはまったくない。道路両側の家並みにも人気がなく、迎撃の高射砲がうちあげられて上空で破裂した砲弾の破片も落ちてくる。避難する防空壕が見当たらず、傍らの家にはいりこんだ。開け放たれた家の中は土間で、縁でたたみの部屋に繋がっていた。「おじゃまします」「避難させてください」と大声で声をかけたが応答はない。爆発音は益々激しく、爆音とともに地面がゆれ、家がみしみしと音を立てる。次の爆弾がこの家に命中するかもしれない。爆発音が響く度に大地が揺れ、軋みに家が鳴る。もし、次ぎの投弾がこの家に命中すれば、母と私は木っ端微塵になってしまうに違いない。母は、あまり怖がる様子を見せず土間の縁に腰を下ろしている、軍国少年を自任する筆者も慌てるそぶりはみせらない。  すると無人の道路を全速力で自転車を漕いできてそのまま自転車ごと転げ込んできた二十歳前後の女性がいた。
 「空襲が始まるまえに家に着けると思っていたんですが……、爆撃が始まってしもうて……、無断ではいってすみませんが、空襲がすむまでおらせてください」
 若い女性礼儀正しく、そういって頭を下げた。もんぺを穿いた女学生のようだった。
 「あら、わたしたちも、爆弾がおちてきて、慌てて無断ではいりこんだんですよ。おうちの方がお見えになったら、改めて、ご一緒にお願いしましょう」  母は、笑いながら話した。
 空爆は30分もつづいただろうか。やがて警報解除のサイレンが鳴り、住人が現れぬまま、その家をあとにした。(大刀洗空爆は3月27日と31日の2回、学童32名を含む300名の死者がでている。筆者が体験した空爆の日がどちらだったか記憶がはっきりしない)
 3月27日、米軍機動部隊が沖縄に襲来した。
 戦況はよくわからないが、連日特攻隊の出撃が報じられていたから、好転していないようだ。爆撃といえば大型機のものと決まっていたが、空母艦載の小型機まで参加するようになった。小型機の投下する軽量爆弾は被害は少なかったが、爆撃後の銃撃に注意せよといわれた。
 沖縄の次、米軍は九州に上陸してくるにちがいない、と街で囁かれるようになった。上陸前には、猛烈な艦砲射撃で前方30キロを無人の野にしてしまうと噂された。だったら海岸線より50キロ以上の奥地に避難すれば良いと勧められ、伝手を求めて大分県との県境の千歳村へ疎開することにした。学校も転校した。転校しても授業があるわけでない。筑後川の川原に疎開してくる工場の上屋を建てる作業に動員された。機械が届いたらすぐにすえつけられるようにする計画と聞かされて穴を掘ったが、上屋を建てる資材が届かず工事は進捗しなかった。警報はなく、迎撃する友軍機もなく、地上からの砲火は沈黙し、わがもの顔で低空を飛びまわるのはグラマン機ばかりで、ゼロ戦も隼も姿をみせなかった。ズングリしたグラマン機のパイロットの顔がはっきり見えたのは衝撃だった。戦う相手が具体的に見えるのに、戦う術がないのがもどかしい。
 ある日、飛び去った3機のグラマン機の跡を、速度の遅い日本軍機が追いかけていった。我々中学生は声を挙げて応援したが、「無理に追いかけたら、墜とされるばかりや。逃げたほうがいい」とたまたま居合わせた農婦が口を挟み、筆者たちの意気を沮喪させた。

 

 

先頭に戻る 次へ

 

 

昭和の大戦争 南條岳彦 copyright by Takehiko Nanjo 2010