第1章ポートモレスビーを攻略せよ

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(1)ポートモレスビーを攻略せよ
(2)米軍の反攻
(3)ガダルカナル、飢餓の攻防戦
(4)遠かったモレスビーの灯
(5)戦力の逐次投入と大本営の無責任
(6)南海支隊、消滅す
(7)意味不明の大本営発表とダンピールの悲劇
(8)山本長官の戦死とアッツ島の玉砕

 

 

 (1)ポートモレスビーを攻略せよ——
 

 

 もう10年以上前のことだが、オーストラリア旅行の帰り、「1時間後にはニューギニア・ポートモレスビー上空を通過して、まっすぐ北上して東京国際空港へ向かいます」と機内アナウンスで告げられたことがある。
 ポートモレスビーはパプア・ニューギニアの首都で人口20万、紺青のパブア湾に面した港街である。背後は4千メートルの峨々たる山脈、機上から眺めると、いかにも天然の要害である。70年ほど前、峻険な山並みを踏破して、山上からポートモレスビーの灯を眺めた日本軍があった。南海支隊と名付けられた部隊である。
 
 大日本帝国陸軍の編制は、師団を基本としている。師団には歩兵団がありその下には3〜4の歩兵連隊、連隊には3個大隊、大隊には4個中隊がある。いずれも歩兵の集団で、さらに小隊、分隊が組織される。日本の師団

制度は、明治21(1888)年、東京、仙台、名古屋、大阪、廣島、熊本に第1師団から第6師団までが誕生した。日中戦争が勃発した昭和12年には20個師団、およそ20万の陸軍になっていた。さらに日米戦突入の昭和16(1941)年には、近衛師団、砲兵師団など特別な師団を含めて80個師団100万の兵力になっていた。
 1個師団に充たないが複数の連隊で編制された部隊を旅団、1個連隊を基幹とする場合は支隊と呼ばれた。
 南海支隊は、日米開戦前の10月、四国・香川県の善通寺に本部を置く第55師団の歩兵団長堀井富太郎少将を司令官に、高知の144連隊を基幹に、独立工兵連隊の1個中隊と野戦高射砲隊の1個中隊を寄せ集めて編制された5千人ほどの部隊で、大本営直属の覆面部隊とされた。
  南海支隊は、開戦前の11月28日に小笠原諸島の母島に集結、海軍機動部隊のハワイ・真珠湾奇襲攻撃成功を待って、グアム島に進出したあと、海軍陸戦隊に協力して、ニューブリテン島のラバウルを攻略した。その後、歌で有名になるラバウルだが、ラバウルのあるニューブリテン島は、ニューギニアの東半分とともにオーストラリアの委任統治領で、第一次世界大戦まではドイツの植民地だった。ニューブリテン島北端のラバウル湾は奥が深くて広い天然の要害で、海軍は開戦前から基地として占領を企図していた。軍事的には良港だが、活火山がありマラリアなど瘴癘の地でもあった。
 世界第二の島ニューギニアは、日本の二倍以上の広さで、西を向いた亀のような形をしている。亀の尻尾の付け根……下腹部に、首都ポートモレスビーが、海を隔ててオーストラリアに向かい合っている。アメリカが反攻を始めるときは、オーストラリアを基地にするにちがいない。その前にポートモレスビーを攻略して、日本軍の対オーストラリア戦の根拠地にしてしまえと大本営は考えていたのだ。
 
 シンガポールにつづいて、3月には蘭印(オランダ領・元インドネシア)軍が降伏したが、4月18日、日本はアメリカ軍機による初空襲を受けた。日本本土に近づいた空母ホーネットから発進したB25爆撃機16機が、東京、名古屋、神戸などを爆撃、中国大陸へ飛び去った。損害はたいしたことはなかったが、国民に与えた衝撃は少なくなかった。
 
 南海支隊のポートモレスビー攻略作戦の研究は、多くの問題があった。敵前上陸をする場合、ポートモレスビーの沖には大きなサンゴ礁(リーフ)が多く、舟艇が座礁すれば、絶好の射撃目標となる。上陸地を選んで陸路からを攻撃すると、富士山よりも高いオーエンスタンレー山脈を越えていかなければならない。海軍は、空母も参加する機動部隊に掩護させ、敵の防御を完全に破壊すれば、サンゴ礁は問題にならないという。
 海路攻略を決定した南海支隊は、空母2隻と巡洋艦2隻を主力とする第4艦隊に護衛され、11隻の輸送船に分乗してラバウルを出発したのが、5月4日のことである。
 護送船団がサンゴ海を南下中、哨戒機から「敵機動部隊発見」の報が届いた。
 第4艦隊は、輸送船団は直ちにラバウルに帰投せよと連絡して、全速力で離れていった。
 アメリカ軍は、ヨークタウン、レキシントンと2隻の空母を持つ機動部隊で、日米双方の艦載機が互いに相手を攻撃する5月7、8日と2日間にわたるサンゴ海海戦となった。両軍が空母1隻ずつを失ったが、ポートモレスビー作戦が振り出しにもどってしまった。日本が沈められたのは改装空母祥鳳で、アメリカ軍が失ったのは正式空母レキシントンだったので日本軍勝利の主張もあったが、南海支隊の作戦延期の影響は大きかった。
  
 大本営は、第17軍を創設し、司令官に百武晴吉中将を起用、フィリピン・ミンダナオ島にいた第35旅団、ラバウルの南海支隊、青葉支隊(第2師団)を配属した。百武中将が司令部を編成した6月7日、大本営の井本参謀が、ポートモレスビー陸路攻略を研究してもらいたいと申し入れてきた。日本海軍がミッドウエイ海戦で正式空母4隻を失って惨敗した直後のことであるが、第17軍には敗報は知らされていない。日本国民には、ミッドウエイでの大勝利と報じられていた。
 
 ミンダナオ島ダバオで統師(指揮権)を発動した百武司令官は、堀井少将と田中参謀をダバオに呼び寄せ、モレスビー陸路攻略の研究結果を聞いた。6月30日のことである。
 「モレスビー陸路攻略は兵站に問題がある」と、陸路攻略は不可能に近いと堀井少将は意見を述べた。陸路モレスビーを攻略するにはブナーココダーモレスビーが最良と思うが、ブナーココダ間は図上およそ100キロ、実距離160キロ。ココダーモレスビー間は図上約120キロ、実距離は200キロ。しかも標高4千メートルのオーエンスタンレー山脈を越えねばならぬ。ブナから200キロのオーエンスタンレー山脈の鞍部を第一線として、戦闘員5千名に主食日糧600グラムを支給すれば、日量3トンの補給が必要となる。兵員一人が担送できる重量は25キロ、担送距離は山道であるから一日20キロメートルを限度とする。担送者自身の食糧も20日分が必要であるから、実際に前線に届けられるのはひとり13キロである。戦闘部隊5千名を維持するには、一日3トンの補給が必要で、毎日230名の担送兵を充当せねばならず、モレスビーが最前線となった場合には総勢3万名の輸送兵を要し、食糧のほかに武器、弾薬、傷病兵の治療用医薬品の補給を考えれば、陸路モレスビー攻略は実質的に不可能だというのだ。しかし、堀井支隊長のいう不可能は、あくまでも研究上の計算で、とりあえず偵察隊を派遣、さらに研究を重ねることで合意、横山工兵連隊を派遣して現地調査を実施させることにした。
 
 7月14日、マレー作戦を戦い南海支隊に配属された独立工兵15連隊(横山予助大佐)に、偵察隊としてニューギニアへの出動命令がだされた。日本軍にはニューギニアの正確な地図がなく、「昔、ブナからココダ経由、モレスビーへ歩いていった探検隊がいる」という話を聞き、横山工兵隊はそれを頼りに出発準備に取りかかった。
 その翌日、ダバオの17軍司令部に、大本営の参謀辻政信中佐が姿をみせた。
 「東部ニューギニア方面の航空作戦を有利に展開するため、モレスビー攻略はなるべく速やかに実行されたい。畏れ多くも、陛下のご心配は格別である。第17軍は、すみやかに現地海軍と協定して、モレスビー攻撃に着手されたい」
 天皇陛下を持ち出してモレスビー攻略を早めよという辻参謀のことばに、研究せよと命じられていた17軍司令部では、大本営の方針が変わったと理解し、モレスビー攻略命令の内示と受け取った。当時の軍人たちは〝天皇陛下〟と聞いただけで〝気を付け〟の姿勢をとって居ずまいをただし、緊張して服従するだけである。17軍司令部は、7月17日、正式命令として南海支隊にモレスビー攻略を命じた。
 ところが辻参謀が、変わったかのように発言した大本営の方針は、変わっていなかった。研究命令が生きていたとわかったのは、南海支隊への攻略命令発令後だった。
 辻政信は、関東軍の参謀時代、満州と外蒙古(モンゴル)の国境紛争がノモンハン事件に発展して、ソ蒙軍との戦闘となり、辻の独断主導で作戦をすすめた。辻は統師を無視して国境を越えてモンゴル軍の後方基地タムスクを爆撃させ、暴走の作戦指導をしている。暫らく左遷されていたが、太平洋戦争で復活してシンガポール攻略の第25軍の作戦参謀になったが、シンガポールで華僑虐殺の命令を発したといわれるなど悪名が高い。辻政信は日本敗戦をタイで迎え、戦犯容疑を逃れて逃亡、後帰国して「ガダルカナル」という本をだした。その中で、モレスビー攻略戦を書いているが、「東条英機首相兼陸相に呼ばれて、『陸相として出過ぎた言い分であるが、東南太平洋の作戦が楽観できないような気がして、心配でならぬ。君は参謀総長(杉山元陸軍大将)に申し上げて、なるべく早く、この方面の現地指導をやってくれんかなあ……』と命令を受けた翌日羽田を発った」と記述している。陸相には参謀本部の参謀に対する命令権はない。参謀本部所属の参謀は参謀総長の配下なのだ。
 一方、天皇への戦況情報や作戦計画は、どの程度報告されていたのか、詳細はわからぬが、6月8日に、天皇は「ミッドウエイ海戦の損害は残念だが、之により士気の沮喪をきたさざるよう注意し、今後の作戦消極退廃ならざるようにせよ」と命じている。
 さらに翌日、「モレスビーへは陸上よりのよき道路ありと聞くが、モレスビー作戦は陸上から挺身することはできぬか」と発言している。このご下問が、辻の独断命令に影響を与えたのかもしれぬ。
 横山工兵連隊は、7月20日、第144連隊の第1大隊、砲兵中隊をまとめて先遣隊としてラバウルを出発、翌日ニューギニア・ブナ北西5キロ付近のギルワに到着した。
 亀の形をしたニューギアの尻尾上部にあるブナ、ギルワ、パサブア一帯をブナ地区と日本軍は呼称した。

ブナ地区から奥に40キロほど、自動車が通れる道があると先遣隊から連絡があった。第一次世界大戦までこの地を支配していたドイツが作ったもので、ジャングルを切り開いた部分が多く、40年以上放置された荒れた道だった。既に制空権は米豪軍に渡り、昼間は連日数回の空爆をジャングルに避け、主として夜間の進軍をつづけた。途中、少数の敵守備隊と戦い、朽ちた橋やジャングル道を補修しながら、標高4千メートルのオーエンスタンレー山系の麓地ココダに向かった。ココダでは、豪州軍との戦闘がはじまった。日本軍は、樹上の狙撃兵から射撃を受け損害をだした。日本軍の反撃に豪州軍は後退したがふたたび攻勢をしかけ、工兵隊はそれを撃退しながら主力の到着を待った。

 

 

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 (2)米軍の反攻
 
 8月7日早朝、ソロモン諸島のガダルカナル島とツラギ島に米海兵隊が上陸してきた。ツラギ島はガダルカナル島北の小島で、哨戒用の飛行艇基地として横浜航空隊が進出していたが、4百名の警備兵だけで、米軍の攻撃を受けていると発信して交信は絶えた。
 ガダルカナルでは、日本海軍が建設してほぼ完成していた飛行場を奪取された。早朝の米空母機の猛爆と海兵隊の猛攻に、島にいた240名の陸戦隊と2千名余の建設作業員はジャングルの中へ四散してしまった。陸軍は、海軍からこの飛行場建設を知らされておらず一兵も派遣していなかったが、ガダルカナル島に米軍が進出して飛行場の使用を許せば、制空権が完全に米豪軍に渡り、発動したモレスビー攻略戦が不可能になる。
 海軍は、ラバウルにいた第8艦隊をただちに出動させ、8日夜、ガダルカナル泊地を攻撃して、豪重巡洋艦1隻と米重巡洋艦3隻を激沈し、米重巡洋艦1隻と米駆逐艦2隻に大破の損害を与えた。日本側は、旗艦の重巡『鳥海』と重巡『青葉』が被弾したが、損害は軽微だった。これは数次にわたるソロモン海戦の幕開けであった。
 米軍ガダルカナル上陸の報を、日光で聞いた昭和天皇は
 「それは米英の反攻の開始ではないか。いま日光なぞで避暑の日を送っている時ではない。即刻帰京して憂いをわかち、策を聞かねばならぬ。帰還方用意せよ」と命じた。
 その日、上奏した杉山参謀総長に、昭和天皇は質問もしている。
 「ニューギニア方面への上陸作戦は、海軍飛行機だけでは十分協力の実を挙げえぬ虞なきや。陸軍航空を出す必要なきや」と。
 陸軍飛行機を出す考えなき旨上奏す、と杉山総長の奉答が記録されている。
 
 ガダルカナル島のジャングルに消えた海軍の陸戦隊や設営隊からの連絡が途絶し、上陸した米軍の兵力も不明だったが、大本営は一木支隊を第17軍に編入し、ガダルカナル奪還を命じた。一木支隊は、第七師団歩兵第28連隊(旭川)の連隊長一木清直大佐が率いる2千3百名の支隊で、ミッドウエイ島上陸作戦のために編制されたが、ミッドウエイ海戦の敗北にグアム島で待機、さらに帰国するために輸送船に分乗して日本に向かった直後にガダルカナル島奪還命令を受けたのである。
 一木支隊長は速度が遅い輸送船を嫌い、支隊を二分して自ら先遣隊9百余名を率いて、駆逐艦6隻に分乗して出港、8月18日夜、抵抗を受けずにガダルカナル島中央部のタイポ岬に上陸した。飛行場から30キロ余の地点である。上陸成功の報はラバウルの17軍司令部や大本営にも届いたが、以後一木支隊からの連絡は途絶えた。  
 一木支隊がガダルカナル島に上陸した日、南海支隊主力もモレスビー攻略のためにラバウルからパサブアに到着した。南海支隊の主力およそ5千人は、ほとんど抵抗なく上陸してココダに向かったが、戦闘用武器弾薬のほかに1人あたり1日4合の米(6百グラム)を15日分持たされていた。兵隊たちは50キロ以上の荷物を担いで、横山先遣隊の待つココダへ向かった。ココダまでは5日の行程だが、荷物を背負うと自力では立ち上がれず、兵隊たちは互いに助け合いながら立ち上がり前進した。ココダに着くまでに相当の落伍者がでた。兵隊たちは自分で担いできた米を炊いて食ったが、乾燥野菜と粉味噌で作った汁だけが副食であった。ラバウルには、前線まで食糧や部隊を運ぶだけの車両がない。すべて人力で運ぶしかなく、戦闘部隊として南海支隊の配下に入った第5師団(廣島)の第41連隊(福山)の将校以下7百名と馬五百頭、海軍根拠地隊の徴用で集められた台湾、朝鮮半島出身の作業員5百名で臨時輜重隊を編制、南海支隊に配属した。前進する主力を追って、食糧、弾薬を担送するためだ。
 南海支隊主力は、8月24日にココダに勢揃いした。軍司令部は、ココダを前進兵站基地として、食糧、武器弾薬の集積を企図していたが、一粒の米もまだ集まっていなかった。
 ココダからは本挌的な山岳地帯となり、峻険な山並みが幾重にも連なり、想像を絶するジャングルが行く手を阻んだ。標高が上がるに従い、気温が下がる。さらに雨が多くずぶ濡れになった兵隊たちには凍える寒さだった。一雨降れば谷底の細流も激流となり、兵士や武器、食糧を押し流した。野営の兵士が溺死する事故も発生した。
 千古不伐のジャングルは、樹木が密生しているだけでなく、多くの自然倒木が障害になった。迂回できない地形の行く手を塞ぐ直径2メートルを超す倒木には、兵隊たちは人間ハシゴの肩車をつくって乗り越えた。
 連合軍は最初から、日本軍をジャングル内に誘う作戦らしく、ココダの奥のイスラバ山頂付近に防御陣を築いていた。
 8月26日、南海支隊主力の第144連隊第1大隊がイスラバ攻撃を開始したが、敵は日本軍が2、30メートルに近づくのを待って射撃を開始した。日本軍は、ジャングルに視界を遮られて敵の布陣を確認できなかった。しかも、日本軍が反撃するにも、大半の兵の武器である三八式歩兵銃は長すぎてジャングルでの行動を阻害された。三八式歩兵銃は弾丸5発を装填できるが単発銃である。ジャングルに潜んだ敵は自動小銃で毎分5〜60発と弾の雨を降らせるが、対して大隊には6丁の機関銃しかない。大隊砲が1門あったが、敵の姿を視認できない上、味方との距離が近すぎて使えない。連隊長は、後続の第3大隊を迂回させて敵の右側面を攻撃させた。地形、武器、ともに不利な日本軍は負傷者が続出した。
 戦闘4日目の30日、主力を追求してきた第41連隊主力が到着した。
 堀井支隊長は、左側背を攻撃せよと命令した。
 第55師団第41連隊は、開戦時マレー半島に上陸、シンガポールまでの2か月余を戦い抜いた歴戦の部隊である。マレーでは、英軍の豪州兵部隊を何度も撃破した兵士たちは、豪州兵相手の戦いに自信を持ってニューギニアにやってきた。戦闘慣れした兵士たちは、敵の食糧を奪えばいい、と各自に分配された米の半分ぐらいを船に残して上陸したという。41連隊の第1大隊と第3大隊の半数は、臨時輜重隊に編入され食糧運搬を命じられた。連隊主力は第2大隊(小岩井光夫少佐)だけだった。泥濘の夜行軍に相当の落伍者をだしていたが、命令のもと豪軍側背に向かった兵士たちは戦意旺盛だった。敵に悟られないよう、声を殺してジャングルの山肌を進むと、マレーとは異質の密林に戸惑っていた。マレーでは、ジャングルを切り開いて作られた舗装道路があった。ゴム林やジャングルに立てこもるインド兵や豪州兵は、山砲や速射砲を打ち込むと、トラックで一目散にシンガポールへ逃げこんだ。日本軍の歩兵は自転車に乗って、戦車とともに残敵を掃討しながら前進した。ジャングルの中でも激しい戦闘を何度も繰り返した小岩井大隊は、ジャングル戦には絶対の自信を持っていた。しかし、ニューギニアにきてみれば、山岳地帯のジャングルの想像を絶する濃密さに、敵を発見する前に自分の位置を見失いそうだ。手さぐりで稜線を登り、迂回前進していた小岩井大隊は、30日夕方、予期していなかった道に進出したが、敵影はなかった。その夜はそこで過ごし、翌31日、さらに前進してイスラバを占領した。豪州軍の姿は見えず、多量な弾薬と食糧(乾パンと缶詰)が残置されており、144連隊にも分配した。144連隊は、死傷と病気で一個中隊5〜60名(上陸時180名前後)になっていた。
 堀井支隊長は、9月1日、小岩井大隊を前衛として、モレスビーへの前進を開始した。イスラバ占領をラバウルの軍司令部に報告するには、連絡兵をココダまで派遣しなければならなかった。ラバウルと交信できる無線機はココダにしかなかったからだ。大型で山地ジャングル地帯に運びこめぬ無線機は基地局としてココダに置き、前線からは携行した小型無線器で基地局と交信すれば軍司令部への連絡は可能と予想していたが、山地にはいると、地形の関係かココダ以遠は通信不能となり、連絡兵を派遣しての送受信は、うまくいっても4〜5日はかかり、場合によっては発信しても届かぬことも多かった。
 

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 (3)ガダルカナル、飢餓の攻防戦
 
 第17軍司令部では、8月19日には、一木支隊先遣隊のガダルカナル島上陸に成功の報を海軍から受けたが、上陸後の詳報がわからず気を揉んでいた。米軍上陸でジャングル内に逃げた海軍の根拠地隊員は、その後集合し、設置していた見張所の無線器を使って、偵察の潜水艦との連絡に成功していた。
 21日夜、海軍無線は、一木先遣隊が飛行場に到達する前に全滅に瀕す、と伝えてきた。発信者は「ガダルカナル基地」となっているだけで、具体的情報元が記載されていない。半信半疑でさらに情報を集めていると、「ガダルカナル島の日本軍700名中600名を殺し、他を捕虜にした」という米本国の放送を聞き不安を高めていたとき、海軍から連絡を受けた最初の「一木支隊全滅に瀕す」の電報は、一木支隊の通信将校榊原中尉が発信を依頼したもので、一木支隊長は自刃し、榊原中尉以下の残兵は、上陸地点タイボ岬付近に120余名が集結していることがわかった、支隊上陸後7日でわかった全滅であった。
 この前日、宮中で戦況上奏をしていた杉山参謀総長は「一木支隊はガ島の拠点を保持できるか。南海支隊はどうなっているか」と御下問を受けたばかりだった。
 一木支隊長は、ガダルカナル島北部中央のタイボ岬に上陸するや、後続してくる予定の支隊第2梯団への連絡要員を残し、支隊主力を率いて海岸沿いの徒歩道を西進した。攻撃目標の飛行場に少しでも近づこうと思ったのだ。夜を徹して歩き、午前4時半、タイポ岬から15キロのテテレで休息をとった。夜が明けた午前8時半、無線通信所の開設班と飛行場方面の偵察へ4組の将校斥候を派遣した。
 米海兵隊は、日本軍タイボ岬上陸の情報に接し一個中隊の捜索隊をパトロールに派遣したところ、将校4人と兵30名の日本軍偵察隊を発見、銃撃戦となった。先に相手を発見して急襲した米軍は、兵力にも勝り、自動小銃で三八式歩兵銃を圧倒して、ジャングルに逃げこんだ3名を除いて一木支隊偵察隊を全滅させたという。
 偵察隊全滅の報に怯むことなく一木支隊長は飛行場攻撃を決意、夜を待って飛行場手前のイル川まで兵を進めたが、尖兵がイル川に近づくと、自動小銃の射撃を受けた。応戦すると敵は少数で後退した。河口近くの砂州を越えれば、飛行場を護る敵の鉄条網である。
 8月21日未明、一木支隊長はイル川を渡って総攻撃を決行、砂州を越えようとしたとき、左前方の台上から猛烈な銃砲火を浴び、兵士たちがバタバタと倒れた。鉄条網を破り、突入した兵もあったが後につづく者はなく、機関銃小隊、大隊砲小隊も参加させたが、戦況は好転しなかった。さらに夜があけると、米軍の攻撃がはじまった。午後になると米軍戦車6両が出現、支隊背後にまわって日本兵を蹂躙、支隊を包囲した。兵力を失い、打つ手がなくなった一木支隊長は、軍旗を焼却して自決した。一木支隊の戦死者は777名、戦傷30名で、上陸して3日めにして散華した。タイボ岬付近には、戦線離脱者を含めて127名が残っただけだった。
 
 それでも17軍司令部は、2隻の輸送船で一木第二梯団をガダルカナルに向かわせ、海軍も陸戦隊を派遣、ラバウルから第8艦隊が出動して間接的に掩護していた。さらに連合艦隊も、機動部隊の第3艦隊を派遣、直接米機動部隊の攻撃を企図した。しかし発見は米軍のほうが早く、日本の2艦隊とも敵飛行艇に接触され、日本軍の偵察機は敵機動部隊発見を打電して消息を断った。日本軍も攻撃隊を発進させ、第一次攻撃隊が空母2隻の機動部隊を発見、空母1隻に大火災、もう1隻にも火災を発生させ、戦艦1隻に損傷を与えたと報告してきた。第二次攻撃隊は敵を発見できなかった。
 一方、直接ガダルカナル攻撃に向かった別働隊の空母龍驤の攻撃隊は飛行場を襲撃、米邀撃戦闘機20機と格闘戦になり、半数以上を撃墜し、地上には敵影なしと報告した。この間、母艦龍驤は米軍機の攻撃を受け、着艦不能の状態となり、帰艦した攻撃隊は次々に海上に不時着した。龍驤は駆逐艦とともに不時着のパイロットを救助していたが、午後六時浸水が激しく沈没した。大本営は、この戦闘を第2次ソロモン海戦と名付け、米大型新型空母1隻大破、中型1隻中破、米戦艦ペンシルバニア型1隻中破、我が方の損害は小型空母1隻大破、駆逐艦1隻沈没と勝利の発表をしたが、実態は日本軍の敗北で終った。さらに日本軍は、米軍の艦載機のガダルカナル飛行場(米軍はヘンダーソン飛行場と命名)への進出を許し、制空権を奪われてしまった。
 この海戦がはじまると、一木支隊第2梯団を載せた輸送船は避難していたが、海戦が終った25日朝、ガダルカナルへ向かおうと隊形を整えていたとき、米爆撃機が来襲、護衛艦隊旗艦を爆撃した。さらに別の一隊は海軍陸戦隊を載せていた金龍丸を爆撃した。被弾した金龍丸は、積んでいた弾薬が誘爆して大火災を起こし沈没した。さらに金龍丸の乗船者の救出作業をしていた艦船も爆撃された。これ以上進めば、損害が増え、ガダルカナル上陸前の全滅が必至である。上陸作戦は延期された。
 
 第17軍が編制された6月、ポートモレスビー攻略のためにニューギニアの山中を進撃している南海支隊のほかに、青葉支隊(第2師団の歩兵4連隊(仙台)基幹)と歩兵第35旅団(川口支隊)が配属されていた。歩兵第35旅団は、第18師団(九州・久留米)配下の歩兵第124連隊(福岡)を基幹とする部隊だが、南海支隊同様大本営の直轄部隊として、ボルネオ、フィリピンのセブ島、ミンダナオ島を攻略した後、第17軍の新設にともない配属された部隊で、川口清健少将が旅団長だった。この旅団は昭和12年、112連隊(小倉)と124連隊で編制され中国戦線で戦ってきたが、太平洋戦争開戦時に、114連隊は第18師団隷下としてシンガポール攻略戦に参加、第35歩兵旅団は114連隊を欠いたまま。支隊としてボルネオ、フィリピン南部で戦ってきた。  
 第17軍司令部では、既に弾薬も食糧も尽き果てた一木先遣隊の残兵への補給と飛行場の奪回のためには輸送船団での物資兵員の輸送を考えた。そのためには、無傷の輸送船団を送りこむために、上空に護衛戦闘機の出動と事前のガダルカナルの米機殲滅が絶対条件であったが、ラバウル基地にある海軍のゼロ戦や陸上攻撃機(爆撃機)は消耗し、実戦に参加可能な機数は合計30余機しかなかった。しかも、ラバウル-ガダルカナルは、海上1100キロ、ゼロ戦で片道4時間はかかる。軽自動車より小さなコックピット.4時間も閉じこめられたあとの空中戦は、身心の疲労が極限に達する。燃料は10分程度の空戦しか許されず、超過すれば帰りの燃料が足りなくなり、帰途に不時着機も出現した。ショートランドに不時着場を作って対応したが、ゼロ戦は日に日に減少していた。
 しかも豪州軍はソロモン諸島にコーストウオッチャー(沿岸監視員)を配置、ガダルカナル攻撃の日本軍機の動向は、ラバウル離陸直後から通報されていた。ガダルカナルのヘンダーソン飛行場の米軍機は、日本機襲来の直前に姿を消し、日本機退去と同時に姿を現していた。日本機の迎撃はすべて地上砲火で対応したのだ。日本軍の高射砲射撃と異なり、上空が真っ黒になるような弾幕射撃で、日本軍機は弾幕の黒煙に飛行場も確認できず、位置を推測して爆撃して帰路に着くと、グラマン戦闘機が襲撃してきた。護衛のゼロ戦は、空中戦を行うとラバウルまで帰着する燃料が足りなくなり、思うに任せぬ状態が出現し損害を増やした。
 
 第17軍司令部と海軍司令部は、ラバウルに向かっている川口支隊と一木支隊第2梯団の輸送を駆逐艦でおこなう方針に変更した。ヘンダーソン基地は完全に米軍機の基地となっていたが、ハイスピードの駆逐艦ならば夜間に上陸し、日の出前に敵の攻撃圏を離脱できる可能性が高いと判断したのだ。
 川口支隊は、総兵力約2千、打ち合わせ通り6百名を洋上で駆逐艦4隻に移乗させ、一木支隊第2梯団とともにガダルカナルに先行させた。残りの主力は、8月28日午前1時にラバウルに到着した。支隊長はただちに歩兵一二四連隊の第一大隊主力を駆逐艦に載せ、ガダルカナルに向かわせた。支隊長以下主力は輸送船でショートランドに向かった。そこで駆逐艦に移乗して先行部隊を追うはずだった。
 ところが、洋上で駆逐艦に移乗した川口支隊第1梯団を載せた第20駆逐隊の駆逐艦は燃料不足でスピードがだせず、ツラギ島の北西の海上で米軍機の爆撃を受け、駆逐艦1隻が轟沈(瞬時に沈没)、2隻が損害を受けた。無傷だった1隻が航行不能に陥った駆逐艦を曳航、空しくショートランドに引き返してきた。轟沈した「朝霧」に乗っていた124連隊の第7中隊は、被爆時に上甲板で水を汲んでいた上等兵1名を残して全滅した。
一木支隊第2梯団を乗せた第24駆逐隊の3隻は、空爆被害を受け、作戦延期の命を海軍第8艦隊から受け、ショートランドに帰投して、攻撃第1波は不発に終った。
ショートランドに向かっていた川口支隊長は、第1波進攻の失敗を報告されて出鼻をくじかれた。特に轟沈した「朝霧」に乗っていた第7中隊全滅の悲報に衝撃を受けた。同時に海軍への不信感を抱いた。ボルネオ攻略戦では、海岸線を上陸用舟艇ダイハツで移動しながら戦闘を重ねて成功してきた川口支隊長は、今回もソロモン諸島沿いに小型舟艇で、敵機の襲撃を避けて夜間のみの航海をすれば、ガダルカナルに到達できる可能性が高いのではと考えた。昼間は島のジャングルに潜んでいれば、敵の襲撃は避けられるというのだ。
第17軍司令部では、駆逐艦輸送の協定を海軍と交わした作戦をいまさら変更できないと反対したが、ボルネオ作戦で成功した川口支隊長の自信の前に、海軍も一部の舟艇輸送に同意した。目前のガダルカナル上陸を目途とする第17軍司令部も渋々同意した。

 川口支隊長がショートランドに到着した8月29日、ラバウルから直接ガダルカナルに向かわせた歩兵124連隊第1大隊が、一木支隊第2梯団とともにタイボ岬上陸に成功した。8月31日、支隊長は、支隊本部以下約千2百名を率いて駆逐艦7隻に分乗、タイボ岬近くのタシンボコへの上陸に成功、先着の第1大隊主力および一木支隊を掌握した。さらに青葉支隊の1個大隊も派遣され、川口支隊の指揮下に入った。
一方、支隊長が強硬に主張した舟艇機動部隊は、歩兵124連隊長岡明之助大佐が指揮する第2大隊を主力に、9月1日払暁にショートランドを駆逐艦で出発、ベララベラ島とバンガラ島の間の小島ギゾ島で50余隻の舟艇に移乗、ソロモン諸島沿いに東進、9月5日未明、ガダルカナル島らしき島影を視認できたが、明るくなると米軍機に発見され、銃爆撃に曝され、算を乱しての上陸となった。航海中にソロモン海の激しい風浪、機関故障による脱落、上陸時の銃爆撃による犠牲者など損害も多かったが、川口支隊主力が集結していたタイボ岬から数十キロ西のエスペラン岬、カミンボ周辺にばらばらに上陸して、舟艇団同士の連絡もとれず、川口支隊長も掌握するのに時間がかかったが、川口支隊の兵力は6千名を越えた。

 大本営では、ソロモン方面の戦局の重大化に伴い、ポートモレスビー攻撃部隊は急速前進することなく、進撃準備を充分に整えてから再攻することにし、第17軍にはガダルカナル用部隊として第2師団(仙台)の増派を決定した。17軍司令部では、ガダルカナルにこだわって損害を重ねるよりも放棄したほうがいい、とガダルカナル放棄論もでていた。とはいうものの、ガダルカナルに到着したばかりの川口支隊の支援が最優先である。そのために、スタンレー山中をポートモレスビーに向かっている南海支隊の前進を控えるべきであるとの意見が出て、南海支隊はソロモン方面の戦況悪化に伴い、一部はココダ方面に転進して、米豪軍の上陸に備えよと発信した。9月4日のことである。

川口支隊長は、9月12日に総攻撃をかけて飛行場奪取を決意した。海軍も、マレー方面やチモール島の航空部隊をラバウルに進出させ、保有機も100機を超えていた。
川口支隊長の作戦は、主力攻撃隊を飛行場南方に迂回させ、一木支隊第2梯団を右翼隊として東方から、650名ほどの岡連隊長の舟艇機動隊が西側から飛行場を攻撃する作戦で、全戦力を投入して一夜で飛行場占領を目論んでいた。制空権を有し、戦車30輌の圧倒的な火力の米軍に、夜明け後の対決を避けたかったからだ。
ところが、攻撃のための夜間移動はジャングル内で方向を失い、各部隊の隊形が揃わなかった。一部で戦闘がおこなわれたが、川口支隊長は総攻撃を翌13日に延期した。
 9月13日午後8時、川口支隊の総攻撃は、ジャングル内を迂回した主力が飛行場を南方から攻撃、舟艇機動部隊も西側から飛行場へ突入する予定であった。 戦闘開始とともに南方迂回部隊の青葉支隊田村大隊(第2師団)が鉄条網を突破して逃げる敵兵を追って敵陣深く突入、米軍司令部を占拠した。さらに一部は滑走路を横断して一帯を確保したが、体勢を立て直した米軍に反撃されながら朝を迎えた。右翼部隊は鉄条網を突破できず、左翼岡連隊は敵の砲撃を受けたが交戦に至らなかった。
 14日の朝を迎え、敵の砲火は激しく、支隊長はこれ以上白昼の戦闘は不可能と判断、午前11時各隊に戦線を離脱して集合するよう命じた。唯一、敵司令部を占領した青葉大隊長田村昌雄少佐は、予備兵力があれば勝てた戦いだったと悔しがった。川口支隊の犠牲者はおよそ千名、生き残った5千名はジャングル内に身を潜めて再攻を企図したが、食糧、弾薬が尽きていた。大量の物資を運ぶには輸送船を使えば可能であるが、速度の遅い輸送船では昼間の航海となり砲爆撃に曝されることが多かった。スピードの速い駆逐艦なら夜間の航行揚陸ができるが運べる量が少なく、既に深刻な飢えになやまされていた兵士たちの腹を充たすに至らなかった。
 川口支隊の敗因は、想像を絶する飢餓と米軍の制空権下、夜のジャングル内の移動では方向がわからなくなり各部隊の統制がとれず、米兵所持の自動小銃の火力に圧倒された。自動小銃の威力は、日本兵の全員が初体験で衝撃を受けた。日本陸軍は、明治38(1905)年に正式採用した三八式歩兵銃を使用していたが、命中精度は良かったが連射ができず、自動小銃には対抗できなかった。さらに長い銃身が、ジャングル内での戦闘では行動を阻害した。

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 (4)遠かったモレスビーの灯
 
 川口支隊がガダルカナル飛行場奪取の総攻撃を開始した9月13日、オーエンスタンレー山脈の分水嶺を越えてポートモレスビーを目指していた南海支隊は、モレスビーまで60キロのイオリバイワの攻撃を開始した。南海支隊は、ニューギニア上陸以来1度も正規の補給を受けていない。1日1合の節食を重ねてきたが、各自が携行した食糧は尽きかけている。飢餓状態にくわえてマラリアや下痢などの傷病兵が増えていたが、ポートモレスビーを占領すれば敵の食糧を奪える、と戦意旺盛に豪州軍の陣地を力攻し、9月16日朝に豪州軍陣地を占領した。そこから視界を遮るものはなく眼下に広がるジャングルの果てに、うっすらと海が見えた。パプア湾だ。「海が見える。モレスビーの海だ」血みどろの将兵たちは岩の上で抱き合い涙を流して喜んだ。夜になると、ポートモレスビーの灯も見えた。南海支隊には、3人の新聞記者が報道班員として参加しており、「ポートモレスビーの灯が見えた」と勝利の記事が、日本の新聞にも掲載された。
 ところが41連隊主力に、後方ココダへの撤退命令がだされた。日本軍では、命令には絶対服従が義務とされていたが、このときの命令下達には、楠瀬連隊長が真っ向から反対した。飢餓と峻険な山岳に苦労しながら戦い、多くの部下を失った連隊長は、いまさら占領地を捨てて退却するなんて決して容認できることではなかった。傷つき死んでいった兵隊たちに申し訳が立たない。参謀長にも強硬に抗議した。中隊長クラスの若手将校も色をなして反対した。モレスビーの灯を見ながら、いまさら撤退はできないというのだ。支隊長幕舎(天幕)に異常な緊張が走り、殺気立った。黙って聴いていた支隊長が低い声で「天皇陛下のご命令だぞ」といって大本営からの電報をみんなに見せた。
 「天皇陛下……」と聞いた瞬間、将校たちは凍りついたように姿勢を正した。楠瀬連隊長も半歩下がって、踵と踵をぶつけるように不動の姿勢をとった。もう誰も撤退に反対はしなかった。命令下達と聞いて取材に集まった報道班員たちが、その場に居合わせた。支隊長の一言で態度を急変させた日本軍の厳粛さを目の辺りにしている。
 ラバウルの第17軍司令部と南海支隊の無線連絡はココダまでで、イオリバイワへは山中を、連絡兵が一週間かけて届けていた。堀井支隊長が受け取った命令は、最速で1週間前の発令である。戦闘中の堀井支隊長は、命令をその場で下達できず、何日か手元に置いていたらしい。支隊長も、撤退するのは無念であった。前の日に谷川で米を研ぐ兵隊に「これを食ったら食糧は全く無くなる」と聞いた。支隊長自身の夕食にも少量の雑炊を供されただけだ。すでに飢えて落伍した兵隊もいる。前進をつづければ、ポートモレスビーに着く前に全滅する可能性が強い、と数日前に届いた撤退命令を実行する気になったらしい。
 9月20日から、傷病兵を担架に乗せて撤退を開始した。まだ軍隊としての統制がとられていた。報道班員にも撤退命令がでた。非戦闘員の君たちに供与する米が惜しいから、早めに退散してくれというのだ。撤退作戦は、漫然と退却するわけにはいかない。大本営はモレスビー攻略は中止撤退せよと命令すればそれですむが、第一線では簡単に逃げだすわけにはいかない。イオリバイワの第一戦で敵と対峙している144連隊を撤退させるために、追尾する豪州軍を阻止する後衛部隊を41連隊第2大隊に命じた。大隊長小岩井光夫少佐は生還して、戦後「ニューギニア戦記」を発表し、防衛庁(当時)の公刊戦史にも貴重な記録として引用されている。
 小岩井大隊は、イオリバイワを占領した144連隊の撤退を掩護するために、イオリバイワ数キロ後方のマワイの集落に防御陣地を築いた。144連隊が撤退してくれば、追尾する豪軍を撃退し、144連隊の後方から豪軍を防ぎながら共に退却する作戦命令である。
 負傷者や病人は残らず担架で運べと命令された。が、兵四人で一つの担架を搬送したが、担ぐ兵も体力がなく脱落した。野戦病院が設営されていたが、ガーゼがなく木の葉で代用していた。軍医は、食べるものがなくなったら死んだ戦友の肉を食べろ、そうでもしてたんぱく質を補給しなければ、自分が死ぬぞ、と人肉食を勧めた。傷病兵を担送していた兵士たちが、体力を失い傷病の戦友を置き去りにして退却するようになるのに時間はかからなかった。苦戦はしたが、まだ一度も負けたことがない兵士たちがとぼとぼと足を運んだ。軍服は襤褸となり、階級もわからない。将校が兵士に物乞いをする場面も出現した。こんな状況が、一気に戦意を喪失させた。
 114連隊第2大隊長堀江正少佐の姿が退却する兵の中に見られた。陸軍大学受験のために帰国するという。

 41連隊の第3大隊長小林朝男少佐は転勤のため帰国するが、その前にラバウルに寄って17軍司令部に南海支隊の現状を報告せよと命令されたと任務を強調した。現地軍の実情を知らぬ大本営、陸軍省の発令だが、戦局の急変に対応しなければならない時期に、第一線の戦闘部隊の中枢ともいうべき大隊長を2人も引き揚げる官僚的無神経さは、退却部隊の士気を低下させ、組織への信頼を失わせた。撤退部隊から逃亡するように2人の大隊長が姿を消した。

 10月6日、ラバウルの軍司令部で、小林少佐は「南海支隊の補給は極度に逼迫して行き倒れ患者が続出、しかも敵の圧迫は日とともにくわわり、状況は楽観を許さない。速やかに補給増加のため、駆逐艦輸送を願いたい」と報告、駆逐艦補給を要請した。しかし17軍司令部では南海支隊の苦境は理解したが、現実には再度のガダルカナル飛行場奪回作戦の発動で、意識は完全にガダルカナルに向いており、南海支隊はガダルカナル戦線が落ち着くまで待ってもらうしかなかった。

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 (5) 戦力の逐次投入と大本営の無責任 
 
 第17軍司令部では、川口支隊の総攻撃失敗後、ニューギニアに投入予定の第2師団(青葉支隊の所属師団)をガダルカナルに転用を決定し、師団長丸山政男中将は第29連隊を基幹とする主力を率いて10月3日にガダルカナルに到着して、一木支隊の残兵、川口支隊、さらに青葉支隊を復帰させるなど隷下部隊を掌握した。
 大本営も辻政信参謀を派遣、現地での作戦指導に当たらせた。辻参謀は、川口支隊の総攻撃失敗の原因は、地形のはっきりせぬジャングル内の迂回作戦にありと判断、正面から2万の兵力での力攻作戦を立案、トラック島に停泊中の『戦艦大和』に連合艦隊の山本五十六司令長官を訪ね、艦隊の護衛掩護を承諾させた。
 17軍司令官百武晴吉中将も、軍戦闘指令所を現地に推進させることにして、辻参謀とともに、10月8日夜、駆逐艦輸送でガダルカナルに前進した。さらに38師団(名古屋)の東海林支隊(230連隊基幹)も第2師団に配属した。これらの兵員輸送は駆逐艦でおこない無傷で上陸できた。食糧、武器、弾薬の輸送は海軍護衛のもとに輸送船6隻でおこない、14日午後10時、ガダルカナル島西北部のタサファロング錨地に到着した。
 兵員はただちに上陸したが、弾薬・食糧の揚陸は徹夜の作業中、未明に敵機の銃爆撃を受け、揚陸作業は思うに任せなかった。夜が明けると空爆はさらに激しくなり、揚陸した積荷の相当量が焼失した。17軍司令部では、この船団で揚陸できたのは兵員全員と弾薬の五分の一、食糧は半分と判断した。全部隊の一か月分を輸送した食糧は半月分しか揚陸できず、弾薬は目論見の2割しか使えぬとあって作戦の変更を余儀なくされ、正面からの力攻を避け、川口支隊と同じようにジャングル内を迂回して、飛行場の側背面からの突入に変更された。攻撃日は20日を予定していたが、ジャングル内の夜行軍が難渋を極め、24日に延期された。夜のジャングルでは漆黒の闇を手さぐりで進んだが、正確な方角や地点を確保するのは至難の業である。飢えとマラリア、下痢に苦しむ兵たちは、前を行く兵士の背中も見失うことがあった。
 10月24日の総攻撃を前に、右翼隊長とされていた川口支隊長は、辻参謀と意見が対立し、師団長命令で罷免された。軍司令部には連絡されず、丸山師団長、玉置師団参謀、大本営辻参謀の謀議で発令された。後任は、第230歩兵連隊長東海林大佐とされた。
 前回の川口支隊の総攻撃以後、米軍の飛行場防備はより堅固となり、第2師団の総攻撃もあえなく失敗した。第2師団上陸以来20日に及び、食糧事情は益々逼迫していった。さらに大本営は、ガダルカナル奪取の望みを託し増援部隊の第38師団の主力と補給品を積んだ11隻の輸送船団を送りこんだが、到着前に6隻が撃沈され1隻が航行不能となり、11月14日夜に到着した4隻の輸送船は、夜を徹して食糧、大型火器の揚陸作業を進めたが、夜明けとともに砲爆撃を受け大半が灰となり、上陸した兵士たちが携行した一日半分の食糧だけであった。将兵の飢餓状態は益々深刻となった。
 日本海軍は、米海兵隊がガダルカナルに上陸した直後の8月8日、第8艦隊が米豪連合軍艦隊を攻撃して勝利を収め、その後空母龍驤を激沈されたが、潜水艦攻撃で米空母「ワスプ」を撃沈するなど健闘した。しかし、ガダルカナルに航空部隊を進出させた米軍に、日本軍は飛行機の補充ができず、制空権は完全に連合軍に握られ、速度の遅い輸送船での補給が不可能となり、駆逐艦や潜水艦の夜間輸送に頼るしかなくなった。
 大本営参謀は、なおもガダルカナル奪回の希望を捨てず、グアムに輸送中の混成第21旅団(山県栗花生中将)、中国・広東に駐在していた第51師団(宇都宮・中野英光中将)のラバウル派遣を決定した。また、第8方面軍(司令官今村均中将)を創り、新たにニューギニア担当の第18軍(安達二十三中将)を編成、17軍の負担を減らしたが、実際には食糧補給ができず、ガダルカナルの状況はさらに過酷になった。ヤシの木はあるが、食べ尽くして実は一つもない。ヘビやトカゲも見つからない。ヤシの新芽や雑草を煮て食べた。風雨に曝された軍服はボロ布となり、飯ごう一つをぶら下げて食べ物を求めてジャングルを彷徨する幽鬼の群れが日本軍であった。「ここは餓島だ」と自嘲的にいっていた。
 こんな実情を、大本営派遣の参謀たちは目撃しながら、次々に作戦を立案したのだ。
 
 ガダルカナルで第2師団の攻撃が失敗した時期、撤退命令を受けたニューギニアの南海支隊主力は、次々にココダへ到着していた。つい2、3週間前に戦闘に勝利しながら前進した同じルートを、徒歩不能の傷病兵を助けながらの後退に戦意を喪失していた。一人の歩行不能の傷病兵の担送もままならず、症状に重軽はあるが、全員が栄養失調で体力はなく、下痢やマラリアの症状がでている。ひとりが倒れれば担送は不可能となる。担架で運ばれる傷病兵も意識があれば「置いていってくれ」と懇願する。「ココダに着いたら、元気な兵を迎えに寄越す」と手榴弾一個を与え、その場に担架を置いていった。撤退するときには、銃を捨てた兵も多かった。銃を捨てよ、と命令された部隊もある。砲を埋めて撤退せよと命じられた砲兵隊では、砲は運搬していくと主張した若い中隊長が、命令通り砲を埋めた後、拳銃自殺をする騒ぎも起った。
 補給基地といわれていたココダには、次々に兵士たちが到着したが、期待していた食糧は2合(300グラム)の米が与えられただけで、満腹感はおろか飢餓感の解消もできなかった。ジャングル内に辛うじて雨露をしのぐ小屋を建て4、5人がグループとなって棲みついた。次々に後退してくる兵士たちは、軍に配られた少量の米にジャングル内で採取した野草を混ぜて雑炊にして食べた。体力に余裕があれば、現住民のイモ畑を探してイモを盗もうとしたが、近くの畑は既に荒らされている。軍服の面影が失せたボロ布をまとい、武器は剣だけ、誰もが飯ごうをぶら下げて原住民の畑のイモを探しまわった。一歩ジャングルをでると、敵機が飛び回り日本兵と見ると銃撃してくる。日本機の姿はもとより爆音すら聞こえない。1万名の1か月分の糧秣がブナに揚陸されたとの話が伝わってきたが、ココダには届いた気配はなかった。ブナからココダへ届けるには、昼間は敵戦闘機の跳梁で主に夜間輸送で運ばれたが、大半は輸送隊の胃袋に消えたらしい。
 ココダには、続々と撤退部隊が集結したが統制がとれず、食糧泥棒が横行した。食糧以外の盗難も多く、イオリバイワまで戦いつづけて雨に打たれてジャングルを歩きまわった兵士たちの靴もぼろぼろだ。裸足に布切れを巻いただけの兵士がいる、みんなひげがぼうぼうと顔を覆い、裸の胸には肋骨が浮かび上がっている。少しばかりましな毛布や靴は、死体からも剥ぎ取られた。病んだ兵士たちは次々に死んで靴や飯ごうを剥ぎ取られた。
 

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 (6)南海支隊、消滅す
 
 10月初旬、米豪軍は、ニューギニア東南端ミルン湾のワニゲラに空挺部隊を降下させ、舟艇で日本軍の揚陸地点のブナ海岸一帯を窺う姿勢を見せた。さらに、イオリバイワ方面から日本軍の追撃を開始、撤退中の南海支隊の包囲を計画していた。
 南海支隊の後衛第144連隊に米豪軍が接触したのは、オーエンスタンレー山脈の分水嶺ギャップの峠で、日本軍の抵抗が3週間つづいたが10月末にはココダに撤退、臨時輜重隊とされていた41連隊の2個大隊も復帰し、全軍がブナ、ギルワなどの海岸線を目指した。補給を受けるにも、ラバウルへ撤退するにしても、海岸線に拠点を確保しておかなければならないからだ。ココダからブナ、ギルワに向かうには、クムシ川を渡河しなければならなかった。モレスビー目指して進軍してきたときは、工兵隊が架設した吊り橋を渡ったが、その後連合軍機の爆撃に跡形もなくなっていた。川幅は一〇〇メートル、深さ二メートルのクムシ川は折からの雨に増水しており、渡河点を探すのに難渋した。昨日から海岸線のギルワ方面で激しい砲声が響き、米豪軍が迂回して退路を遮断しようとしている。堀井支隊長は、イカダを組ませ、参謀、副官、下士官数人が乗って濁流を下った。しかし、イカダは2、3キロもいかぬうちに大きな倒木に引っかかって動かなくなってしまった。一行はイカダを捨て、川沿いに歩いていたら乗り捨てられたカヌーを発見、支隊長と参謀、当番兵の3人だけでクムシ河口へ進んだ。ギルワ方面の砲声はつづいていた。支隊長は、河口から海に出て、そのままギルワに向かうように指示したが、海上に出たカヌーは突風にあおられて転覆、泳げない参謀は行方がわからず、当番兵とともに岸に向かって泳いでいた支隊長は、途中で力尽きて海没した。
 クムシ川の渡河は、それぞれの撤退グループによって実行されたが、イカダを作って武器や衣類を載せ、兵士たちは素っ裸でイカダに掴まり流れにまかせて流されながら対岸に渡った。イカダにしっかり掴まっていないと激流に引き込まれて水中に消える。流れるイカダが倒木に衝突し、衝撃に水中に放りだされた犠牲者も多かった。「各自で渡河し、河口に集合せよ」と部隊行動を停止した大隊もあった。部隊命令でイカダを利用して渡河しても、上陸地点がばらばらで、小グループで海岸に向かった。
 クムシ川河口の南十数キロにゴナ、さらに数キロにパサブア、ギルワ、ブナと日本軍の揚陸基地があった。この地区をばらばらに目指した日本兵たちは、原住民の集落を発見してタロイモなどの食糧を振る舞われ一息つくグループもあったが、幸運に恵まれず飢えと下痢に行き倒れて生命を失った兵も数えきれない。ゴナには、日本軍の陣地があり、久しぶりに少量の米食にありつき、海水を腹一杯飲んだという。山中では塩分の補給ができず、身体が塩分を要求し、争って海水を飲んだ。そして、自分たちが第18軍の隷下にはいったと知らされた。すぐに応援部隊がやってくる、とみんな喜んだ。
 
 このころ、パサブア、さらに東のギルワでは、連合軍と日本軍の激戦がつづいていた。堀井支隊長戦死後、工兵隊の横山与助大佐が、ギルワ近くのジャングル内で指揮をとっていたが、パサブワ、ギルワ、ブナ周辺の日本軍陣地は、それぞれ攻撃されていたが、戦闘能力のある健常兵は少なく、傷病兵や補給運送の作業員も1人用のタコ壷壕に立てこもって敵の砲撃に耐えていた。最初に危機を迎えたのはパサブアで、完全に包囲されて本部との連絡がとれなくなった。
 第18軍は、南海支隊の置かれた状況はある程度は把握していたが、派遣できるのは独立混成第21旅団(山県栗花生少将)の2個大隊と第38師団の1個大隊と南海支隊の補充員しかいなかった。とりあえず、堀井支隊長の後任として小田健作少将を任命し、第21旅団とともに駆逐艦輸送でニューギニア向けて、11月29日にラバウルを出港させた。ところが制空権は連合軍に握られ、航海中に米軍機の爆撃で駆逐艦の半数が被弾してラバウルに引き返した。パサブア近くに上陸できたのは歩兵1個連隊と山砲1個中隊だけで、小田支隊長もラバウルにもどった。
 12月1日に再度輸送駆逐艦隊はパサブアに向かったが、既に戦場となっていたパサブア泊地では、到着と同時に敵機の攻撃を受け、輸送兵員を乗せたまま避難、一部が北方のクムシ川河口に避難して4百名余の兵員と21旅団の山県旅団長を上陸させたが、小田南海支隊長はまたも上陸できなかった。
 12月14日、小田支隊長はやっと上陸できたが、予定のブナの北80キロのマンバレー河口で、これが駆逐艦輸送の最後となった。さらに上陸した小田支隊長に、パサブア守備隊の玉砕が告げられた。
 
 パサブア守備隊は、工兵だった山本恒市少佐が指揮する5百名ほどの部隊で、主力は食糧弾薬運搬のために徴用された台湾出身の高砂義勇兵だった。高砂義勇隊員は、死亡した日本兵の銃や奪った豪州兵の銃を手にタコ壷にはいって勇敢に戦った。ほかにも飛行場設営隊の作業員も銃をとった。豪州軍は猛烈な砲撃をしてきたが、その間は豪の中に隠れ、近づいてくれば顔を出して銃や手榴弾で撃退した。戦死者がでれば、それを目の前に置いて遮蔽物として利用した。豪州軍の記録に、日本兵の死体が並べられていると思って近づくと、死体が立ち上がって銃を撃ち、手榴弾を投げてきたと書かれていた。死体の陰に隠れていた兵が表に出て戦ったのだが、痩せこけて髪もひげも茫々とのびた容貌は死体と思ったにちがいない。それにしても1個旅団の豪州兵(数千名)の集中砲火を、5百人前後の兵力で二か月間も防いだのは奇跡に近い。毎日、数万発の砲撃を浴びたが、その間は息をころしてタコ壷壕に潜んでいた。砲撃が止み、豪州歩兵が近づいてくると、壕内の兵士たちは立ち上がって手榴弾を投げ、銃撃で応戦した。豪州兵も勇敢で、損害にもめげず、執拗に攻撃を繰り返し、開戦1周年の12月8日、日本軍守備隊は玉砕した。
 
 大本営参謀本部の作戦部長田中新一少将は、ガダルカナル奪還のためには、さらに増援部隊の派遣が必要で、そのために陸軍省に37万トンの輸送船を要求した。
 大本営は、戦時下に設けられた天皇直属の統師機関で、陸軍参謀本部と海軍軍令部があり、それぞれ陸海軍の作戦を立案し、天皇の裁可のもとに作戦実施の命令を下すが、人事、予算の執行などの行政権は内閣——陸軍大臣にあった。従って田中部長が新たに立案したガダルカナル奪還作戦を実施するために、陸軍省に民間船舶の徴用を要求したのである。ところが陸軍省では、開戦前の予想を大幅に上まわる民間輸送船の消耗に、田中部長の要求に応えるのは不可能であった。交渉を重ねるうちに激昂した田中部長と陸軍省軍務局長佐藤賢了少将は殴りあいのケンカとなった。居合わせた部下たちが間にはいりおさまったが、陸軍少将で閣下と尊称で呼ばれる身分の2人が殴りあうとは、前代未聞の出来事であった。さらに田中部長は、陸軍大臣(東條英機首相の兼務)に向かって「バカヤロー」と口走り、南方軍付に左遷されてしまった。
 12月初旬を過ぎると、参謀本部内でも、『撤退』を考える参謀も生まれていたらしいが、誰も正式に言いださない。帝国陸軍では『退却』や『撤退』は禁句だったのである。南東方面艦隊司令部では大前敏一参謀を現地視察に派遣したが、「飢えと病で立っているのが不思議なくらいに痩せ衰えた兵士たちには、戦意が全く見られない。私が今まで見た日本軍ではありません。ただ呼吸しているだけで、戦う意欲や思考能力を失ったよその国の軍隊です」と大前参謀は報告した。この報告と撤退を言い出せない陸軍の状況を聞いた山本五十六連合艦隊司令長官が、軍令部(海軍統師部)に撤退を進言した。陸軍も、田中作戦部長更迭後、作戦課長服部卓四郎大佐も真田穣一郎大佐に交代、現地ラバウルと相談の上撤退を進言した。
 
 昭和17年12月31日の大晦日、これ以上の補給は不可能として、大本営はガダルカナルからの撤退を上奏して裁可を得て、年が明けた1月4日に第8方面軍に発令した。
 ガダルカナルからの撤退命令を受けた第8方面軍や撤退作戦を実施する17軍にしても、それまでは食糧補給をつづけなければならない。
 一方、ニューギニアでは、正月2日にブナの守備隊が玉砕した。ブナに攻めてきたのは、米陸軍の32師団で、マッカーサー米豪軍総司令官が、特にブナ陣地攻略のために任命したアイケルバーガー中将が師団長として指揮をとっていた。米軍はジャングルを切り開いて舗装した軍用道路を作り、戦車まで動員して攻撃してきたのである。
 ブナの陥落で、この地区に残る日本軍陣地はギルワだけになってしまった。ギルワは横山工兵大佐が2千名近い南海支隊員を統括していたが、新支隊長小田健作少将が合流して全部隊の指揮をとるようになった。しかし米豪連合軍は、東からはブナを攻略した米軍、西からはパサブアを占領した豪州軍と腹背に迫ってきた。
 1月13日、第8方面軍は、第18軍にギルワ、ブナ周辺の日本軍の撤収を命じた。南海支隊員は海陸から敵中をクムシ河口付近に後退、さらに大発船艇でラエ方面に転進した。小田支隊長は自決し、ブナ方面の戦闘は終結したが、この作戦に参加した陸海軍将兵は合計1万5千9百名、オーエンスタンレー機動間に4千5百名、ブナ周辺の陣地戦で8千名の将兵が戦没し、撤収できたのは3千4百名であった。
 
 ガダルカナルからの撤収作戦は、2月1日、2月4日、2月5日の三夜にわたり、駆逐艦隊で1万6百名を救出(撤退)し、ブーゲンビル島の野戦病院に収容した。第17軍司令官も、最後の駆逐艦で兵士たちと一緒に運ばれた。ガダルカナルに投入された総兵力は3万5千、2万数千名が戦没したが、その7〜80%が餓死、病死者であった。失敗続きの大本営のガダルカナル作戦であったが、最後の撤退作戦は、米軍も全く気がつかぬ間に成功させたもので、唯一成功を収めた作戦である。これは撤退命令を実施するに当たり、井本参謀に第38師団の補給大隊を引率させて派遣、ガダルカナルの部隊には撤退を知らせず、次の総攻撃のための増援軍として上陸させた。敵を欺く前に味方を欺いた作戦だった。ガダルカナルの将兵は総攻撃の準備と知らされ、エスペランス岬とカミンボ岬に集合してから撤退を知らされ、感極まって泣き出す兵士もいた。補給大隊は撤退兵の乗船を助けたり、第三次の撤退部隊の殿軍となって敵の攻撃に対処できるように備えていた。全員乗船したとしらせられて、駆逐艦「浜風」からはメガホンで、「残っている兵はいないか」と夜のジャングルに叫びつづけたというが、餓死寸前の相当数の傷病兵が残置された。
 こうして半年にわたるガダルカナルの死闘は終った。
 

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 (7)意味不明の大本営発表とダンピールの悲劇
 
 2月9日、今までガダルカナルの戦いに口を閉ざしていた大本営は、初めて「昨夏以来南太平洋に挺身、敵の強靭なる反攻を牽制破砕しつつニューギニア島及びソロモン群島の各要線に戦略的根拠を設定中のところ、概ね完了し茲に新作戦の基礎を確立せり」と発表した。ガダルカナル島で作戦中の部隊は、上陸せる優勢な敵軍を同島の一角に圧迫し、その目的を達成したので他に転進させ、ブナ付近の部隊は寡兵よく敵の反撃を封じ、一月下旬陣地を徹し他に転進せしめたというのだが、数度のソロモン海戦に勝利したと知らされていた国民は、ガダルカナルやブナからの転進の意味がわからず、戸惑っていた。
 
 ガダルカナルからの撤退は、陸海軍の負担を減らしたのは事実だが、同時に日本軍最南の基地ラバウルの防衛が最重要課題となった。ラバウル防衛のために、ブーゲンビル島に第6師団(熊本)を進出させた。さらに撤退したばかりのニューギニアのブナ地区に代わる拠点として、海軍が飛行場を建設していたラエ・サラモア地区に兵力を増加して、再度モレスビーを窺う作戦を大本営は立案した。これは、ガダルカナル撤退以前から第18軍に要望されていたのだが、ブナ地区から撤収作戦中の18軍は第20師団(朝鮮・羅南)の一部を派遣しただけだった。
 ラエ・サラモア地区は、ラバウルのあるニューブリテン島に向かって突き出たフォン半島の付け根にあり、半島最先端のフィンシュハーヘンはニューブリテン島最西端から120キロである。ガダルカナル海域に陸軍機の派遣

を期待した昭和天皇の質問に、陸軍機の派遣は考えていませんと杉山参謀総長は応えた。ラバウルからガダルカナルまで片道四時間の洋上飛行後に10分しか余裕のない空戦、さらに追撃をかわしながらの洋上帰投は、陸地上空での訓練しかうけていない陸軍機には対応できない戦場環境だったが、新ニューギニア作戦では、洋上飛行は最大でも100キロ前後と判断、陸軍第六航空師団(戦闘機約60機)を派遣、海軍機と協力することにした。上陸部隊は、ガダルカナル進攻のためにラバウルに進出していた第51師団(宇都宮)の主力7千名が分乗した7隻の輸送船を8隻の駆逐艦が護衛し、上空からは陸海軍機70機が敵の襲撃に備えることにした。輸送船を連ねた大上陸作戦は久しぶりで、この輸送船団は、東條首相を「バカヤロー」呼ばわりして左遷された田中新一少将の迫力に妥協した陸軍省が融通したのであろうか。
 ガダルカナルと違って上陸地点は近く、さらに上空には護衛戦闘機が眼を光らせているし、河を渡るようなものだ、と大本営は楽観していた。

 2月28日午後11時、護衛駆逐艦に護られた輸送船団は風雨をついてラバウルを出港した。翌3月1日も悪天候がつづいたが、護衛戦闘機が上空から眼を光らせていた。敵の攻撃はなかったが、午後7時過ぎ、船団の左前方の暗闇に、突如吊光弾の照明が輝いた。吊光弾は連続して投下された。航空機の空爆攻撃か。潜水艦の魚雷攻撃か。船団内に緊張が走った。しかし、吊光弾の照明は消え、敵の動きがないまま、3月2日の朝を迎えた。攻撃はなかったが、船団の行動が補足されたことは確実である。
夜が明けた8時前、B17爆撃機7機が発見され、直援機が迎撃して追っ払ったが、10分後に3機編隊が現れ駆逐艦がいっせいに射撃を開始した。すると別の3機編隊が現れ、防御砲火の間隙を縫って高度2千メートルの水平爆撃で輸送船旭盛丸に命中させて沈没させた。他に3隻の輸送船が被弾したが、この段階では航行は続行できた。沈没した旭盛丸に乗船していた歩兵115連隊第3大隊は、819名が駆逐艦に救助された。
 この日の午後、船団は2回のB17の攻撃を受け、若干の死傷者をだしたが、直援機の活躍で撃退した。
 翌3日午前零時、駆逐艦で先行していた第51師団長中野英光中将の一行がラエに到着した。夜が明けると快晴の天気で、船団は夕方にはラエに到着する予定だった。
 だが午前8時、敵戦爆連合の百4~50機の攻撃隊が、超低空で襲いかかった。当番の海軍護衛戦闘機は、高空からの襲撃を予想して、比較的高高度で待機していたため、超低空の侵入を許してしまった。しかも敵機は、低高度反跳爆撃の新戦法で攻撃してきた。反跳爆撃とは、skip bombingと呼ばれる爆撃で、爆弾を海面すれすれの高度で投下して、水面反跳力を利用して艦船の舷側に命中させる戦法で、男の子なら誰でも池や川で小石を水面に投げて水を何回切って跳んだかを競った経験があるはずだ。その〝水切り〟の原理を応用したのが反挑爆撃である。
 飛行機が海上の艦船を攻撃するとき、真上から攻撃する爆撃と真横から攻撃する魚雷攻撃があるが、真上から見る艦船の面積は意外に小さく、魚雷攻撃の場合は喫水線の下しか攻撃できない。反挑爆撃は、喫水線の上下を問わず命中すれば、艦船の横っ腹に穴を開け、与えるダメージは大きい。しかも艦船の横腹は大きく、狙い易い。
 輸送船団は、雷撃攻撃と判断、回避行動を取ろうとしたが、航跡を残さぬ反挑爆弾は避けきれず、次々に輸送船に命中した。攻撃開始十分にして全輸送船が被弾、炎上沈没した。戦果をあげた敵機は、30分後に引き揚げた。護衛艦隊指揮官座乗の駆逐艦は沈没、第18軍安達二十三中将の乗艦時津風は航行不能になった。安達司令官は、もっとも近いフィンシハーヘンかマダンへの上陸を希望したが、海軍側は残存燃料と海上漂流者の救助の都合でこれを拒否した。連合軍機は、輸送船への爆撃が終ると、漂流者や漂流舟艇の銃撃を執拗に繰り返した。51師団の全乗船者6千9百人のうち千2百名がラエに上陸、ラバウルに帰還したのは2千7百名で、3千名が死亡、行方不明となった。また輸送船に積んであった重火器、燃料、糧秣も海没し、第51師団の戦力はほとんど喪失し、日本軍の完敗に終ったこの海戦、ダンピールの悲劇として語り継がれている。
大本営は、この惨敗にめげることなく、さらにニューギニア進攻作戦に固執した。ニューギニアに新しい拠点を確保できなければ、南太平洋の要衝ラバウルの保持が困難となり、ラバウルが敵手に渡れば、連合艦隊の基地トラック島が敵の攻撃に曝される。大本営は、なおもニューギニア北部ウエワク、マダンに第20師団(朝鮮京城・青木重誠中将)を派遣、連合艦隊も、各空母搭載のすべての航空機をラバウルに集め、制空権奪回のための『い号作戦』の発動を決定した。このため第3艦隊の5空母から160機の艦上戦闘機と艦上爆撃機がラバウルに集められ、基地航空隊の190機と合わせて合計350機の大兵力がラバウル周辺の飛行場に集結した。その翌日の4月4日、山本連合艦隊司令長官も、トラック島からラバウルに駆けつけた。搭乗員たちを激励し、士気を鼓舞するためだ。
 『い号作戦』は、天候不良のため3日間順延され4月7日から開始された。
山本長官は、出撃する飛行機には飛行場で帽を振って見送った。戦って帰投した搭乗員を出迎え、戦果報告に立会い、反省会を傍聴した。『い号作戦』は順調に推移したとして、17日に終了した。その翌日、山本長官はラバウルの東200キロのブーゲンビル島ブイン基地を激励に訪れ、米軍機の攻撃に遭い戦死した。

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 (8)山本長官の戦死とアッツ島の玉砕
 
 山本五十六連合艦隊司令長官戦死の報は、遺骨を乗せた戦艦『武蔵』が東京湾に到着した5月21日を待って発表された。さらに5月29日には、アリューシャン列島のアッツ島の守備隊2千5百名の玉砕が発表された。
 つい数か月前まで報じられていたソロモン海戦の勝利だったが、連合艦隊司令長官の戦死や無敵皇軍の玉砕など予想外の悲報に、戦局の前途に不安を抱く国民が多かった。
 この頃、小学校6年生の筆者は、山本元帥(死後元帥)の戦死やアッツ島守備隊の玉砕をはっきり覚えている。一億国民を狂喜させた戦勝報道はわずか3か月しかつづかなかったのだ。あの戦争をふりかえると、空襲の恐怖、帰ってこなかった肉親、学徒出陣、体当たりの特別攻撃隊など、永遠につづくと思えた苦しく悲しい経験の始まりだったのだ。
 戦争が終って、多くの戦場に隠されていた真実が明るみに出た。山本連合艦隊司令長官の戦死は、日本海軍の暗号を解読した米軍の待ち伏せ攻撃だったという。またアッツ島は、1年前に惨敗したミッドウエイ海戦の陽動作戦として北海支隊がキスカ島とともに無血占領したが、8か月後に山崎保代大佐が守備隊長として潜水艦で赴任、米軍反攻に大本営は救援策を練ったが手段なくアッツ島放棄を決定、救援部隊を派遣せず、玉砕を強要した。アッツ島守備隊2千5百名は棄てられた部隊だったのだ。さらに占領秘話として、アッツ島にいた先住民族アリュート族40名を強制連行し北海道小樽に隔離した。アッツ島に居住させればアリューシャン列島の他島に駐屯する米軍に機密を通報する恐れがあったからだという。戦争が終って米軍に救出されたが、栄養失調などの病死者もでていたらしい。
 山本元帥の戦死につづくアッツ島玉砕のニュースは、日本国内に衝撃を与え、戦争の行方に不安を感じる子どもがいると、大人たちは慌てて必勝の信念をふりかざし、敗北の予感を打ち消していた。しかし、戦後の資料を見ても、山本元帥の戦死とアッツ島の玉砕で、日本敗北の扉がさらに大きく開いたのはまちがいない。
 それでも日本国民は、「撃ちてし止まん」と永遠の戦いを強いられていた。
 
 連合軍は東部ニューギニアのサラモワ南方ナッソウ湾に上陸してきた。同時にソロモン諸島中部レンドバ島(ガダルカナルの西200キロ)へも上陸、ラバウルへの締め付けを強化してきた。この時期、日本が成功させたのは、アリューシャン列島のキスカ島守備隊5千2百名の無血撤収作戦だけだった。米軍は全く気がつかず、誰もいない島を砲撃しつづけた。だが撤退作戦だから、あまり威張って発表できる作戦ではなかった。ソロモン諸島やニューギニアでも撤退がつづき、土砂降りの雨のような戦局になってしまった。そんな中で、ダンピール海峡で低高度反跳爆撃によって壊滅的な打撃を受けた第51師団は、ラバウルから増援を受け、ラエ、サラモアの防備を固める一方、ラバウルに近いフィンシハーヘンを補給中継基地として防備を固めていた。
 米豪連合軍が9月4日からラエ周辺に、駈逐艦、巡洋艦に護衛された60隻ほどの上陸舟艇で上陸し、中型機60機で空挺部隊をラエ北西30キロのマサブとマーカム川に降下させた。さらにオーエンスタンレー山脈を越えて、82機の輸送機に運ばれてきた落下傘部隊が降下してきた。ラエ、サラモアの第51師団は、完全に包囲されて進退窮まり玉砕を決心したが、第18軍司令官安達二十三中将は、「玉砕は不可。万難を排して撤退せよ」と撤収を命じた。包囲された51師団の退路は、標高4千メートルのサラワケット山を越えるしかない。峻険な山波は天然の要害となって米軍の包囲も寄せつけなかったからだ。フォン半島の脊梁山脈サラワケット山系を越えて半島北岸のキアリに至るルートが考えられたが標高4千メートルのサラワケット山系が問題だった。ラエからキアリまで直線距離で120キロ、ジャングルや湿地帯や断崖峡谷などの障害物を考えれば、距離は二、三倍にもなる。
 日本軍の中に一度サラワケットを越えた小隊がいた。半年前の3月、日本軍はフォン半島北岸からサラワケット山系を越えてラエへの補給が可能かどうかの調査を実施し、独立工兵第30連隊の北本正路少尉を隊長とする50名の特別工作隊を派遣した。北本少尉は慶應義塾大学陸上部出身で、マラソン選手として昭和7(1932)年のロサンゼルス・オリンピックに日本代表選手として出場している。北本少尉は、地形が峻険なので補給路とするのは無理だが、行軍路ならば可能であると報告していた。
 
 51師団は、補給、船舶などの周辺部隊、海軍兵など数千名に10日分の食糧を配った。サラワケットを越える所要日数を16日、10日分の食糧を食い延ばせというのだ。北本小隊を先頭に、米豪軍の監視を避け密林を伐採しながら進んだが、至るところに急流が流れ工兵隊が苦心して丸太橋を架けた。道は急な登りとなり、岩角や木の枝を踏み、草の根を掴んでよじ登った。落伍者が相次ぎ、後からくる者は無残な死体を目にした。
 野砲兵隊は山砲1門だけは搬送すると決心し、力を合わせて90キロを超える砲身を担いだ。だが食糧も十分に持っていけない将兵には山砲は大変な重荷で、師団長が放棄を命じた。分水嶺を越えても断崖がつづき、目前の対岸に渡るのにまる1日かかり、体力の衰えた兵隊は谷底へ転落した。兵隊たちは自分を支えるのが精一杯で、手を差し伸べる余裕はなかった。ラエ出発から2週間、全員の食糧が尽き、途中の畑から芋を盗み、木の芽や草の根を食べた。栄養失調者やマラリア患者が山頂を超えられずバタバタと倒れた。
 山頂は熱帯高地特有の湿地帯で、泥濘の中に鬼羊歯や丈の低い潅木、緑色の苔が生えていておびただしい湿気と霧であった。高山植物が華やかに咲き乱れ、その中に息絶えた死者がたおれていた。みぞれ混じりの冷風が吹き、夜は零下の気温で、寒気が体力を奪った。火を焚くにも焚木がなく、小銃の銃床を壊して焚きつけとした。凍死した兵も多かった。
 下りになっても、500メートルの断崖で転落者が続出した。
 キアリから救援部隊が、食糧と医薬品を担いで登ってきた。兵は何日振りかの飯と粉味噌と塩をもらい、ようやく生き返った。ラエ出発から3週間後の10月5日にキアリに先発隊が到着した。北本工作隊は救援隊とともに引き返し、現地人ポーターとともにキアリからサラワケット頂上近くまで捜索し、落伍していた将兵の生存者を収容し、ポーターが担いで山から降ろした。最後の兵が現地住民に背負われてキアリに到着、野戦病院に収容されたのは10月15日であった.ラエを出発した人数がはっきりしないが、陸海軍合わせて8千5百名程度と推定されるが、キアリに到着したのは7千3百名ほどで、戦闘はなく移動するだけで千名以上が失われた。さらにキアリ到着後に野戦病院に収容された将兵も多く、喪失した武器と兵力を計算にいれると、数倍の戦力を失った。
 さらに連合軍はフィンシハーフェンに上陸した。大本営は連合軍の次の狙いはラバウルと考え、第八方面軍司令官今村均中将は、ラバウルの自給自足を図るため、隷下の全部隊にジャングルの開墾耕作を命じた。だが連合軍の狙いは、ニューギニア東岸を北上してフィリピンを経由して日本本土を窺い、ラバウルはパスして孤立させることであった。

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昭和の大戦争 南條岳彦 copyright by Takehiko Nanjo 2010